第十二章四話 苦行のはじまり

文字数 4,967文字

 下から見上げる急峻な峰の姿、どこにも気を休める場所などなさそうな険しさばかりが目につく。全体的に、岩石が露出しており、峰自体が、生半可な気持ちで入ってくるなと警告しているような暖かみのない色合い。時折、打ち付けるように吹く風も乾いており、標高が高いせいか寒々しい。その山容にちょっとの間、踏み出す足を躊躇(ちゅうちょ)しているタカシを尻目にマサルとクロウがさっさと先へ進んで行く。
 第一の峰、多聞峰(たもんほう)はゴロゴロとした大小の岩だらけだった。多少の樹々は生えていたが岩々の勢力に()され(いただき)に近づけば近づくほどその数を減らしていた。道らしき道などない。小さな岩の重なりに足を取られ、背丈ほどの岩をよじ登り、先を進む。
 時々、そこの岩は揺れるので気をつけてください、とか、つる草は太くても突然切れることがあるから、掴むなら木の枝の方がいい、とかマサルやクロウが登り方を指南した。そのお蔭かタカシは何とか頂付近まで登り切ることができた。そこからは下り坂。後ろを見下ろすと先ほどまでその中にいた濃い霧が雲海となって広がっている。
 岩々が急斜面にへばりつき、重なり合っている上をマサルもクロウもとんとんと跳んで降りていく。しかしタカシはそうはいかない。足を踏み外せば、岩の上を転がり落ちそうな急斜面なのである。当然、足がすくむ。そろそろと一歩々々確かめながら下りていく。時間を掛けて何とかある程度まで下り切るとそこからはまた登り坂になった。
 第二の峰、思惟峰(しゆいほう)は一つの巨大な岩石がそそり立っているような姿で、多聞峰より標高がほんの少し高く見える。そんな岩壁状の山肌に、やっと人が一人通れる程度の急角度な登り坂が頂上付近まで伸びている。どこにも草の影さえ見出すことができない殺伐とした道のり。更には、ここにきて急に風が出てきた。断続的に吹く強い風、吹いてやんだかと思うと、また突然、叩きつけるように吹く、そんな風。
 マサルは峰の高みへと続く細道をさっさと登っていく。まるで平地の大通りでも歩いているような後ろ姿だった。
「今回は、我が空中で待機してやる。落ちる心配はないから安心せよ」というとクロウは羽を広げて浮かび上がりタカシの進行を待った。タカシは覚悟を決めて登攀(とうはん)をはじめた。
 しばらく行くと足がすくんだ。正直、怖い。道は細くて、所々、滑る。手綱などなく山肌に身体正面を向けて横歩きに進むが、握る岩壁の突起や割れ目から手が離せない。それに時折、吹く風。気を抜けば彼の身体など軽く宙に持ち上げてしまいそうな勢いで吹いてくる。恐ろしくて中々進めない。彼自身は早く前に進まなくては、という意志を持っていたが、身体が危険を察知して、抵抗していた。自らを守るためにこれ以上、先に進むべきではないと頑として進行を拒否していた。先を行くマサルに、待ってくれ、と声を掛けたい。しかし、声が出ない。喉の途中に大きな丸い異物が留まっていて、それに邪魔されて声を出すことができない感覚。
「最初は怖いよな。しかし、その道は普通に歩ける程度の幅はある。吹く風も正面から受けなければ飛ばされることはない。その道が横に崖などない、ただの細い登り坂だと思うのだな。そなたを歩けなくしているのはそなたの怖いと思う気持ちなのだから」
 (おび)えているタカシの様子が面白いのだろう、そういう雰囲気を醸し出しながらクロウがタカシのそばで宙を飛びながら言う。
「我ら空を飛ぶ者は、風を読み、風の力を利用して飛ぶ。風を差し(さわ)りと思えば、先には進めぬ。風を読むことができれば、やがてはそなたの力にもできるだろう」
 タカシは風に集中した。風は今、峰の頂から吹き下ろしてきている。壁を持つ手を離せばすぐに引き剥がされそうな状況。風を読むどころの状態ではない。ただ、すぐ側でクロウが補助してくれているし、次からは一人で登攀しなければならないことを考えるとここで克服しておかなければならない気がする。だから、彼は岩壁から手を離し、行く先に正対して立った。その途端、ふっと音がして吹き下ろしの風が彼を襲った。とっさに身体が強張る。岩壁にしがみつこうとする。しかし逆に、風に押されて崖に向かって身体が傾く。あっと思った瞬間、軽く肩を押された。クロウがすぐそこにいて支えてくれていた。彼はまた元の進行方向に正対した姿に戻っていた。
「樹々はしなって風を流す。身体を硬直させていると飛ばされてしまうぞ。風が吹いたら柳の枝のように受け流すのだ、身も心もな」
 タカシは声が出せないので、黙ってすぐ横にいるクロウに頷いた。身体を硬直させずに、身も心も柔軟に、風をやり過ごす、と自分に言い聞かせながらタカシは再び進みはじめた。
 それから何度かタカシは落ちかけて、その度にクロウに助けられた。しかし、そのうち何となくコツが掴めた気がした。聴力に集中していると、風が吹いてくる前には少し前兆があった。頂から山肌を撫でる微かな音が聞こえてきた。突然だとどうしても身体が硬直してしまわざるを得ないが、ほんの一瞬でも事前に分かれば対処のしようがあった。そして、道の先で待つマサルのもとにたどり着く頃には何とかクロウの手を借りずに道を歩くことができるようになっていた。
「どうだい。我の的確な指示により、かなりうまく登ることができるようになっただろう」とクロウが嬉しそうに言う。
「そうですね。慣れたことで順応できるようになったみたいですね。まあ、肝心なのは意識して慣れることでしょうけど。予想よりも早く対応してくれました」とマサルが言う。
 そこからは下り坂になった。山肌に蛇行するように道が伸びている。風は今までとは逆に吹き上げてくる。
「ここからは急な下り坂。風が身体を支えてくれますが、あまり身を任せ過ぎないように」そう言うとマサルさっさと下りはじめた。タカシも続くがこれまでの登攀でかなり体力を使っている。足の力加減も難しくなっている。気を許すとあまりの急な下り坂に速度の抑制ができなくなる。しかし吹き上げてくる風がうまく身体を支えて速度を抑制してくれた。これが風を利用することかな、と思いつつ進んでいると、急に風がやんだ。それまで風に身を任せていたせいで、急にバランスが崩れて細道から落ちかける。そこをクロウが横から支えてくれた。
「調子に乗って身を任せていると足元をすくわれるぞ。風には風の都合がある。いつまでも自分の都合良く吹いてはくれぬ」
 ちゃんと事前に言われていたにも関わらず、危うく崖から落ちかける失態。タカシは声が出ないために弁明することもできずにただ頷く。道の先で立ち止まりマサルがこちらをじっと見ている。表情には出ていなかったが、何とも危なっかしいと思っているのだろう。タカシは再度、歩きはじめた。今度は少しも気を許さないように、気を張って。
 そのうち、坂を下りきった。またそこから登り坂。
 第三の峰、修行峰(しゅぎょうほう)は先の二峰よりも更に高く、更に切り立った山容の峰で、もう道と呼べるものは欠片もない。あるのは上から垂れる鎖のみ。更なる苦行の予感。この疲れ切った身体で登りきれるのかどうか、タカシには不安しかなかった。

 ――――――――――

 春日宮境内の跡地、マコに宿った災厄の分御霊(わけみたま)が起こした怒濤により、流木や破壊された建造物の建材などが折り重なって点在する、辺り一面の荒地の中、ナミとルイス・バーネットは、両手に剣を構えた如月(きさらぎ)と対峙していた。
 ナミたちの背後にはリサが、地に倒れ伏している妹の前面で小刻みに震えていた。

 そうなる少し前、妹の助けを求める声を聞いて、リサは決心していた。
 今まで、マコにはよくダメ出しされた。お姉ちゃんはそんなんだから友だちができないんだよ。お姉ちゃんも、もうちょっとオシャレしたら可愛いのに。お姉ちゃんは自分から男の人を避けているから彼氏ができないんだよ。そんなことをちょくちょく。でも、それが当たり前すぎて、マコが私をよく理解してくれていること、私のためを考えてくれていることに今まで思いいたらなかった。きっと、もっと、私はマコを大切にしないといけない。やっぱり、マコが大変な時はどんな状況でも助けてあげなくちゃいけない。たった一人の妹なんだから。
 ――娘、本当にいいのだな。思い直すなら今しかない。災厄の分御霊が入ってきたら我はここを弾き出されるだろう。後は一人で災厄の本体と向き合わなければならなくなるんだぞ。
 自分の中にいる恵那彦命(えなひこのみこと)の声。
 もう、いい加減、怖がらせるのはやめてほしい。この神様が私のことを考えて言ってくれているのは分かるけど、決心が鈍る。ただ、やっぱり助けてほしい。見捨てないでほしい。
「恵那彦命様。私は妹を助けます。もう決めました。でも、これからどうしたらいいのか分かりません。正直、すごく怖いです。だから、助けてください。とても都合のいいことを言っているのは分かります。でも、頼れる神様は恵那彦命様しかいないから」
 恵那彦命の脳裏にかつて海辺の村で交流した民草(たみくさ)との思い出が蘇った。自分が他の神々より民草に甘いことは分かっている。民草の一人の存在より、村や地域の安寧を優先せねばならないことも分かっている。しかし、多数のために一人を見捨てるのは何とも切ない。自分の力量が微小なために助けられない民草がいることがあまりにも無念に思える。それにこの者は我に願っている。神としての我に、()()み願う民草を見捨てることなど我にはできない。
 ――分かった。我がそなたを助ける。氏神(うじがみ)として。
「ありがとうございます。じゃ、これから妹を助けます」
 そう言うとリサは更にマコへと近づいていった。
 やがて、手を伸ばせば届く位置まで近づいた。眼下の妹の姿を見つめる。いつもとはまったく雰囲気が違う。とても威圧的で攻撃的に感じられる雰囲気。やっぱりマコじゃない。本当のマコはどこにいるの?リサが戸惑っていると、前方からマコの声がした。やはり野太く響く声だった。
 ――依り代の娘よ。この娘の身体を返してほしいか。
「あなたは、誰?」
 ――我は、神。妹の身体を返してやろう。その代わり我はそなたの身体に(うつ)る。よいな。
「私は、どうしたらいいの?」
 ――ただ、抵抗せずに、我の御霊を受け入れよ。ただ静かに、抗わずにおれば、すぐに済む。
「分かったわ。必ず妹を返してよ」
 ――良かろう。約束する。
 そうしてリサが、災厄の分御霊を自分の身体へと遷そうと覚悟を決めた途端、恵那彦命の声が脳裏に響いた。
 ――気をつけろ。背後から誰か来る。
 その声に、リサが振り返ると、両手に剣を持った如月が走り寄ってきていた。一歩々々大股で跳ぶように速度を上げて近づいてくる。とっさに恵那彦命が息吹を放って、撃退しようとした。その途端、災厄の分御霊がどんと一気に大量にリサの中に流入してきて瞬時に恵那彦命の分御霊は弾き出されてしまった。
 リサも神々が憑依してきた時と同じほどの異物の流入に身動きが取れなかった。剣がどんどんと近づいてくる。如月のこちらを見ている冷徹な目には殺意しか見えない。確実に私を殺しにきている。そうは分かっても、もうどうしようもない。逃げられない、と思った瞬間、
「動くな」と声が聞こえて、如月の身体が地に着地したと同時に動かなくなった。
 くそ、あと一歩跳べば斬り掛かれる距離なのに、と如月は(ほぞ)を噛む思い。すぐにその眼前に空中からナミが、人型に変化していたルイス・バーネットの片手を握った状態で降り立った。
 二人としては、山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の婆たちの言う通りに南東の方角に飛んできたら、顔を出した朝日に照らされた荒地の中で、リサとマコの姿を見出した。そしてその姉妹に襲い掛かろうとする眷属の姿も同時に見出した。とっさにルイス・バーネットがツバメ姿から人型に変化して襲撃者の動きを封じるために命じの言葉を発した。
 ナミは着地して、如月の身体が動かないのを確認するとすぐさまリサに向き直った。
「これは、どういうことなの?マコは……」と言いかけて、言葉を失った。どう見ても姉妹の様子がおかしい。
 リサはこちらを見ていた。目を見開き、口を開き身体を小刻みに震わせながら、呆然自失のていで。その向こうでマコの身体が一切の力感なく地に倒れ伏した。
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