第九章九話 初めての感情

文字数 5,064文字

 天満宮を発した先行の眷属二人は、早くも八幡村(やはたむら)との村境に到着しようとしていた。
 彼らの足を()かしたのは、飛梅(とびうめ)から早急にと厳命されたせいもあったが、何より夕闇が刻一刻と近づいてきているその焦りが大きかった。己の村内の御行幸道(みゆきみち)ならばどんな暗闇でも迷わない自信があったが、隣村とはいえ、普段あまり立ち入ることがない他村内に入ってしまえば何があるか分からない。しかも結界が断たれ、不穏な空気が郷中をおおっている。(いや)が上にも気が焦る。
 二人の足下より伸びる道は、樹々生い茂る山麓へと続いていた。ためらわずに足を運ぶ。その木立の入り口付近が村境だった。彼らはそのまま境を越えた。それまで激しく赤く照りつけていた西日がふと消えた。
 木々の密度が高く、はじめは所々、足元に木漏れ日が射していたが、それも進むうちにほとんど見えなくなった。二人は自然と夕闇を意識せざるを得なくなった。更に気が焦ってくる。
 すると突然、頭上から激しい鳴き声が響いてきた。
 二人は一瞬その声の大きさにびくりと身体を震わせたが、聞き覚えのあるその鳴き声に、なんだカラスか、と安堵しつつ、頭上を見上げてその声の主を捜した。
 背の高い針葉樹が周囲を取り囲んでいる。茂る枝葉が空を隠している。声の主はどこにも見えない。二人は急に誰かに見られている気がした。すべての樹々が自分たちのことを見下ろしている気がする。穏やかならざる雰囲気、自分たちの立ち入りを拒まれている気がする。
 しかし指令がある。この場に立ち止まっている訳にはいかない。二人とも気を取り直して行く先に視線を戻した。その時だった。木々の枝葉が急にざわついた。同時に、二人の周囲に無数の黒い何かが降ってきた。
 そして彼らは気を失った。

 ――――――――――

 斎館(さいかん)は、ハレの場である祭典に(のぞ)む前に、俗から離れるために参列者が()み籠る際、また逆に祭典が終わり俗世間に戻る儀式である、直会(なおらい)といわれる会食を行う際に使用される建物だった。そのため玄関を入ると、二十人くらいならゆったり(つど)えそうな、素朴な板壁に囲まれた畳敷きの広間があり、すぐ横には飲食を提供するための台所が併設されていた。また逆側には装束(しょうぞく)を着替えたり畳むための更衣室もあった。          
「もう夕陽の(くだち)じゃあ、大神様へのご挨拶は明朝にして、今宵はゆるりとされるがええ」
 如月(きさらぎ)はじめとする着物姿の眷属たちがタカシたちを広間へと案内した。
 タカシたちが広間に上がる頃には神鹿隊(しんろくたい)の隊員たちの姿はどこかに消えていた。ただ、弥生(やよい)だけが残っており、如月のかたわらにすっと近づいた。そしてカツミとナツミをチラリと見やりながら、
「三輪の眷属は罪人であって客人ではありません。神議(かむはか)りに対して背いた者です。逃げられぬように蔵に押し込め見張りをつけておきましょう」と囁いた。しかし、如月は落ち着いた様子であったが重量感のある声で、
「それには及ばんえ。あの者たちも明日以降どうなるか分からぬ身であろう。今宵ばかりはゆるりとさせてやってはどうじゃ?わっちらがおる前で逃げることもできぬじゃろうしなあ。それともわっちらが信用できぬのかあ?老体は動きが鈍くて罪人を逃がしてしまうとでも?」
 いたずらっぽい口調だったが、そう言われると弥生はそれ以上、主張することもできず、その言葉に従うしかなかった。何せ如月は、普段はその片鱗も見せることはないが、その武勇は郷外にも聞こえたほどで、サホや弥生たちの現役隊員よりかなり以前にこの世に生まれ出ていたが、老け込むようなこともなく、今でもその武技や統率力は抜きん出ていると思われていたから。
 そんな如月は、サホが生まれ、弥生が生まれ、睦月やミヅキが生まれると、ある日、突然、神鹿隊を引退した。誰に相談するでもなく、唐突に。それ以来、同時に辞めた元隊員たちとともに隊の相談役に身を引き、毎日をのんびり過ごしている。
 そんな着物姿の眷属たちに(いざな)われ、タカシたちは広間の奥に座らされた。
「さあさあ、今はこのような状況ゆえ、酒を出すことは(かな)わぬが粗餐(そさん)を用意しておる。さあ、皆様に膳をお持ちして。眷属の方々も気を取り入れるだけでは味気なかろう。今宵は民草(たみくさ)もおられることゆえ、ぜひ、お口に料理をお運びなされえ」
 着物を着た女眷属たちによってタカシたちの前に総漆塗りの膳が運ばれてきた。膳の上には野菜の煮つけや茹でた沢蟹(さわがに)、山菜の汁物、鮎の甘露煮もある。彩りも豊かな見た目、豪勢な膳料理だった。ただ、カツミはその膳を前にどうしたものか迷っていた。何か混入されているかもしれない。混入しているとしたらどの料理だろうか。やはり汁物か?そんなことを一瞬のうちに考えながら横にいるナツミに不用意に口に入れないように合図を送ろうと視線を送った。すると、ナツミは今まさに汁椀を手にして(すす)っているところだった。
 ナツミ、お前、何を?まだ、いただきますもしていないのに。何が入っているか分からないのに。とっさにカツミは声を上げた。
「ナツミ、待ちなさい。まだ誰も箸をつけていないだろ。自分だけさっさと食べちゃいかん」
 慌てる様子の兄をちらりと見やると、落ち着いた様子でナツミは答えた。
「別にうちは食べはじめた訳じゃないわよ。何が入っているか分からないから毒見をしているだけ。うちなら日頃からいろんなもの食べてるから、もし毒が入っていても大丈夫でしょ」
 春日の眷属たちの鋭い視線が一斉にナツミに注がれた。ああ、ナツミ、お前ってコは、とさすがのカツミも頭を抱えたい気分だった。その横合いからマサルがしっかりとした声を上げた。
「まあ、毒見という表現は語弊があるにしても、我ら眷属は種族によって食する物が違うから、あらかじめ気をつけておかなくてはならないのかもしれませんね。我などは雑食で何でも食べられますが、春日の方々と三輪の方々では食べる物がかなり違うことは想像に固くありません。もしかしたら一方の眷属にはごちそうでも、もう一方の眷属には毒になるものもあるかもしれない。恐らくナツミ殿はそこら辺を気にしているのでしょう」
「そこら辺はちゃんと気にしておるわあ。おぬしらが食べられん物など入れておらんえ。安心しい」苦笑しながら如月が言った。場の尖っていた雰囲気がふと弛緩した。
 マサルとやら、さすがに猿公(えてこう)だけあって、頭がいいな、とカツミは思った。そして何か言いたげな妹に視線を送ってそれ以上の失言を(さえぎ)った。
「あの、先ほど俺に言われてた、覚悟が足りないって、どういう意味でしょうか?」
 場が落ち着いた頃合いを見計らって、気になってしょうがなかったことをタカシは訊いた。如月は穏やかに微笑んでいたが、一瞬、その目に鋭さが宿った。
「分からぬかあ。分からぬのはそなたが、まだ行き当たりばったりなせいじゃ。そんなもの決意とは言うても覚悟とは言わんなあ」
 タカシは怪訝(けげん)な表情をするしかなかった。決意と覚悟……
「でも、俺はリサのためなら命も惜しいとは思いません。その覚悟があります」
 如月は笑みを深くする。そしてじっとタカシの心奥を覗き込むように視線を注いだ。
「そうじゃろうなあ。そなたは自分の命を賭してでもその娘を助けようとするじゃろうなあ。じゃが、その娘を救うために、誰かを犠牲にすることができるのかえ?そなたの大切な娘を救うために、誰かの大切な命を(あや)めることができるのかえ?」
 タカシはまさに無理難題を吹っ掛けられた思いだった。そんなこと、分からない……。嘘の()けない性分のタカシは答えようがなかった。
「やっぱり、そなたはちいっと足りぬようじゃな。もうちいっと自分とちゃんと話した方がいいなあ」

 ――――――――――

 山際近くまで傾いた西日が周囲を赤く染め、一行の影を長く伸ばしながら一日の終わりを告げていた。
 天満宮を出立して以来、暮れなずむ夕陽に急かされるように先を急いできたが、間もなく村境にたどり着くという地点で、もう闇の幕が降りそうだった。
「少し行った道沿いに民草の家があります。もう何十年も前に住民がいなくなって今は廃屋となっておりますが、時々、この近くに来た時の休憩場所として使用しておりますので中はキレイです。一夜を明かすには充分な場所ですので、今夜はそちらで休みましょう」
 マガはしきりに先を急ぎたがったが、八幡宮の眷属は他の社の眷属と比べて早めに休む。休んでいる仲間たちを起こすのも心苦しかったし、何より夜間は大神様もお休みになられて拝謁が叶わない。この旅塵(りょじん)にまみれた姿のままよりも、明朝、改めて参った方が印象もよいだろう、というようなことを、とうとうとヨリモは言い聞かせて何とかマガの気をなだめた。
 ヨリモとしては陽が落ち切る前に自分だけ社に向かって、眷属たちや大神様の意向をあらかじめ聞いておこうかとも思った。しかし、天満宮の眷属が先行してくれているし、自分も今日は朝からずっと力を使い続けていて疲労感が残っている。明朝、日の出とともに一行に先んじて飛んでいこう、と決めた。それに何より今、彼女の心の中は、せっかくタマと一緒にいるこの時を終わらせたくない欲求に大勢を占められていた。ただ、そう改めてタマのことを意識すると、逆に言葉を掛けづらくなってしまっていた。それにちらりとタマを見ると気難しい顔をしている。何か悩んでいるのだろうか。迷った末に意を決して声を掛けた。
「どうかしたのですか?険しい顔つきをしているようですが」
 声に気づくとタマが首を巡らせてヨリモに朗らかな顔を向けた。
「いや、なに、三輪の女眷属のことを考えていたんだ」
 え?とヨリモが心の中で声を上げた。あの蛇女のこと?なぜ、今?なぜ、あのひと?
「そういえば、今どうしているんでしょうね、あのコ」声が震えないように、動揺を悟られないように自分を抑えつけながら、かろうじてヨリモは言った。
「あのコには、お兄さんを助けると約束をした。我も力を尽くしたつもりではある。しかし、助かったのかどうか分からない。けっきょく約束を守れなかったのかもしれない。それが気になっている」
 この人は本当に優しい。誰に対しても分け隔てなく。たぶん他意はないのだろう。でも、今、一緒にいるのは、私なのに……。先ほどまでタマと一緒にいる高揚感に膨らんでいたヨリモの心中は急速にしぼんでいった。少し息苦しさも感じるほど。
「精一杯したのなら良いのではないですか。気にしても仕方がないことです」
「そうかもしれないが、気になるのだ。またあのコ泣いているんじゃないか?」
 私は何の話をしているんだろう、ヨリモは思わず溜め息を()いた。そしてタマに、本当に仕方のない人だわ、という顔つきをしたまま微笑むと、そのまま、ずんすんと前に進んでいった。
「あれ、待ってくれ。立ち寄る家まではそんなに時間は掛からないんだろう。そんなに急がなくても。待てって」そう言いつつ慌ててヨリモの後を追おうとしたタマに向かって後方から蝸牛(かぎゅう)が声を掛けた。
「おやめなさい。今のあなたでは益々傷口を広げるだけだ」
「ん?どういうことだ?」
 何のことやら分からない、というタマの顔つきを見て、蝸牛は、本当にこの男は鈍い、と改めて思った。見た目はまだ少年に見えるが、もう充分に生きているのに、あのようなあからさまな態度の意味も分からぬとは。
 それは、と蝸牛が答えようとすると同時にマガが口を開いた。
「マガ、知ってる。稲荷の眷属みたいなのを鈍感っていう。鈍感はひとを不幸にする。気をつけた方がいい」
「いったい何の話だ?我が鈍感だって?何のことだ?」
「八幡の眷属は稲荷の眷属のことが好き。間違いない。それを気づかない稲荷の眷属は鈍感。それだけで不幸。八幡の眷属がかわいそう」
 タマは、マガに向かって何度も、はあ?と問い返した。それまでそんなこと意識していなかった。だから何か意外なことを言われた気がしていた。そうなんだ、と素直に頷くことなどできなかった。ただ、ヨリモが我のことを……そう意識した途端、自分の胸中に新しい感情の芽が生えた。それは芽吹くと、すぐさま双葉を広げ、一気に背を伸ばし、枝を伸ばし、葉を茂らせた。
 新たに生まれたその感情は、一瞬にして胸の内を埋め尽くさんばかりに成長した。戸惑う、扱いかねる。それは心地良さげなのにほの悲しく、にじむように苦しい感じがする。もやもやとしているにも関わらずどこか突き抜けている。急激に求めている。何を?我はどうすればいい?どうしたい?
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