第四章十話 白骨の奇妙な亀裂

文字数 4,656文字

 郷の西南方の日吉村(ひよしむら)に、ひときわ高くそびえる上隠山(かみかくしやま)。その恵那郷(えなごう)最高峰の(ふもと)山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)は鎮座していた。民家立ち並ぶ集落から一段高い位置にそれはあり、村人たちを見守っているようでもあり、山に入る者たちを見張っているようでもある威容だった。
 周囲を包む宵闇(よいやみ)の中、社殿内では僧形の若者が一人、雪洞(ぼんぼり)の薄明りに浮かび上がっていた。
 ――出立するのか。
 本殿の奥から重厚なる声が漂ってきた。それまで平伏していた若者が少し顔を上げた。
「はい、すでに他の眷属たちも山門を出て、間もなくこちらに到着する旨、伝達がありました」
 ――そうか。マサル、美和村(みわむら)に達したなら、先ず三輪神社(みわじんじゃ)に向かい、三輪明神に拝謁してまいれ。
「はい、元からそのつもりでございます」
 ――その際、伝えてもらいたいことがある。他でもない、先頃の神議(かむはか)りで出た三輪明神遷座(せんざ)の件だ。
 この神社の第一眷属であるマサルとしては当然、その話が出てくることと覚悟をしていたが、事が事だけに思わず息を呑んだ。
 その事はそれまでの神議りでも度々議題に上がる問題ではあった。神議りは、今回のように郷内に変事があった場合、臨時で開催されることもあったが、通常隔年で郷内八社の神々が集いて郷内の事案、特に“災厄”の鎮めに不備がないかを確認し合い、問題があれば対応策を協議する場であった。
 その神議りの場に三輪明神は永らく降臨していない。初めの内は気難しい神のこととして、互いに尊重し合い和を尊ぶ観点から、波風を立てぬよう不問に付されていたが、さすがに問題山積な現状では黙認する訳にも行かなくなった。先頃の神議りで、これ以上、神議りに迎合する意志が三輪明神に見られない場合は、他の七社の神々の力をもって遷座いただくこともやむをえない。その際、当然のこととして、その眷属はお役御免となり、消滅の憂き目に遭うし、三輪神社もその役目を終える。美和村は当分の間、隣村に鎮座する春日神社の預かりとなり、その氏子区域に組み込まれることとなる、との結論を得た。ただ、いきなりそれを実行に移すのはあまりにも乱暴なので、猶予を与えることとなった。いったん勧告して、改善の様子が見られなければ強制的に執行することにする。期限は次の神議りまで。定例開催ならば来年の秋であるが、しかし現状、再度臨時の開催があるかもしれない。いずれにしても次の神議りに三輪明神が出席しなければ三輪神社の存続は難しくなる。
 そして、山王日枝神社の祭神である大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)がその旨を三輪明神に勧告する任を負った。それは大山咋大神自らが望んだ任であった。同じ国津神(くにつかみ)であり、本社である日吉大社ではともに鎮座している関係深い間柄だった。高圧的な天津神たちが宣告するよりも話を聞いてくれるだろう気がしていた。もし、聞いてくれなければ、それはそれで致し方ない。しかし、最後にどうにかあちらの真意を(ただ)しておきたいと思っていた。
 ――先頃の神議りで裁定したことを三輪明神に余すことなく伝えよ。そして忌憚(きたん)なく示すその御神意(みこころ)を聞いてまいれ。よいか、三輪の眷属の仲執る言葉ではなく必ず、大神より発せられた言の葉を受けてくるのだぞ。
 ハッ、と答えつつ、更にマサルは平伏した。これはかなりな難題だと内心思いながら。
 聞いた話では、三輪明神は社殿には座しておらず背後の山中に鎮まっているとか。噂ではその眷属でさえ、その姿を見ることが適わず、もう何十年も不通のままだとか。実際、マサルも三輪神社の大神はおろかその眷属にも出会ったことがない。かなり謎めいた存在でしかない。だから突如、自分が出向いて会える可能性は限りなく低いだろう。しかし、大神様にとってはそんなこと百も承知の上であろう。その上で最後に、我に一縷(いちる)の望みを託されたのだ。必ず、その大御神意(おおみごころ)に添わねばならない。これは我の身を賭けても必ず……。

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 日吉村に隣接する熊野村、郷全体からいうと西方に位置するその村に鎮座する熊野神社。その境内の一隅に建つ祭殿(さいでん)に三人の眷属たちが集まり、殿の中心に設置された案(木製の机)の上、折敷(おしき)に置かれた大型動物の骨に見入っていた。
 その眷属たちは、(ひたい)頭巾(ずきん)、足には脚絆(きゃはん)、手には手甲を着け、白を基調とした鈴懸(すずかけ)と呼ばれる装束に丸い房のついた結袈裟(ゆいけさ)を肩から掛けている。背中には折り畳んでいるもののはっきりと大きな黒い羽の存在が分かる。顔は赤ら顔でこれに口ばしが生えておれば、カラス天狗そのものの姿だった。
 彼らが見入っている雄鹿の肩甲骨の端々には焼かれてできた焦げ跡が貼りつき、全体的に無数の大小様々な亀裂が走っている。そのひび割れの数、長さ、向きや重なり等からこの郷の行く末や吉凶を読み取っていく、それが彼らの、郷内の他の眷属には類を見ない能力であり、重要な勤めであった。
 他の二人が、すべての亀裂に関して測定が済んだ頃合いを見計らって真ん中に立っていた眷属が声を発した。
「お二人とも、よろしいですかな。それでは、この卜占(うらない)を判じ定める」
 そう告げて、熊野神社第一眷属であるエボシが朗々と自らが視た卜占結果を言葉にしていった。
「災厄の(いまし)めが消える……郷の中心にできた湖が天に昇る……その水が郷全体に降り注ぐ……災厄の気を宿した者が現れる……眷属たちの力を集めて対するものの力及ばず……これは、定められた時の流れ……抗うことに……意味はない……地は崩壊をはじめる……それをとどめるために……災厄の欲するもの……大地……いや、大地に繋がる者……民草(たみくさ)か……今、誓約(うけい)の子らとともに東に……東野村(とうのむら)にいる……その者を災厄への(にえ)とするべし……礼を尽くして鎮め(まつ)らねばならない……これで、いかがだろうか?」
 エボシの発声が終わると傍らにいた熊野神社第二眷属であるコズミが、いつもながらエボシの太占(ふとまに)判定には舌を巻く、という顔つきをしながら即座に応じた。
「異存ございません」
 太占の判定には特殊な読解能力が必要だった。その年の豊作不作、豊漁不漁などをただ視るだけなら、他の者でもできる。しかし、この郷全体の行く末のように複雑な要因が絡み合う事象を詳細に読み解けるのは、この熊野神社の眷属たちの中でもエボシともう一人、先代の第一眷属であり、この場にもエボシの傍らに控えているクロウだけだった。
 三人の中では見た目、エボシが一番若く見えたし、実際生まれ出でたのも一番遅い。とはいえ、クロウもそれほど年老いているようにも見えないし、実際、老け込むような年齢でもなかった。しかし、様々な要因が重なった末に第一眷属の座をエボシに譲らざるを得なくなり、今はただの相談役となっていた。今回の太占も卜占結果を読み解くのは、あくまでエボシの役である。クロウとコズミは後見の役でしかない。あまりにも自分の見立てと外れている場合以外は異を唱えない慣例の役であった。しかし、クロウはその時、あえて声を上げた。
「我にはこの亀裂が気になってならぬ」そう言いながら白骨の右側から下側を通って左半ばへと湾曲しながら伸びている、はっきりとしたひび割れの上を指でなぞった。「これは贄になるべき者とも違うようだ。ここで揺れ、その先で太くなり、消えておる。その周囲には綺麗に亀裂がなくなっておる。この者が清め祓うのだろうか」
 これは今までにない啓示。はっきりと読み解くことが難しい。そもそも災厄に贄など必要なのだろうか?大地と繋がる者の卦は見える。しかし、それを贄とした結果がどうなるのかは読み取れない。そんなことをしても災厄に利するばかりではないのか?
「クロウ殿もまだ耄碌(もうろく)されるには早いと存じますが。それは地の崩れ行く様を表しておるのです。行きつく先に亀裂がないのは無に帰すことを表しておるのでしょう。我らはそれを防ぐために災厄を鎮めなければなりませぬ。他の神々や眷属にはもはや任せてはおけませぬ。我が大神様と我々で鎮め祀らねばなりません。それが卦に出た大神様の御神意(みこころ)です」
 そういうことか、クロウは心中独り()ちた。エボシの読み解く力は間違いなく高い。しかし、解釈が人によって変わるような判定を下す際に、おぼろげに湾曲的にではあったが、政治的な恣意を差し挟むことがあるように思えてしょうがなかった。そういう危うさをクロウは自らの後継者に常日頃より感じていた。先頃の卜占でも意見を異にした面があったが、些末なことと殊更に異を唱えることを差し控えた。しかし、今思えば、もしかしたら最初からエボシが計画した通りに事態が動いているのかもしれぬ、そう黙したまま思っていると、
「我もエボシ殿の仰せの通りだと存じます。もう、すでに他の眷属や民草などの手に負える状況ではないでしょう。ここで逡巡してしまえば、この郷が消失してしまいます。クロウ殿が仰られるお気持ちも分からぬでもないですが、ここはエボシ殿を信用してお任せいたしましょう」
 コズミは、クロウが第一眷属だった時からずっと第二眷属だった。有能ではあったが、自分の意見を持たず、常に上の者の言動に迎合する向きがあった。そうすることが、集団の運営を円滑に進めるために最善であると信じて疑わないかのように。
 普段ならここで納得しないまでも引き下がる場面だったが、今回はそうも言っておられない緊急事態だった。だからクロウは重ねて発言した。
「エボシ殿、そなたの今回の見立てには賛同しかねる。どうもそなたの意が入り込んでいるように見えるのだ。まだこの地の崩壊を免れる方法があるように思える。その可能性を探るのが先であろう。贄を供えるのは最後の手段だ」
 エボシがクロウに視線を向けた。その表情は特に普段通りだったが、視線は刺すように鋭かった。
「クロウ殿、そのようなのんきなことを言っておられたら助かるものも助からなくなります。大丈夫です。あなたの後継者はあなたが思っているよりも、正しく人々を導いてみせますから」
 そう言うとエボシは微笑んだが、視線は鋭いままだった。クロウは更に何かを言いかけたが、それを(さえぎ)って再度エボシが声を上げた。
「判定は我が下します。万が一、その読みに間違いがあれば、大神様の裁可は下りますまい」
 卜占の判定は最終的に熊野神社祭神のもとに伝えられる。そこで何ら異が出なければ、郷内の他の社に伝えられることになっていた。その手間を経ることにより、その判定は格段の重みを増すことになり、他の社の神も眷属もそれをないがしろにすることができなくなる。ただ、しかし、とクロウは思う。熊野神社には夫婦神(めおとがみ)とその御子神(みこがみ)の三柱の神々が祀られていたが、それぞれに互いに気を使っている風であった。他の神から異を言われぬように、遠慮して宣下(せんげ)したりしないことがほとんどだった。たぶん今回も、とは思ったが、はっきりとそれを言葉に出して言う訳にもいかず、さりとて納得もしていない顔つきをクロウがしていると、エボシの声が響いた。
「卜占の判定を述べる。記せ」
 後方に座していた眷属が墨を含んだ筆を手に持ってエボシの言葉を料紙に記しはじめた。
 
  災厄の(いまし)め 消え失せる 
  天に昇りし水が 地に降り注ぐ
  災厄を宿す者 現れ出ずる
  地を護る者 なすすべもなし
  地は崩れ行き 消え行く定め
  災厄の欲するものを (にえ)となし
  礼を尽くして 鎮めるべし
  熊野の者たち 祀り鎮めん
 
 クロウはただ、その声を仕方ないという思いで聞いていた。そしてただ、じっと白骨の下側に湾曲して伸びる奇妙な亀裂に見入っていた。
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