第十二章三話 憤激のヨリモ

文字数 5,042文字

 私の頭に、近寄ってきた眷属の手が伸びてくる。どうやら私の頭を抑えつけ、平伏させようとしているようだ。でも、遅い。私は身をかわし、その手を取り、足を掛けながら旋回した。その眷属は畳の上にびたん、と横倒しになった。
“ヨリモ、何をしている”
“大神様の御前(おんまえ)なるぞ。控えろ”
“そんなことをしてただで済むと思っているのか”
 そんな声が次々に聞こえてくる。今まで仲間だと思っていた眷属たちの声。聞き覚えのある声ばかり。でも、私の声はあなたたちには届かない。なら、あなたたちの声も私には届かない。
 私は跳び上がり、相手の顔に体当たりする。後ろに回って足を掛ける。急所に打撃を加える。そうして近寄ってくる眷属たちをみんな床に這いつくばらせた。その眷属たちが私に武技を教えてくれた。技術的にも、体力的にも私は及ばない。でも、速度が違う。誰も私には勝てない。
 背後から、ヨリモ殿おやめなさい、という秘鍵(ひけん)殿の声が聞こえる。でも、まだ他の眷属たちが近づいてくる。もう、我慢できない。するつもりもない。
 私の目には、タマ殿のなれの果てである白い(ぎょく)しか映っていなかった。
 ほんの少しの距離、一瞬にして駆け抜ける。もう少しで私はその玉を手中にできる。それを手に取りどうするか、そんな考えは何も浮かんでいない。でも、他人には渡したくない。渡す訳に行かない。こんなことをして、きっと大神様はこれ以上ないほどにお怒りになられるだろう。でも、そんなことはどうでもいい。それで消えてしまうなら、それでいい。
 私が、眼前の玉を手に納める、その刹那、
「ヨリモ!」と呼ぶ声。すぐかたわらにマコモ殿がいる。その声に、全身に硬い岩でもぶつかってきたかのような衝撃を感じた。身体の動きが停止する。逃れる、タマ殿を手にしたらすぐに走って逃げる、そう思った瞬間、私と玉の間にマコモ殿の大きな手が伸びてきた。身をかわさないと、と思うけど身体が言うことを聞かない。私は襟首(えりくび)を掴まれた。指からタマ殿の玉がすり抜ける。タマ殿が離れていく。私は、そのまま持ち上げられ、その、あまりにも大きな力に抵抗もできずに投げ飛ばされた……

 騒擾(そうじょう)の余韻が残る殿内。誰もがもやもやとした言葉にできないやるせない気持ちを胸に抱えていた。
 マコモに投げ飛ばされたヨリモは、壁板が折れ曲がるほどの勢いで壁に打ち付けられ、拝殿(はいでん)奥で気を失っていた。
「そいつを蔵に閉じ込めておけ」
 そう言うマコモの顔はいつもの仏頂面だったが、内面は忸怩(じくじ)たる思いが渦巻いていた。何という失態。社殿内でこのような騒乱を起こしてしまうとは。ヨリモがあんな態度を示すとは。これもすべて自らのいたらなさの現れなのだろう。
 床に転んでいた眷属たちが慌ててヨリモのもとに駆け寄る。そして抱えると社殿から出ていった。それまで、秘鍵はただ平伏して黙っていた。これはあくまで八幡宮の問題。部外者の自分が口を差し挟むことではないとは思いつつも、一方的に誓約(うけい)を破棄されて、おまけにその証であったタマを玉にされて黙っている訳にもいかなかった。
「タマを返せとおっしゃるなら、我らにもヨリモ殿をお返しくだされ。ヨリモ殿のもとは我が大神の装身のもの。当然、誓約を破棄されるのならば、返していただくのが筋でしょう」
 不敬に当たらぬように秘鍵はマコモに向かって声を発していた。マコモは神の意向を察して答える。
「それは無理な話だ。タマとは違い、ヨリモにはまだ我が大神の力が残っておる。それがなくならない限りは我が社の眷属だからな」
「それならば、もう少しヨリモ殿の声に耳を傾けてあげてもよろしいのではありませんか。あまりにヨリモ殿が不憫(ふびん)に見えますが」
(やしろ)ごとに方針があるのだ。そなたが、口を出すことではない」
 二人はそのまま黙り込んだ。秘鍵には、神に臣従しなければならない眷属としてマコモの胸の内が垣間見える気がした。だから、今度は背筋を伸ばして胸を張り、社殿奥の神の鎮まります本殿に向けて声を張った。
「我が稲荷神社の第一眷属である宝珠(ほうじゅ)は、尾の(くさび)の警護に向かい、そこで災厄を宿した者と対峙しました。恐らく、もう消え去ってしまったことでしょう。彼は最期に伝令に託し、恵那郷(えなごう)八社の神々、眷属みなで力を合わせ、(いまし)めの解かれた災厄に対抗するようにと、我に言い残しました。これは我が大神様の大御意(おおみごころ)とも合致すること。どうか、我が大神とも他の神々とも今まで通り和を保ち、この恵那郷(えなごう)に平穏をもたらして下さいますよう(かしこ)みてお願い申し上げます」
 もう、秘鍵は平伏しない。宝珠のいない現状、稲荷神社の代表として、忌憚(きたん)のない意見を奏上しなければいけないという一念と、これまでの自らが仕える神に対する不敬への抗議の意味も含めてそうしていた。
 ――我は、()(しろ)の民を災厄に授け、この郷から追いやることにした。そなたの神が不服であればそれでも構わん。ただ、邪魔をするなら覚悟せよ、そう村に帰って申し伝えよ。
 本殿からひりひりとした空気が漂ってくる。その場にいる者がすべて委縮してしまう緊張感。秘鍵はただ静かにその空気に身を(ひた)していた。自分の知らないところで事態が激しく変化している。これはもう我の一存では推し量れぬ事態のようだ。
 ――マコモ。依り代の民が災厄のもとへ行く前に我らも参るぞ。境内におる他の社の者どもは自らの村へ帰せ。他に行くことは許さん。もし、抵抗するようなら、滅しても構わん。すぐに取り掛かれ。
「御心のままに」マコモはそう返答すると他の眷属たちに指示を出し、そして秘鍵の前に立った。二人の視線が重なる。互いに相手の瞳の奥に釈然としない感情を見て取った。秘鍵は一度、本殿に向かって一礼すると社殿を退出した。

 ――――――――――

「見えたか」タカシがお堂に戻ると即身仏然とした容貌の猿山(えんざん)が訊いた。タカシは黙って頷いた。
 先ほどは猿山の姿に驚いて気づかなかったが、お堂の奥には厨子(ずし)があり、中には後背に炎を背負い、右手に剣を立て、両目を引ん()いた憤怒の表情をした像が祀られていた。あまり仏像に詳しくないタカシでもそれが不動明王の像なのだろうことは分かる。タカシがその像に見入っていると、猿山が思いの外、素早くすくっと立ち上がり、近づいてきてその目を見つめた。
「なら、奥に行者の服がある。着替えてこい」そう言われて奥を見ると床の隅にお盆が置かれ、その上に白い服が畳まれていた。手に取るとシミ一つない真っ白な上下の浄衣(じょうえ)。かなり汚れ、汗にまみれ、所々破けている服を脱いで着替える。手甲や脚絆(きゃはん)も真っ白。着慣れぬせいでもたついていると、マサルが近寄ってきて着装(ちゃくそう)を手伝ってくれた。
「何度もそなたには驚かされます。本当に峰入りをすることになるとは」
 着装が終わると、マサルがお盆に残っていた短い棒状の白い包みを差し出した。
「これは、自害するための短刀です。もし(ぎょう)の途中で耐え切れなくなった時に使ってください。そうすれば苦行から解放されます」
 タカシは何も言えずに受け取った。もう、覚悟を決めなければならない。今更、後戻りはできないし、するつもりもない。タカシの身体中から緊張感が漂う。すべての準備が整ったことを察した猿山が再び彼の前に立ち、一言々々区切るようにはっきりと、しわがれた声を発した。
「では、民草(たみくさ)よ。最後に確認する。峰に入れば、満願(まんがん)せぬうちはそなたは山を降りることは適わぬ。そして行をしておる間は、そなたは死なん。どんなに苦痛を味わったとしても、どんなに傷ついたとしても、その短刀を使わねば死ぬことができん。満願できねば、果てしない時間、苦しみ続けねばならなくなる。それでも峰に入るのか?」
 静かだが緊張感漂う時間が流れている。タカシはゆっくり頷いた。
「分かった。では、これから行をはじめてもらう。何、することは簡単だ。あの三つの峰の間を縫うように伸びておる行程(こうてい)を歩き、一番高い修行峰(しゅぎょうほう)の頂にいたる、それだけだ。その登攀(とはん)を三度繰り返せば満願だ。ただ、行の間、そなたの感覚は一つずつ欠けていく。外からの刺激が減ずることによりそなたは自らの内に声を、音を、光を見出すことだろう。それらを感得できた時、そなたは自らの内に宿る力に目覚めるはずじゃ。よいな、外から得られるものは、すでにそなたの内にある。それを忘れぬことだ」
 細く力のない声。一言も漏らさぬようにしっかりと聴いた後でタカシは、分かりました、と答えた。
「では、先ずは座禅を組め。そこで自らの内に向き合え。そなたがちゃんと自分と向き合うことができた時、峰入りがはじまる」
 言われるがままにタカシは足を組み、瞑想した。

 自分の内を見つめる。
 雑念が宙を舞っている。
 身体が(だる)い。眠くなってくる。いろんなことがあった。ちゃんと上手くいっているのだろうか。現実世界のリサはどうなっているのだろうか。せっかく、再び出会えて一緒にいられるようになったのに、こんなことになって。何が悪かったのだろう。どうすれば良かったのだろう。リサを助けたい、リサに会いたい。この世界のリサは今どうしているのだろう。寂しくはないだろうか、心細く思ってはいないだろうか。そばにいたい。リサが寂しくないように。不安に駆られなくても済むように……
 真っ暗な闇の中に、染み入るような猿山の声。
「もっと深く。もっと自分に向き合え。もっと深く」静かな声、波紋のように脳裏に広がる。
 意識を自分の奥深くに向けてみる。意識して深層へと目を向けてみる。雑念の奥、様々な記憶が渦巻いている。
 何をしても、どんな時でも一抹の物足りなさを感じていた。年を経る度に、強く自分が欠けている気がしていった。それがなぜなのかは分からない。ただ、リサと会って何か分かる気がした。また会わなくてはならないと感じた。そして必ずまた会えると信じた。何の根拠もなかったけど、不思議なくらいにただそう信じていた。
 彼女だけに抱いた特別な感覚。この記憶の奥深くにその答えがあるのだろうか?
 ただ静かに自らの奥深くに(もぐ)っていく。いろんな記憶、いろんな感情、いろんな思い、とても賑やかに渦巻いている中、ただひたすらに潜り続ける。時の経過とともに次第に集中していく。深く、ただ深く潜っていく。そしてふと自分が消えた。
 そこには記憶も感情も思いもない。ただ茫漠と広がる殺風景な色のない情景。眼前に半円形の固まりが浮かんでいた。それが何なのかは分からない。ただ、欠けた半円がリサの中にあるのだろうことを察した。自分の欠落部分をリサが持っている。何ら根拠もなく、何の理解もしていなかったが、そう確信した。

「起きよ。目覚めよ。行者よ、これより峰入りをはじめる」
 とても深い奥底から一気に引き戻されたがためにタカシは、ただぼうっと眼前を眺めているだけだった。
「先ずは無声(むしょう)の行じゃ。これからそなたは声を出せなくなる。周囲からの声や音、そして自分の内からの声をよく聴くのだ。今回だけは、その道のりを確かめるために先達(せんだつ)とともに登攀させる。マサルよ、この民草を案内してやれ。民草よ、次からは案内なく、そなた一人で登らねばならない。よくその道のりを覚えておくのだぞ」
 そう言う猿山に向かってクロウが声を掛ける。
「猿山殿、我も一緒に行ってよろしいか?」
 しかし応えはない。仕方なくクロウが言い直す。
「クソ爺、我も一緒に行ってもよろしいか?」
 すると猿山が、かまわぬ、と答えた。タカシがそのやり取りを不思議に思ったまま、三人はお堂を後にした。
「猿山殿は、以前、自分のことを謙遜されて愚僧(ぐそう)と言われておってな。それを他の眷属たちが面白がって陰でクソとかクソジジイとか言っておったのだが、それがいつしかバレて、自分はまだまだ修行が足りぬ。猿山などと立派な名などもったいないクソで充分と言われて、それ以来、クソ爺と呼ばれなければ答えぬようになってしまった。まあ、ああ見えてけっこう偏屈な方だ」
 クロウがカラカラと笑いながら楽しそうに解説した。
「目上の方をクソと呼ぶなどとは。特に猿山殿は我の前の第一眷属であった方。他の眷属たちが山に入るようになったのも猿山殿が先鞭をつけたことです。また誰よりも過酷な修行を自らに課すために、飲食をやめ、ただ空気中に漂う山の気だけを摂取してかろうじて消滅を免れておられる。そんな誰よりも敬意を払うべき方であるのに」
 マサルが嘆かわしいという顔つきをして言う間に、三人は峰の入り口に到達した。
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