第六章八話 神様の負の感情

文字数 4,241文字

 対岸に渡りきると玉兎(ぎょくと)が珍しく深刻な顔つきをして言った。
「すまない。俺はこいつを村に帰さないといけない。きっとこいつは一人じゃ帰らない。どこまでもついてくる。だから俺はいったんこいつを連れて村に帰る。神にこいつを預けたらすぐに戻ってくるから、お前たちは先に行っておいてくれ。そこに見える(いただき)が尖った山、その西側の麓に三輪神社の社殿がある。きっとみんなはそこにいると思う。途中、道は分かれているがあの山を目指していけば迷うことはないだろう」
 玉兎の横に、人型に戻って並び立っているマガは、あからさまに不機嫌な顔つきをしていた。
「マガ、一人で帰れるし」
「そうだな、確かにお前は一人で帰れるだろう。けど決して一人では帰らない。それは俺が保証する。お前は決して帰らない」
「ふう、信用ないな」
「お前のどこに信用する要素があるんだよ」
 そんな二人の会話を聞きながら、タカシは計ったようになだらかな円錐形を描く秀麗な山容を見つめた。もうそんなに距離はないようだ。確かにあの山の形は他の山とは一線を画す美しさがあり、遠目からも目立つ。あの山を目指して行けば迷うことはないだろう。しかし一抹(いちまつ)の心細さは残る。土地のことをよく知る玉兎の存在は、それだけで心強いものがあった。ここからは見た目、無力にしか見えない少女を連れて何が起こるか分からない状況に足を踏み入れていかなくてはならない。自分がしっかりしないといけない。
「分かった。ここからは二人で行く。また用が済んだら戻ってきてくれ。マガ、ありがとう。助かったよ」
「うん、また。きっとすぐに会えるよ。マガの勘はよく当たる。きっと、すぐにまた会える」
「ああ、そうだね。じゃ、また」そう言うとタカシはリサを連れて再び道のりを歩みはじめた。
 美和村の北部を南下していく。分かれ道を三輪山に向かうと途中で舗装が途切れた。進むほどに平坦さが減っていく。所々、大きな石や木の根が自己主張している場所もあって、時々タカシは振り返り、自分のすぐ後ろを歩いているリサに注意を促した。そんなことをしている間にふと、タカシは違和感を抱いた。リサが少し大きくなっているように見える。さっきまでは小学三、四年生くらいに見えていたが今は五、六年生くらいに見える。身長も伸び、何となく幼さが薄れたような。
「どうか、しました?」自分を見つめているタカシを(いぶか)しんでリサが控え目に訊いた。
「いや、ここに木の根っこがあるから、気をつけて」少し困惑しながらタカシが答えた。
「はい」と言いつつリサが微笑んだ。表情も先ほどから比べると色濃くなったような。それにさっきまでよりその微笑みにリサを感じた。現実世界のリサの面影が濃くなっている。きっと気のせいだろう、陽が高くなって光の具合でそう見えるだけだ、とは思ったが、釈然としない。こんな短時間で成長するはずがないのだが。
 目指す三輪山は近づいてもその威容は変わらず美しかった。途中、分かれ道はあったけれどそれほど数がある訳でもなく、あからさまに違う方向へと向かう道ばかりだったので、ほぼ迷うことなくタカシとリサは進むことができた。やがて、その威容を見上げるほどに近づいた。後は西側の麓に回れば目的地に辿り着くはずだった。歩むほどにタカシのまとう緊張感が濃くなっていく。やがて、石鳥居の笠部分が木々の中にポツンと現れた。ほっとして更に近づいていくが、行く先に、何やら不穏な空気。ごそごそと大量の何かが(うごめ)いている音。

「私は行くから。後は任せたわよ」そう言うと、再び小鳩(こばと)に変化したヨリモを先導にナミはさっさと飛び立った。
 残されたルイス・バーネットは、肩を貸している消耗しきった状態のマサルがいるために後を追うことができない。とりあえず社殿の中まで引きずるように連れていき、板敷きの上にマサルを横たえた。
「見ず知らずのお方に、お手数を掛けて……誠に、申し訳ありません」呻き声とともにマサルが呟く。
「君の傷はどうしたら治るんだい?蛇の毒にやられたのかな?」
 全身が黒ずんで見える。カガシたちに噛まれた跡が、濃い赤紫色に変色している。どう見ても健康体には見えない。蛇の毒が眷属にも効くのかどうか不明だったが、よい影響は及ぼさないことだけは見ればすぐに分かる。
「カガシたちは……三輪明神の負の思いが、具現化したものと、伝え聞いたことがあります。だから、その毒は……神々の分身であります我々にも、影響を、与えるのでしょう。その治し方は、恐らく、三輪明神か、その眷属しか知らないと思います」マサルが苦しそうに呻いた。その声に、もうあまり猶予は残されていないことをルイス・バーネットは察した。
「そうか、分かった。ここの神様は姿を現してくれそうにないから、とりあえずここを出て眷属を捜してみよう」
「ここを出るって……カガシたちに、周囲を取り囲まれている、のではないのですか?どうやって」
「そうだな、君の仲間たちに協力してもらうよ」
「無理です。彼らは……他人の言うことを、聞きません。自らの保身に……関係のあること以外、何を言っても聞く耳を……持ちません」
「大丈夫。君みたいに軍を率いたことはないけれど、学生時代、部活の部長くらいはしたことあるから」
「部活?部長?」と言うマサルをゆっくりとその場に横たえてから、静かにルイス・バーネットは社殿から外に出た。周囲に蠢く恐らくカガシだろう気配が先ほどよりも濃密になっていた。負の思いと言っていたが、ここの神はどれだけの負の感情を抱えているのだろうか、と彼は訝しんだ。見える範囲だけでも姿を現しているカガシたちは相当な数だった。実質その何倍も周囲にいるのだろう。その層を突き崩さない限り外には出られそうにない。
「ねえ、君たち」と社殿前の広場で円形に固まって周囲に警戒心を撒き散らしている僧兵たちにごく軽い調子でルイス・バーネットが声を掛けた。僧兵たちが一斉に彼の方に視線を向けた。
「君たちの仲間が蛇毒(へびどく)にやられて、かなり深刻な状態だ。すぐにでもここを脱して三輪神社の眷属を探し出さないといけない。みんなで協力して脱出路を開こう」
 仲間の危機と聞いて、いくら薄情な奴らでも少しは悩むかと思った。いくら怖さが勝っていてもどうにか仲間を助けたいと思うものだと思っていた。しかし、彼らは即座に、反対意見を口にした。
「これほど囲まれていては不可能だ。無理して突破しようとしても犠牲者が増えるだけだ」
「そもそもあの若造が無茶なことをして三輪明神の逆鱗(げきりん)に触れてしまったから、こんなことになったんじゃないか」
「そうだ自業自得だ。我々には関係ない」
「そうだ、滅するなら勝手に滅したらいい。我々は戻って寺院を守護せねばならない」
「逆にあの若造が滅した方が、三輪明神の怒りが解けて助かるのではないか」
「そうだな」
「そうだ」
「それがいい。それまで大人しくして、これ以上、犠牲が出ぬようにしなくては」
 聞いていてルイス・バーネットは自然と一息長く吐いた。
「皆さんの意見はよく分かりました。それならば仕方がありません。無理矢理にでも従ってもらうしかないですな」
「何?」一瞬、僧兵たちが殺気立った。
「やめておいた方がいい。僕はあの蛇たちよりも格段に強いから。例えばこんなこともできる」
 彼は僧兵たちに正対し、それまで(たた)えていた微笑を消し、右手のひらを僧兵に向けて言の葉を発した。
「我より出ずる言の葉に宿りし霊魂が(なんじ)らの言動を規定する。我の言の葉に従い、行動せよ。汝らは我の指示により周囲の蛇たちと対峙し、退ける。背くことなく速やかに(めい)に従い動け」
 僧兵たちの脳裏にルイス・バーネットの声が入った、そのとたん、他の音が消えた。唯一、その声だけが聞こえる。そしてその声に従わなくてはならないという思いで身体中が満ちてきた。従うことが当然に思えた。抗うことに強く違和感を感じるようになっていった。数秒後、ルイス・バーネットは僧兵たちの全員が抵抗をやめて自らの支配下に入ったことを確信した。そして周囲を見渡し、包囲網の一番突破しやすそうな場所を捜した。その結果、正面がカガシたちの層は厚いが、僧兵たちにとっては一番戦いやすい場所に思えた。それなら、と声を発した。
「さあ、正面突破だ。いくぞ、突撃!」

 タカシとリサが参道を求めて境内正面に回っている頃に、突然、社殿の方から集団の雄叫びが聞こえてきた。何かが起きている、とは思ったが、何が起きているのかは、分からない。とりあえず状況を窺うことができる場所まで移動しよう、二人はそのまま周囲に気を配りながら境内の正面入り口に向かった。
 それほど広くない境内、鳥居の奥に十数人の僧兵が大量に蠢く黒く細長い物体と交戦している。後から後から襲い掛かってくる蛇たちに一心不乱に対抗する僧兵たち。恐れも戸惑いも一切感じていない様子で薙刀(なぎなた)を振り続けている。その奥にチラリとルイス・バーネットの姿が見えた。向こうからもこちらの姿を認めたようで、いつもの微笑みを向けてきた。
 石の鳥居には「三輪神社」と彫られた石額が掛かっていた。ここで間違いない。ここにマコちゃんがいるかもしれないし、他の仲間たちだっているかもしれない。とにかく境内に入らなければ何もはじまらない。
 僧兵たちはルイス・バーネットの指示で動いているようだった。それなら味方なのだろう。彼らは、ただ一心にカガシたちを退けている。しかし、その層が薄くなったとはいえ、後から後から湧くようにカガシたちは集まってくる。危険を感じてはいたが、このまま待っていても(らち)が明かないような気がする。それならカガシの気がすべて僧兵たちの方へ向いている今、突破するしかないんじゃないか。タカシがそう思っているところに一瞬、カガシたちの層の間に一筋の道が見えた気がした。それは、まごうことなき直感。今行けば駆け抜けられそうに思えた。ここで逡巡してしまえば、二度と踏ん切りがつかなくなるかもしれない。タカシは覚悟を決めた。
「リサ、行くよ」振り返りながらそう言うタカシの目を見て、リサは一瞬戸惑いを感じたが、でも、この人を信用してみようと思った。任せてみようと思った。だから頷いた。
 タカシが左手でリサの右手を取った。その瞬間、足の先から頭の先に向かってぞわっと何かが沸き立つ感覚を覚えた。感覚が研ぎ澄まされる。力が(みなぎ)ってくる。恐れや戸惑いを忘れた。ただ目標に向かって突き進むことしか眼中になくなった。
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