第十章六話 揺れる覚悟

文字数 4,843文字

 カツミは春日神社(かすがじんじゃ)参道横に建つ、斎館(さいかん)の開け放った玄関に立ち、その土間に山積みになっている荒縄を手にして、外に投げては、雨の圧力に屈し、ぬかるんだ地面に足をとられ、身動きが取れなくなっている春日の眷属の身体に巻きつけて、巨大漁でも釣り上げるように一人ひとり引っ張って斎館に避難させていた。
 親指程度の太さはあったが、荒縄では軽すぎて遠くに投げるには使い物にならなかった。しかし、ここに来る前にナツミが帯びていた鎖鎌(くさりがま)神鹿隊(しんろくたい)に取り上げられていたので、他に使えるものがない。そこで何度か試みた。最初のうちは、やはり思い通りには動いてくれなかった。が、次第に雨を含んでいい具合に重くなってきた。そうなると後は楽だった。自由自在に動かして次々に春日の眷属を釣り上げていく。
 ナツミはそんな兄の姿を、荒縄を引く手を手伝いながら感心して眺めている。行動は軽はずみで、空気を読まず、ひとの気持ちを()むことなどしない兄ではあったが、その行動力、技術の高さは称するに値する。それはずっと思っていたことだった。しかしそれを口には出さない。出せばすごく喜ぶのだろうけど、喜びすぎて更にまとわりついてくる。普段でも鬱陶(うっとう)しいほどなのに、更に褒めてもらおうと無遠慮にまとわりついてくる。想像するだけで暑苦しさを感じる。やはり口には出せない。
 そんなことを思っていると、身体に巻きついている荒縄をたどって歩きながら、大きな身体つきの眷属がこちらにやってきた。玄関に入ったところでナツミは荒縄を解いてやった。
「おお、そなた。また会ったな。大丈夫か?」カツミの緊張感のない声が玄関に響いた。その声に今やって来た、仲間から一番騎と呼ばれていた男眷属が顔を上げた。
「ああ、そなたか。また、そなたに助けられたで。何とお礼を言ったらいいのか……」
「気にするな。困ったときはお互い様だ」事もなげにカツミは言う。「それより、もう他に外に出ている者はいないのか。見える範囲の者はすべて避難させたと思うのだが」
 一番騎ことロクオンは奥の部屋を見た。びしょ濡れになっている眷属が男女合わせて十二名いる。他にもいたはずだが、恐らく他の建物に避難したのだろう。
「外にいる者はこれだけじゃと思うで。じゃが、もしかしたらミヅキ殿がまだ外にいるかもしれんで。先ほどチラリと姿を見たような気がするで」
「いるとしたらどっちの方角だ?」
「恐らくあちらの方だで」
 ロクオンが指し示す北の方向を、じっと目を()らしてカツミは見つめる。いろんな事情が重なって、夜に行動することも多かった三輪(みわ)の眷属としては、普通に夜間に行動できる他の社の眷属たちと比べても更に夜目が利く自信があった。凝視し続けていると、果たしてその目にぼんやりと人影らしきものが映った。
「誰かいる」
 カツミの見ている方向をロクオンもじっと見てみる。しかし暗闇ばかりで何も見えない。そもそも雨が邪魔をして、すぐそこの景色さえ掻き消されている。だから、それはただの見間違いではないのか、と言おうとしたが、その矢先にカツミが口を開いた。
「少々離れている。縄を投げても届きそうにない。近くまで行ってみる」言うが早いか外に飛び出した。止める間もなく駆けていったカツミの姿がすぐに雨に溶け、闇色に塗りつぶされた。

 ミヅキの視線の向かう先で、民草(たみくさ)は見る見るうちに近づいてきた。まったく警戒する様子も、ためらう様子も見せない。まるで自宅の庭を散策しているかのように、ごく自然に当然のように進んでくる。もう少し、あともう少し、と襲い掛かる時宜を待ち構えていたミヅキの身体に突然、何かが巻きついた。驚愕して自らの腹部に視線を向けると荒縄が巻きついている。何事?と思う間もなく後方へとそのまま引っ張られた。
「何?誰?何しているの?」背後を振り返りながら叫ぶように声を上げた。しかし、雨音はもっとけたたましく鳴り続けている。分厚い雨のカーテンの奥に東野村(とうのむら)から連れてきた三輪の眷属の姿がおぼろに見えた。いったい彼は何をしているの?どういう状況なの?
 カツミとしてはいくら他の眷属と比べて水に慣れ親しんでおり、水中が苦にならないとはいえ、これだけ雨足の強い中にいると体力の消耗が激しく感じられた。早めに春日の眷属を連れて避難しなくては、という思いで力の限りに荒縄を引いている。そんな彼に向かって一匹の蛇が赤い身体をくねらせながら近寄ってきた。
「兄者、うちも手伝う」そう、変化(へんげ)するやいなや言うとナツミは兄のかたわらで荒縄に手を掛けてともに引いた。
 兄者?そんな妹の姿に視線を向けながらカツミは思った。初めて“兄”と言われた。なぜか今までタツミのことは兄様と呼ぶナツミが、自分のことはずっと名前で呼んでいた。疑問に思うこともないことはなかったが、最初からずっとそうだったので、そんなものかと思っていた。だから驚きながらも、ちょっと面映(おもは)ゆいような気がした。もちろん悪い気分ではない。
 ミヅキは踏ん張ろうとしたが、そのままずりずりと引きずられていく。仕方なく手に持った剣をピンと張った縄に振り下ろした。お互いに全身全力を掛けて引いていたせいで激しく地に打っ伏した。
 何やってんのよ、と思いつつナツミは伏せたまま変化して、すぐさまミヅキのもとに向かった。雨に当たる面積が狭いために、現状では人型より蛇身の方が格段に動きやすい。
「あんた、何やってんのよ。うちらがせっかく助けようとしてんのに。早くこっちへ来て」(またた)く間にミヅキのもとにたどり着いたナツミがすぐ変化してから言った。
「あなたたちこそ何やってるの。敵が襲来してきているの。私はここで迎え撃たないといけない。邪魔しないで」
 敵?ナツミはミヅキが指し示す方向へ視線を向けた。そこには民草の女。少しも気づかなかった。もし、その女が殺気を身に帯びていたり、激しい気配を撒き散らしているようならこんな状況でも気づいただろう。しかし、その女は悠々と近づいてくる。圧倒的な量の水を周囲に(たた)え、身に帯びながら
「民草なの?でも、あの水は何?ものすごくヤバい感じがする」ナツミの声にミヅキが応じる。
「我が神鹿隊の半数があいつにやられた。しかも稲荷や天満宮の眷属たちとともに。恐らくあいつは尾の(くさび)を破壊した。その結果があの天に昇っている水の柱、そしてこの雨。元凶がこちらに近づいている。退(しりぞ)く訳にはいかない。そなたたちは退(さが)ってて。他の眷属たちのところにいきなさい」
「あれは我らが(さら)ってきた民草の女だな」気づくとかたわらにカツミもきていた。ナツミがよくよく目を凝らして見ると、確かに見覚えがあるようなないような。
「あの様子はなんだろう。力が(みなぎ)っているようだ。ただの民草の女だったはずだが。まるで別の生き物のようになっている。もしかしたら……」
 マコはもう境内(けいだい)の端までやってきている。そして何の抵抗も感じていない様子で境界に足を踏み入れた。
 まずいな、そう思うとカツミはミヅキに向かって声を張り上げた。
「おい、ナツミの持っていた鎖鎌はどこだ。俺も一緒に迎え撃つ。だから鎖鎌を返せ」

「境内に誰か侵入してきたようやなあ。境内に張られた結界に引っ掛からずに入ってきたということは、(まが)の者ではないようやなあ」如月(きさらぎ)が社殿内で座したまま呟くように言った。
 神は自分の力の及ぶ地域、特に自らが鎮座する境内に生じた異変は鋭く感知することができる。そんな神の力の一部であり、長らくその近くに侍している如月は、神が感覚的に感じたことをおおよそ察することができるようになっていた。
「さあ、娘。そろそろその身に大神たちの御霊(みたま)を宿してもらおうかねえ」如月は穏やかに言う。しかし、その目には一抹(いちまつ)の緊張感が漂っていた。それが気になってタカシは思わず声を上げた。
「待ってくれ。他に方法はないのか。危険がともなうようなことはさせられない」
「民草よ、もう、そのように模索する時は過ぎているのだえ。するべきことをする、それだけが事態を良き方へ導くことができる、そういう時宜(じぎ)なのだえ」
 タカシはジッと如月の目を見ている。如月もジッとタカシのそれを見つめていた。すると急にタカシが立ち上がり、すぐさまリサのもとまで歩み寄ると、その手を取った。
「行こう。ここにいては危ない。行くんだ」そして腕に力を入れてリサを立ち上がらせた。
「本当にいいのかえ。今、境内に侵入してきた者は、どうやら民草の娘。災厄の力を受け入れた()(しろ)の娘だ。依り代ということはそなたの一族の者ではないのかえ?」
 如月のその言葉に歩きかけたリサの脳裏にマコの姿が浮かんだ。
「それは、本当なの?……それは、あたしの妹?」
「若い民草の娘が境内に入ったと大神様が感じておられるからなあ、間違いない。ただ災厄の御霊の依り代になっておる。どうにかせんといかんなあ」
 まったく言い淀むことなく、落ち着いたままはっきりと告げられる如月の声。それを聴いていると、疑うよりも期待する気持ちの方が勝ってきて、次第にそれがマコに違いないと思えてきた。だからリサは、自分の手を握っているタカシの手に空いた手を沿えてすっと外すと如月に正対した。
「それで、あたしは何をすればいいんですか?」
「ふふ、難しいことは何もないわえ。そなたは心を解き放ち、すべてを受け入れる心構えで、ただ座っておればよいでなあ。後はこちらで神々の御霊をそなたの身にお招きして()せ奉るよう取り計らうでなあ。何も考えず、何も思わず、ただ座っておればすぐに終わる。よろしいかなあ?」
 リサは少しの間を置いて、そして静かに頷いた。
「よせ、危険だ。こいつらが君に何をしでかすか分かったもんじゃない。もっと他に手があるはずだ」タカシはとっさに必死になって言った。現状、他の手段など何も考えつかないが、とにかくこのままの流れではリサの身に危険が及ぶかもしれない。自分の身なら、リサのためならどうなろうと仕方がないと思えるが彼女の身を危険に(さら)す訳にはいかない。再びタカシはリサの手を取った。
「やめて」リサはとっさに身をすくめて拒絶した。
「そこの民草、そのくらいにしておけ。おぬしには何が正しいことかなのか本当に分かっているのかえ。これは人智を超えた次元のこと。おぬしが反対すればするほど物事が悪い方へ向かうかもしれんのだ。もう、諦めさっしゃれえ」
 重みのある声、これまでの経験や知識、信条に裏付けされた確固たる説得力を持った言葉が如月からもたらされる。タカシはかたわらのリサを見る。その目、その表情は、どうか分かって、と訴えていた。更にマサルの姿に視線を移した。黙って床に視線を向けている。如月の言うことにまったく異論がないようだった。後方に恐らく警備のために控えているのだろう二人の女眷属の姿を見る。今の話が至極当然のことだと言わんばかりに単に無表情だった。続いて如月に視線を向ける。その姿は自分が正しいことを言っている自信にあふれていて、余裕すら感じられた。じっと、微動だにせずこちらを見ている。何かを見定めようとしているかのように。タカシは何も言えず、ただうつむいた。
「やはり、その程度のものか……」如月が呟いた。
 激しく雨が降っている。間断なく屋根から、周りの地面から雨の打ちつける音が響いている。普通の会話すらなかなか難しい状況だった。しかし、不思議なことに、こちらの声はすんなりと届いておるようで、眷属たちの声も頭の中にすっと入ってくる。だからその呟きにタカシははっと我に返った気がして思わず言った。
「俺は、命を懸けてリサを守る。リサを危ない目に遭わせる気なら俺を倒してからにしろ」
 そう言った瞬間、ポンと(ひたい)を叩かれた気がした。すると、たちまち身体の感覚が消えた。(あご)が上がる。天井が見える。そのまま後ろに倒れていく。視界が狭まっていく。音が消えていく。あれ、と思いながらタカシは意識を失った。最後に、自分を見ているリサの驚いている表情が見えた。
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