第五章二話 湖の底から

文字数 4,107文字

 この水底から脱するために浮き上がらなければならない。
 そう考えたとたん、周囲の水が動き出した。全身にまとわりついて上に持ち上げようとする。試しに横に動く、と念じるとその通りに動く。すべての水が自分の意思に従って動いている。水が味方をしてくれている、そう確信した。
 ちょっと楽しくなった禍津神(まがつかみ)はしばらくの間、湖の中を縦横無尽に泳ぎ回った。心地よかった。自分の思い通りに動ける自由、そして望んでいたよりも遥かに強い力を手にした高揚感。そうだ、更なる自由を手にしなければ。誰にも制限されずにもっと広く、もっと遠く、もっと深く移動できる自由を。
 意を定めて、水面へ、と念じると凄まじい勢いで水が動いた。そして上昇していった。

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 それは夜の静寂(しじま)の中、水面にポツンと浮かんでいるように見えた。
 もともとそれは川岸の高台になっている場所に設けられていた。石を組んだ台座の上に鎮座する小さな(ほこら)。その中はタツミも見たことがない。郷の人間たちの中では、同様の小さな祠のていで(まつ)られていた川上の頭の(くさび)とともに、臥龍川(がりゅうがわ)の下に鎮まる龍神の御霊(みたま)を祀っていると言い伝えられてきた。しかし実際は、この郷を守護する最重要な要である楔を神格化して祀っている祠だった。
 この楔がなくなれば災厄は力を解放する。その力がどのようなもので、どの程度のものなのかは分からない。分からないがけっしてこの郷にとっても民にとってもこの国にとっても良いことはないのだろう、との認識をタツミを含め八社の眷属たちはみな持っていた。
 ただ……時折、タツミは考えることがある。自身が仕える三輪明神、大物主神(おおものぬしのかみ)はかつて災厄神とも言われていた。ちゃんと祀れば国に平穏をもたらすが、祀られなければ民を根絶やしにするほどの力を発揮して災いをもたらす、そんな神。他の郷内八社に鎮座する神々よりもこの湖の中に鎮まっている災厄に近い存在なのかもしれない。伝承では災厄は龍の姿で人々の前に現れるという。我が大神は蛇の姿で顕現する。龍と蛇はよく似通っており、同体とも言われる。そういったことからも、ふとした拍子に災厄に親しみを感じてしまう自分を見出してしまう。
 災厄はもう千年以上もの間、地底深くに鎮められてきた。その身体はもはや朽ちて姿をなしておらぬかもしれぬ。もし、そうなら無理に抑圧するのではなく、解き放った上できちんと祀ればいいだけの話ではないのだろうか。何なら()が大神様のお社に合祀(ごうし)して、お鎮まりいただくのも良いかもしれない。どうせ我が大神様は山にばかりおられて社にはおられぬから……。
「兄様」水面に(たたず)むタツミの背後からナツミが声を掛けた。「どうかされましたか?何か異変でも」
「いや、何でもない」そう答えながらタツミは、ナツミとその後方から近寄ってくるカツミの姿を見て、村に帰ってろって言ったのに、まったくいつも身勝手な行動ばかりして、しょうがないやつらだ、と嘆息した。
「しかし、いやに静かだな。虫の声すら聞こえない。さっきから風もやんでいる。嵐の前の何とやら、って感じだな」ナツミの横に並び立ちながらカツミが緊張感のない声を上げた。
 そう言われれば、そよとも吹かない風、時が止まったかのような無音の状況には一種、不穏な雰囲気が感じられた。これも頭の楔がなくなったせいだろうか。しかし分からないことを考えてもしょうがない。どんなことが起きても対処できるように今できることをするしかない。
「異変は見られない。楔は健在だ。明朝には他の社の眷属たちがやってくる。どの程度の人数かは分からぬが、楔の守護はその者たちに任せることになる。それまで我らで不測の事態が起こらぬように守護せねば。我は明朝までここにおる。カツミはお社に戻り、村内に現れる(まが)い者への対応をしろ。もし、大神様がお社に戻られたら現況をご説明申し上げろ」
「大神様をお社にお(くだ)し奉る祭典はしなくてもよいのか」
「そんなことは、もう何度もしておる」タツミはぼそりと呟くように言った。
 三輪神社には神が鎮まる本殿(ほんでん)がちゃんと建立(こんりゅう)されていた。しかし三輪明神は本殿に鎮まることを良しとせず、その後背にそびえる三輪山に自ら座を遷した。そしてたまに里に降りてきて社に鎮まった。しかしそれも束の間で、基本的には山中におわしますことの方が多かった。
 そんな神をタツミは度々社に降した。例祭(れいさい)と言われる大きなお祭りやお伺いをどうしても立てねばならない重大事が起きた場合などに、神饌(しんせん)を供え、降神(こうしん)(ことば)奏上(そうじょう)し、社に神の御霊を招いた。以前はそのタツミの声に、神は応じて本体でなくても分御霊(わけみたま)を社に降していた。しかし最近、特に地が揺れてからは、一切応じてくれる気配すらなくなった。可能性は極力低いけれども神の身に何か起こったのかとタツミは心配したし、繰り返し奏上しても何の応答もない日々に虚しさと心細さを感じていた。確かに山中におわしましても自分たちの奏上する声は届くだろう。しかし、それをちゃんと聞いてくれているのか分からない。宣下(せんげ)の声は自分たちには届かない。正直、少し自分たちが見捨てられたような気がしていた。
「とにかく、村のことは任せた。頼むぞ」そんなタツミの声にカツミが明るく、任せてくれ、と返答した。
「兄様、うちはどうしましょう。ここにいてもいいですか」
 ナツミは目を大きく開いてジッとこちらを見ている。自分のことを信頼しきっている目だ。そうだ、例え大神様が応えてくれなくても、自分には弟妹がいる。それに何万匹というカガシたちもいる。この郷中にカガシたちを放っている。情報に関しては他のどの眷属よりも早く大量に得ることができる。どんなことが起きても後れをとることはないはずだ。
「そうだな。そちは我とともに他の眷属たちを迎えよう。礼儀正しくするのだぞ」
「あい!」と嬉しそうにナツミは返答した。

 カツミは、再び蛇体に変化(へんげ)してその青い身体をくねらせながら川を下っていった。人の姿でも水面や水中を移動できるが、蛇体の方が速いし、人に気づかれる可能性も低かった。
 どこまで進んでも静寂が辺りを支配している、不気味なほどに。カツミはあまり周囲を気にするたちではなかったが、そんな彼でもそこはかとなく胸騒ぎを覚えていた。しばらく進むうちにだんだんと胸中の騒がしさが募ってきて無視できぬほどになってきた。そして、ふと背後から変な気配を感じた。何か嫌な予感を惹起(やっき)する気配。彼はとっさに反転して兄妹のいる湖に引き返した。

 それは唐突だった。
 湖の中心部が何の前触れもなく、急に盛り上がった。その一点に水が集まり周囲の水嵩(みずかさ)は減り、今まで土台の半分は水面に没していた楔の祠もそのすべてを水面に(さら)した。驚きとともにタツミとナツミは盛り上がる水面に視線を向けた。
 湖の中心部まではかなり距離があった。しかし離れていてもしっかりとその様子が分かるくらい、その盛り上がりは大きかった。そして次第に高く長く空に向かって伸びていった。
 離れていても見上げるほどに高くなるとその先端から、土気色の何かが姿を現しはじめた。
 土気色、禍い者か?まったく予想もしていなかった事態にタツミは全身を緊張させ、腰に吊るした(くさり)を手に取った。その鎖の先のそれぞれには重い分銅と(かま)がつけられている。その横でナツミも腰に吊るしていた鎖を手に取った。
 その鎖には分銅も鎌もついていない。ナツミは当然のように兄たちと同じ武器を使用したがったが、鎌は危ない、分銅は重いからと言って主にカツミが反対してつけてもらえなかった。とにかく敵に遭遇したら、相手の身体や武器に鎖を絡めて即座に逃げるか、それが無理なら鎖を振り回して相手との距離を取るようにと(さと)された。ナツミは最近、そんな心配ばかりするカツミを鬱陶(うっとう)しいと心底思っていた。そんな彼女の横合いから声が聞こえた。
「ナツミ、すぐに結界の外に逃げろ。カツミに報せて村の防備を固めよ、行け」
「いやです。うちも戦います」
「バカ、言うことを聞け」
「……」
 盛り上がった水の上に、遠目に形は人間に見える土気色の姿、その全身が現れた。ただの禍い者ではない。その土気色から発せられる気を感じて、そうタツミが察した次の瞬間、その土気色が水の上に乗ったまま、もの凄い速さで二人に向かって近づいてきた。
 これは、もしや禍津神、そうタツミが思った時にはすでにそれは眼前に迫っていた。とっさに鎖を大きく振って分銅をそれに投げつけた。
 鎖は一直線に禍津神に向かって伸びていき、分銅がその顔面に当たると思った瞬間、湖面から水が細長く(むち)のように伸びて分銅を弾き飛ばした。
 水が自ら意思を持っているように動いた?タツミは自身の性質上、水には親しみ馴染(なじ)んできた。しかしこのような動きをすることなど思いもよらなかった。この禍津神は驚愕すべき力を有している、と察した。
「ナツミ、逃げろ、早く」
 タツミは姿勢を低く構え警戒しながら声を上げた。到底敵(とうていかな)う相手ではない。しかし妹を逃がす時間だけでも稼がなければ、そうタツミは覚悟を決めた。
 ナツミも眼前の物体の強い力を、その気配から察していた。でも、兄を置いて逃げることにためらいを感じた。どうにか自分が手を貸して二人で逃げることができないだろうか。
 禍津神はじろりとその視線を二人に向けた。その顔は馬のように前面に張り出し、鹿の角のような突起が頭の上に伸びていた。身体は筋骨隆々とした人間のようだったが、その背中の下からは太く長い尾が伸びていた。
 龍神?災厄か?いや、こんなに小さいはずはない……では、禍津神か。しかし、ただの禍津神ではない。
 その外見から瞬時にそこまで考えていると禍津神の目がカッと見開かれた。その目は暗闇の中で真っ赤に光っていた。タツミもナツミもその赤い光から目が離せなくなった。
 一瞬、その赤の光度が上がった、と同時にタツミの身体が背後に弾け飛んだ。水の上を滑るように遥か遠くまで。そして湖面から突き出ていた大木の幹に身体を打ちつけて止まった。大気を震動させるほどの激しい打撃音。
「兄様ーッ」叫びながらナツミは兄の後を追った。
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