第七章十一話 穏やかなる最期

文字数 4,386文字

「大神様、我が()の一族は(かしこ)き大神様の大御意(おおみごころ)を承り、只今よりこの民草(たみくさ)の娘を守護いたします。事の(よし)を平らけく安らけく(きこ)()せと(つつし)み敬いて(もう)す」
 すでにタツミの身体の分裂ははじまっていた。きらきらと七色の光を放ちながら小さな欠片が宙へ浮かび次々に消えていった。ナツミが涙を必死に(こら)えながらその身体の上に(おお)い被さって、その上昇をとどめようと試みていた。
 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の頭がすうっと動いて自らの眷属たちに向かった。何を考えているのか、横たわるタツミと必死に助けようとするナツミの姿をジッと見つめているようだった。そして、おもむろに声を発した。
 ――タツミ、ご苦労であった。
 その声にタツミはすべてが報われた気がした。
 生まれてすぐに自分一人ですべてをこなさなければならなかった。
 右も左も分からないままに、孤独を噛みしめながら人々を守り、村を守った。
 弟妹が生まれてからはその世話もしなければならなかった。
 いくら呼び出しても大神様にはお応えいただけない。
 他の社の眷属たちからの、疑いの眼差(まなざ)しを避けるように日々暮らしてきた。
 自ら仕える大神を信じてただ日々を生きてきた。
 そのすべてが間違いではなかった、自分は正しいことをしてきたと今、思うことができた。もう思い残すことは何もない。ただ、向後を託す弟妹たちに自分がいないことで今まで以上に苦労を掛けることだろう。ちゃんと、大神様の名を汚さず、他の眷属たちと折り合いをつけていくことができるだろうか、一抹の不安が胸裏をよぎった。しかしすぐに振り払った。大丈夫。カツミとナツミならどうにかしてくれる。信じよう。誰よりも我が弟妹たちを信じよう。
 タツミは片手に意識を集中した。鈍重な神経を鞭打って上げていき、自分の身体の上に覆い被さっているナツミの頭にポンと乗せた。そしてゆっくりと、そっと撫でた。
「大きくなれ、立派な眷属になれ」
 自分の頭を撫でる指先が小刻みに震えていることで、死力を振り絞っていることが分かる。
 今までナツミはこの長兄から優しい言葉を掛けてもらった記憶はない。もしあったとしても、思い出せないくらい数が少なく、昔のことでしかない。でも、今、優しく撫でる手の温もりが長兄の思いだったのだと改めて分かった。言葉には出さずとも、自分を慈しみ、優しく守り育ててくれた。だからどんなに叱られても、どんなに厳しくされても、決して反抗する気になれなかった。不思議なくらい、ただ甘えていた。
 兄様が優しいことくらい知っていた。ずっとずっと昔から分かってた。でも、今、何でそんなことを言うの。いつも泣いてはいけないって言うくせに。何でそんなことを言うの……
 頭を撫でる手が次第に粒子状に分解していく。ナツミの頭から全身に降り掛かり、すっと溶け入っていく。
「我は死なん。この里にとどまりいつまでもお前たちを見守っている。そなたは我が安心していられるように、しっかりとお勤めに励むんだぞ」にこやかに微笑むタツミの顔も次第に溶けていき、細かい粒子となって空中に立ち上っていく。ナツミは目を閉じ、静かに頷いた。
「それから、我の身体を日枝神社(ひえじんじゃ)の眷属たちに注いであげなさい。マサル殿、今、カガシたちの毒を消します。その代わりと言っては何ですが、我が弟妹のことを気に掛けてやってはくれまいか。未熟者ゆえご迷惑をお掛けすると思うが」
 身体の分散がはじまってしまった以上、消滅は最早(もはや)避けられない。それを察してタツミは潔く覚悟を決めて、向後を託そうとしている。安らかに大気に溶け込んでいこうとしている。そのことをマサルは理解した。
「分かりました。大神様の名に懸けて、我は弟殿、妹殿の助けになりましょう……」それから先、マサルは言葉を継げられなかった。数少ない面会の中ではあまり親しくなることはできなかったが、生真面目な性格、信頼できる眷属らしい眷属である印象を抱いていた。だからこのまま消滅させるには忍びない思いが言葉を詰まらせた。かと言ってもう助ける術もない。本人が覚悟を決めた以上、安らかに見送るしかない。
 タツミはそんなマサルの思いを察したようにゆっくりと微笑んだ。そんな二人に挟まれてナツミはたまらず叫ぶように声を上げた。
「大神様、お願いします。兄様を助けて。うちはどうなっても構いませんから、どうか兄様を助けてください。お願いします」
 大物主大神はただじっと黙って(たたず)んでいた。その様子を眺めながら、これは神様と眷属との間の話で人間である自分は門外漢だと思ったが、思わずタカシは口を挟んだ。
「眷属は神様の一部、その霊力が具現化したものだと聞いています。それなら神様の力で助けることができるのではないのですか。なぜ見捨てるようなことをするのですか」
 眷属たちは聞いているだけで身体が縮こまる思いだった。怖れを知らぬ者ほど恐いものはない。
「我は大神様の御許(みもと)に帰らねばならぬ。それは定めなのだ。古木が枯れ、倒れ、朽ち果てた後にそれを糧として小さな木々たちが育っていく。我はもう朽ちねばならぬ頃合いなのだ。分かってくだされ。さあ、ナツミ、もうお別れだ。我の身体をみなに」
 タツミのその声にナツミは固く目を閉じ、決心して再び開いた。密度の薄くなった兄の身体が輝きを放っている。ナツミは両手でその輝きをすくい、立ち上がるとマサルの脇に立って全身にその輝きを振り掛けた。輝きはマサルの身体に落ちると、雪が溶けるように消え、そのままマサルの身体の中に浸透していった。
 続けて他の山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の眷属たちにも掛けてやった。その様子を眺めながらタツミは安堵した。身体を繋ぎ止めていた緊張感がふとゆるんだ。とても穏やかな気分だった。
「これで、ようやく、大神様と、ともにいられますね……」
 大物主大神の姿が少しずつぼんやりと薄くなっていく。粒子となって、山に向かって緩やかに流れていく。その流れにタツミの欠片たちはともに向かった。同じ流れに乗り、混ざり合い、一つとなりながら消えていった。
 ナツミは僧兵姿の眷属たちと正対している間に、背後でひとつの存在が消えた気配を感じた。しかし振り返らず、しばらくそのままじっとしていた。眼下では振り掛けたタツミの欠片の解毒作用が効いたようで、それまで動くこともままならなかった眷属たちが呻き声を上げながらも動き出し、起き上がり、見る見る回復していく自身の容態に戸惑いながら安堵の吐息を漏らしていた。
「掛けまくも(かしこ)き大物主大神の大前に山王日枝神社眷属マサル(かしこ)み恐みも(もう)さく」
 マサルはまだ回復途中であったが自らの果たさねばならない使命を完遂(かんすい)するために薄くなっていく大物主大神の姿に向かって頭を垂れながら声を張り上げた。
「我が大神からの大御言葉(おおみことば)を告げ奉らく。我が大神、()(たま)いしは、三輪神社の大神、神議(かむはか)りに対し二心有る()、無き()。神議りの和に背を向けること有り()、無き()大御意(おおみごころ)(よし)、宣り下し給えと申す。我が大神の案じ給いし大御心、(たい)らけく(やす)らけく(きこ)()して、御言葉下し給えと(かしこ)み恐みも(もう)す」
 大物主大神の身体の動きが止まった。少しの間を空けて声が降ってきた。
 ――山王日枝神社の眷属よ。そなたの大神に言伝(ことづ)てせん。我は国津神を()べる者。我に二つ心あれば我動き、力を(あらわ)さん。我動かず、力を顕さぬことにより、神議りの和を保つなり。案ずるに及ばず。御心(おだ)ひに息災であられよ。
 言い終える時にはすでにその御姿(みすがた)は消えていた。
「宣り下し給いし広き厚き御心、(うれ)しみ(かたじけな)み奉る」マサルは床に(ひたい)を着けたまましばらくの間動かなかった。目的を達成し、傷が癒えていく安堵感が全身を包んでいた。
 そんなマサルの様子を尻目にナツミの胸には、言い知れぬ喪失感が渦巻いていた。しかし兄に託された使命が自分にはある。ナツミはうつむけていた視線を上げた。兄様の意志を継ぐのはうちだ。
「民の娘。うちはお前を守る。いいな」
 リサに視線を向けてナツミが言い放った。突然の宣告にリサはどぎまぎと戸惑ったがかろうじて言った。「あ、はい」
「我もその娘を守ろう」すでに容態が回復して体色もほぼ元通りになっていたマサルが起き上がりながら言った。「巳の一族は命の恩人だ。当然、我も手を貸す」
 首だけ巡らせてちらりとマサルを見たナツミに向かって更に声が聞こえた。
「我も手伝う」それはロクメイの声だった。それまでは状況が掴めずにその場にいただけで発言の一つもしていなかったが、急に思い立って声を発していた。
 ナツミは(いぶか)しく思った。マサルの場合はタツミが命を助けた経緯があるので納得できたが、ロクメイは上官命令で、単にここまで兄と自分を連れてきてくれただけに過ぎない。そんな風に思い立って発言する理由が分からなかった。そんなナツミの疑問を察したのかロクメイが続けて言った。
「我の名はロクメイ。そなたは我の名を呼んでくれた。我は、我を知る者のために働きたい。いや、働く。ぜひ、ともにいさせてくれ」
 ナツミがロクメイの姿をしっかりと見て、そして頷いた。「分かったわ」更に振り返り、幣殿(へいでん)の中心で座ったままのリサのところまで音も立てずに近づいた。
「そういうこと。うちらは今からあんたと行動をともにする。あんたがこれから何をしようとしているのか分からないけど、どうやらあんたはこの郷にとってとても大切な存在みたい。だからうちらはあんたを守る。先ずは何をするつもり?」
 その存在はもしかしたら何より大切なものなのかもしれない。しかし、たかが非力な民草(たみくさ)の小娘だ。守護はするが、臣従するつもりは毛頭ない。逆に危険な目に遭わないように言うことをきかそう、くらいに考えていたので、ナツミは自然と尊大な印象を与える見下し方をしていた。
 リサは身体ごと向きを変えてナツミに正対した。そして、少しのためらいを見せた後、精一杯の不満を表すためにキッと睨みつけた。
「あたしは、あなたたちが(さら)っていった妹を助けにいく。妹を連れいった所に案内して」

 間もなくタカシとリサ、ナツミとマサルとロクメイの五人は三輪神社を後にした。
 一行が出発する前に、それまでじっと事の成り行きを見守っていたルイス・バーネットがすっとタカシのもとに近づいた。
「もうみんな大丈夫そうだから僕はアザミの所にいくよ。何か悪い予感がする。君たちもくれぐれも気をつけて」
 そう言うと彼は脇目も振らずに社殿を出ていった。恐らく鳥に変化して飛んでいったのだろう。また、マサル以外の山王日枝神社の眷属たちも、重い身体を引きずるようにしてそそくさと自分たちの村に帰っていった。
 鹿姿に変化したロクメイにリサが騎乗し、その(かたわ)らにタカシとマサルが付き従う格好で出発した。その際、ナツミは背筋を伸ばして美和山に正対すると深く一礼した。どうか、見守っていてください、と心中(つぶや)きながら。
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