第六章十一話 ナミの急襲

文字数 3,880文字

 カツミは悲愴な思いを抱きながら尾の(くさび)を指し示した。眷属として最もしてはならない反逆行為を自分は犯してしまった、という自責の念が胸中に渦巻いていた。この世の中がどうなってしまうのか予想もつかない。自分が犯した罪のせいで。
 そんなカツミの思いとは裏腹に、禍津神(まがつかみ)は一種キョトンとした雰囲気を身体中にまとっていた。カツミの言葉を推し量るように少し小首を(かし)げていたが、やがて口を開いた。
「尾の楔はどこにあるのだ?早く教えろ」
 何を言っているのだろう?と(いぶか)しく思った。湖面にニョキと姿を現している小さな(ほこら)を確かに自分は指し示した。周囲には他に該当するようなものは特にない。言わなくても理解できそうなものだが。もしかしたら巨大な木や鉱物などの杭状のものを想定していて、あまりに形状が想像と違うので気づいていないのだろうか。
「そこに小さな祠があるだろう。それだ」
 禍津神を睨みつけながらカツミは言った。こんなことはなるべく早く終わらせてしまいたい。
 禍津神の傍らで、何本もの水の槍に身体を貫かれた状態で宙に浮かんでいたタツミが、微かに呻き声を上げた。自分の行動を制しようと思っているのだろう。しかし、もう遅い。尾の楔のありかを教えたら、もう後は状況に身を任せるしかない。どんなに悪い状況になったとしても、兄妹三人一緒ならどうにかなる。きっと大丈夫。
「どこだ。我を(あざむ)世迷言(よまいごと)を吐くなら、この者を一息に粉々にしてやるぞ」
 湖面から更に鋭い水槍が伸びてタツミの身体を貫いた。タツミは声を上げないように必死に耐えたが、それでも呻き声が歯の隙間から洩れてカツミの耳朶(じだ)に伝わった。
「何を言う。そこにあるだろう。なぜ、それが見えない」
 そう言うとカツミは手に持った分銅を小さく回してから祠に向かって投げつけた。分銅は祠の石の土台に当たり、周囲にカツンと高音を響かせて、水面に落ちた。
 禍津神はその様子を眺めて、その場所に何かがあることは察したが、かといってそこには何も見えていない。試しに分銅が飛んでいった先に念を込めた視線を送った。
 空間が歪む。更に念を込めてみる。すると一瞬、祠の姿が現れた。自分の身体よりも小さなごくごくこじんまりとした祠。少し気を緩めるとすぐにその姿は消えた。
 この祠は頭の楔であった祠とともに龍神社(りゅうじんじゃ)として、古くより近隣の人々から崇められてきた。
 言い伝えによると、この臥龍川(がりゅうがわ)は古代に暴れ回っていた龍を、この地に鎮める際にできた。川の流れはその龍の身体の形そのもので、その頭と尾の場所に祠を建てて(まつ)ったのが龍神社の創建だと言われている。
 そのように人々に祀られているくらいだから人間にはその祠の姿はもちろん見えた。当然、眷属にも。唯一、禍の者だけがその姿を見ることができず、触れることもできなかった。恐らく周囲の結界と同じく神々の力で守られているのだろう。
 さて、どうしたものか、と禍津神が考慮しはじめた頃、横合いから、ううん、と小さな声が聞こえた。どうやら人間の女が目を覚ましたようだ。
「きゃー!ええ?何?」
 マコは目を覚ますと周囲を見渡し、自分の置かれた状況と傍らに立つ異形の者の姿を見て、思わず声を上げた。その声を聞きながら、まったく人間というものは騒がしい、と禍津神は思った。自分が取り込んだ人間たちも同様にその最期にはやかましく騒ぎ立てていた。騒いだところで命が助かる訳でもないのに、なぜこんなに騒ぐのだろうか?不思議に思いつつも傍らの不快な存在をさっさと災厄の所に送ってしまおう、と禍津神は思った。ただ、人間は(もろ)い。災厄のいる深層に達する前に死んでしまわないように守ってやらねばならない。何とも面倒な存在だな、そう思いつつ、禍津神は軽くマコに向かって手を振った。
 水面から水が伸びてマコの身体を覆った。周囲を取り巻き、丸い空間の中に彼女を閉じ込めた。マコは目が覚めて突然の展開に戸惑いつつも、なすすべもなく、その場に座り込んでいた。やがてマコを覆う空間は彼女を包んだまま、水面下に沈んでいった。
 許せ、と心中で呟きながらカツミはその様子を眺めていた。自分たち眷属は民を守らなければならない存在、であることは重々承知している。しかし、それよりも兄を助けたい思いが勝っていた。ここは見逃す外はない。そう、自分に言い聞かせながら情景を眺めていると、禍津神の背後で小さく波が立った。誰かいる、直感が彼にそう告げていた。
 気づかれていない、ナツミは確信していた。このまま兄様のいる水槍の下まで移動して、一気に粉砕して兄様を助け出す。なるべく目立たないように、慎重に進んでいた。もう辿り着く、あと少し、今!
 ナツミは変化(へんげ)してから鎖鎌(くさりがま)をしっかりと手に持ち、一気に水面に浮上した。目の前に何本もの水槍。一撃で粉砕してやる。そんなナツミの視界の端に赤い目があった。じっと自分の方を見ている。気づかれていた、そう悟ったが、もう後戻りなどできない。自分が吹き飛ばされる前に、兄様を……。
 カツミは突然現れたナツミの姿、そして妹に向かって攻撃を加えようとする禍津神の気配を察してすぐに分銅を投げつけた。しかし、間に合わない。走り出す。こっちを向け!鎌を振りかぶりながら禍津神に駆け寄る。間に合ってくれ、と念じながら。
 そんなカツミの頭上を吹き過ぎる一陣の風。
 それは一瞬だった。
 自分に近づいてくる気配を感じてとっさに禍津神は正面に向きを変えた。すると目の前に女性の細いヒジ。避けようと横に向けた顔にそのヒジが当たり、めり込んだ。顔から頭にかけて大きく(えぐ)られたようにへこむ。禍の者に痛覚はないが、禍津神は衝撃を感じ、それを苦しいと一瞬感じた。そして目の前に、それも一瞬だけだったが、先頃、会ったことのある正体不明の女の冷徹な表情を見た。
 ナミは禍津神の後方に飛んでいくとすぐに急停止して、振り返った。そして左手を前に伸ばして禍津神に向けた。その先の肩辺りがぐにゅと変形して渦をなしていった。
 その間に、ナツミは飛び上がり様、一気に水槍を鎌で()ぎ払った。タツミに突き刺さっていた槍の先は折られると同時に元の水に戻り、落ちていった。
「ナツミ、兄者を抱えて逃げろ」
 カツミの投げた鎖がナミが飛び去ったすぐ後、禍津神の首に巻きついた。カツミは妹に声を掛けながら鎌で禍津神に襲い掛かる。
「早く行け!」
 落ちてきたタツミを受け止めると、ナツミは断腸の思いで次兄に向かって叫ぶように声を上げた。
「カツミも逃げて、すぐ!」
 禍津神が振り返る気配を見せたので、ナミは左手を引いて横に飛んだ。あの目に見られると衝撃波に襲われる。先の争いで経験済みだった。禍津神の肩は渦を成していたが、その機能を失うほどには変形していないようだった。奇襲攻撃で何とか相手の攻撃能力を削る予定だったが、思ったほどにダメージは与えられていない気がする。更なる攻撃が必要だった。視線を避けながら攻撃をし続けないといけない。しかも情動を押さえて、落ち着いて、冷静に。
 アナとの通信を終えたその時、女性の叫び声が聞こえた。ナミはすぐに宙に浮かんだ。すると視線の先に人影。数人いる。その中の一人がマコであることをその着ている寝間着の色合いから察した。その横に盛り上がった水の上に立っている異形の者。姿こそ違うが、自分たちを襲撃した鳥男と同種の気配をまとっている。あいつが元凶だろう、そうナミは察した。するとマコの姿が水に包まれて消えた。そして水面に沈んでいく。慌ててナミは一気に速度を上げて飛んでいった。
 間に合わなかった、そういう思いがナミの胸中に渦巻いている。しかしそれに情動を乱されてはいけない。極めて感情を抑制し、理知的に思考する。その上で、この相手を倒し、マコを救い出す。
 ナミが次の攻撃のために、禍津神の隙を得ようとその周囲を飛び回っている。その間に、カツミが水面から飛び上がり、手にした鎌で禍津神に襲い掛かるが、その間際、禍津神が一気に空中高く飛び上がった。
 カツミは予想外の出来事に慌てた。鎖の端は禍津神の首に巻きついている。逆の端は自分の手に持っている鎌に繋がっている。自然、カツミは空中へと引っ張られて浮いた。
 一瞬、カツミは、このまま空中を飛び続けるか、武器を諦めて水面に戻るか迷った。が、更に禍津神が空高く飛び上がっていったので、諦めて鎌から手を離した。けっこうな高さから落下したが、水面に叩きつけられる寸前、青い蛇姿に変化し、ポチャンと軽い水音を立てながら着水した。
 禍津神は空中高く飛翔すると周囲を()め回し、ナミの姿を見つけると口を開き一声放った。それにともない、水中から先の尖った水槍が無数にナミに向かって伸びてきた。ナミはそのすべてを避けながら高速で水面を飛んだ。その姿が禍津神の苛立ちを掻き立てる。なぜ思い通りにならない。なぜ、あの女は我の意志に従わない。間違っている、あの女も、眷属たちも。力を持たない者は、力を持つ者に従わなければならない。そうやって世の中は回っていく。能力や智慧を持たない者が、持つ者に抵抗すれば、停滞を招くだけだ。持たざる者は持つ者の意志を実現するための駒になればいい。そのくらいしか役には立たないのだから。禍津神の脳裏に災厄の神の記憶からにじみ出てくる言葉が流れていた。抵抗する者は排除しなければならない。世の中を維持していくために。
 禍津神の目に宿る赤い光が強く鋭く輝いた。そして、首に巻きついた鎖を片手で引きちぎると瞬間的に空中を移動した。ナミに向けて一直線に。
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