最終章六話 黄泉比良坂

文字数 6,513文字

 じりじりと西日が山際に近づいていく。間もなく日が暮れる。
 熊野神社奥宮の社殿の奥には、少しの空間を置いて見上げるような巨岩がそそり立っていた。その奥宮のご神体でもある注連縄が張り巡らされた磐座(いわくら)の脇に洞窟の入り口が見える。普段は塞がっているその洞口(ほらぐち)から強く風が吹き出している。その風に乗って黄泉(よみ)のケガレが現世に雪崩(なだ)れ込んでくる。ケガレは現世に現れると実体化し、魑魅魍魎(ちみもうりょう)となって跋扈(ばっこ)する。
 その流出を防ぐために玉兎(ぎょくと)息吹(いぶき)を強く放ち続けていた。その洞口に向かって、流れに逆らって押し返していた。しかしそれも長くはもたない。すぐに体力が尽きてくる。
「みんな、小さな生き物を生きたまま捕まえて、俺の背中の土気色した奴に与えてくれ。じゃないと息が続かない。急いでくれ」
 その声に地上に現れた魑魅魍魎を駆逐していた眷属たちが急ぎ山中へ小動物を捕獲しにいった。虫や小鳥や爬虫類など生きたまま捕まえてくる。それをマガに与える。マガはそのすべてを取り込み、力を得ると、それを玉兎に注入した。それによって玉兎は更に息吹を放ち続けた。
 そうこうするうち、陽は更に傾き、すでにその半分を山の端に隠していた。洞窟からの風が更に勢いを増す。玉兎の息吹でも押し返すことが難しくなってきた。洞口付近で拮抗している。
 その場にいる者たちは洞窟を見つめ、中に入っている者たちの帰還をまだか、まだかと待ちわびていた。

 ――――――――――

 松明(たいまつ)を手にしたコズミの先導で一行は地上へ向けて飛び、駆けていた。松明は、地上から下ってくる際にも持っていたが、ほぼ使い切っていたので、黄泉大神(よみのおおかみ)が黄泉の国と現世を繋ぐ道である黄泉津比良坂(よもつひらさか)では、暗闇に濃厚なケガレが巣食っている、それを寄せつけないように灯りを持っていけ、と新しいものを持たせてくれていた。
 道は曲がりくねり、時折、枝分かれしている。コズミはこの道を下る間、ずっと記憶しながらたどってきた。そうでないと帰り道に迷うかもしれないと思い、急ぐ中ではあったが、一つひとつの曲がり道や枝分かれを記憶していた。彼にはそういったところがある。何事でも全体を俯瞰(ふかん)し、業務の円滑な遂行のため気を利かすところが。クロウはそんな腹心を心強く思いながら後に続いて飛んでいく。その後を四頭の鹿が走り、続いてタカシをぶら下げたナミが飛んで追う。そして最後尾に一羽のコウモリが続く。
 生ぬるい風が後方から吹いて背を押す。コズミが持つ松明と、ナミとルイス・バーネットが変化したコウモリが身に着けた通信器から発せられる光で辺りは照らされていたが、その向こうに濃厚な闇の潜む気配を感じる。不穏な空気を乗せて吹き寄せる風が不安と焦燥感を躍起(やっき)する。誰もが胸にざわつきを覚え、早く地上へ脱したい、と思う。
 あと残り三割程度か、高速で飛びながらコズミが見当をつける。しっかりと前方に集中しているために後方を気にする余裕はない。そんな彼と、彼の持つ松明をみなが追う。
 最後尾でルイス・バーネットは自分の通信器が発する光量が減っていることに焦っていた。その点灯には身に着けている者の霊力を微量ながら消費する。彼は先ほど黄泉の宮でナミに霊力を分け与えた。それまでもかなりの量、霊力を使っていた。何とか地上へ脱出するまでもつかと思っていたが心許(こころもと)なくなってきた。
 黄泉の宮を出る際に、ナミから何か小動物にでも変化すれば私が連れて飛んであげる、と提案されていたが、なるべく彼女の負担になりたくなかったためにその申し出を断っていた。まったく、自らの見当が甘かったと言わざるを得ない。やはりあまりにアザミのことが心配で冷静さを欠いていたのだろう。
 タカシはナミに手を引かれながら飛んでいたが、ふと後方にあった光が弱まり、遠ざかっていることに気がついた。
「ナミ、ルイス・バーネットが」
 その声にナミは背後を振り返った。確かに弱々しい光が後方へと遠ざかっていく。とっさにナミはタカシをぶら下げたままで後戻り、すぐにルイス・バーネットが変化したコウモリの羽ばたく前に立った。
「ほんとバカ。無理しないで、また虫にでもなってポケットに入ってて」
 ルイス・バーネットは言われた通り、細長く金属のような光沢のある緑色の身体に二本の赤い帯を背負った甲虫に変化して彼女の上着のポケットに収まった。
 ナミはすぐに先行の者たちに追いつかなくては、と再び進行方向に目を向けた。しかし、そこにはコズミたちの姿も松明の光もなかった。
 彼女たちは仕方なく道に沿って進んだ。先ほどまで確かに自分たちを先導していた者たちが消えていなくなっている。言いようもない不安に(さいな)まれる。何か悪いことが起きる前兆に思える。とても落ち着かない。
 そしてナミは停止した。
 眼前には上下左右いたる所から道が伸びて交差する一点があった。
八衢(やちまた)だ……」タカシが呟いた。

 ――――――――――
 
 ずりずりと磐座が地を擦りながら次第に洞口を塞いでいく。陽が沈み切ったタイミングでそれは完全に洞窟を塞ぐ。そうなると中にいる者たちは二度と出てこられない。
 まだか、とその場にいる眷属たちはみな焦りを感じていた。しかしどうしようもない。こうして奥宮の結界を解くのも初めてなら、眷属を黄泉の宮に派遣したのも初めて。前例のないことばかり。何が起こるのか、どういう結果になるのか、それは誰にも分からない。だから、もう待つしかない。
 そんな中、サホは全身、悲愴感に覆われていた。仲間を見捨てた自分、その汚点をぬぐうためにまた仲間を黄泉に向かわせた。もしかしたら全員帰ってこられないかもしれない。やはり自分が行くべきだった。こんな思いをするくらいなら、自分が黄泉に閉じ込められた方がどれだけ楽だろう。そう自責の念に押し潰されそうな、誰もが近寄りがたい強張(こわば)った顔をしたサホに、カツミが片足を引き擦りながら近づいて声を掛けた。
「大丈夫だ。まだ時間はある。我らも帰ってこられただろう。仲間を信用してやれ。きっと帰ってくる」
 ちらりとサホはカツミに視線を向けて、そうだな、と呟くと前を向いた。仲間の無事を一心に願いながら。
 洞口周辺には天満宮の眷属たち、清瀧(きよたき)やクレハ他、地上に残っていた者たちが時々漏れ出てくる魑魅魍魎を駆逐するために手に獲物を持って待っていた。
 魑魅魍魎は玉兎の息吹きを掻い潜って時たまポトリと地に落ちたり、ひらひらと宙を飛んで出てくる。その体色はおおむね暗色だったが、大きさや形状は様々で、手足のある者もいれば、ない者もいる。目鼻口もある、なしがあり、共通点としては闇が凝固したようなおどろおどろしさと泥のような肌の質感くらいだった。
 眷属たちは地上に出てくるそれらをすぐさま倒していく。生まれたばかりのせいか手応えはない。(まが)い者の方がまだ手応えがある。ナツミもカツミから(かま)を奪い取って次々に魑魅魍魎たちを退治していた。その間にふと何か見えた気がして洞窟の奥に視線を向けた。そこにはほんの微かに見える松明の灯り。
「誰か来る。風を止めて」
 ナツミの声に玉兎が息吹を止めた。とたんに洞口から大量のケガレとともに風が噴き出してくる。その風に乗って、コズミが、クロウが、睦月(むつき)が、ミヅキが、弥生(やよい)が、ロクメイが地上へと飛び、駆け出てきた。
 わっと歓声が上がる。もうダメかもしれないと誰もが思いはじめていた。もう諦めなければならないかも、と誰もが心の準備をはじめていた頃合いだった。
 クロウもコズミも地に落下し、鹿姿の眷属たちは変化(へんげ)して人型に戻るとその場に崩れるように座り込んだ。魑魅魍魎を駆逐している者たち以外の眷属が彼らに駆け寄る。その中でもサホは真っ先に仲間のもとに向かっていた。
「弥生、ロクメイ……よくぞ、よくぞ帰ってきてくれた……」
 サホの目ににじみ出るものがあった。今まで見たことのない隊長のそんな姿を見て、弥生も目頭を熱くさせながら呟くように言った。
「隊長、ご心配をお掛けいたしました。弥生、ロクメイ、ただいま帰還いたしました」
 うん、うん、と言いながらサホは、並んで座り込んでいる弥生とロクメイの肩をがしっと抱き寄せた。その横で睦月とミヅキは全力を使い果たして座り込んでいた。安堵の笑みを見せながら。そんな二人にサホが顔を向けて言う。
「お前たち、よく二人を連れ戻してくれた。礼を言う。よくやった」
 睦月は初めてサホに褒められた気がした。実際、今まで褒められた記憶がない。全身が一気に達成感に満たされた。そんな眷属たちに歩み寄ってくる一つの影。
「あの……タカシは、ナミさんは、どこに?」
 見ると小刻みに全身を震わせているリサがいた。睦月もミヅキもはっとして周囲を見渡した。言われてみれば自分たちが地上に戻ることに必死で民草(たみくさ)たちがいないのに気づいていなかった。あれ?あれ?一緒に帰ってきていたはずなのに?
 そんな二人の戸惑っている姿を見て、リサはとっさに走り出した。洞口に向かって今、タカシたちがどこにいるのか確かめたくて。ジッとしていられない、何も考えずに走り出す。そんな彼女の右足に突如違和感。()いている雪駄(せった)の鼻緒を挟んでいた足の親指と人差し指に掛かる力が急に軽くなった。慌てて立ち止まり足もとをみると鼻緒の前坪(まえつぼ)が留め具ごと雪駄から抜けている。え?まだ新しそうなのに、何で?思いつつもリサは両足の雪駄を脱いで、手に持つと白足袋履(しろたびば)きのまま(たもと)をなびかせながら再び駆け出した。呼ばなきゃ、私が彼の名を呼んであげないと、と無性に思いながら。
 洞口に向かうリサに、ぬめり気を含んだ、生ぬるい風が吹きつけてくる。魑魅魍魎が全身にまとわりついてくる。しかしそんなことは今、どうでもいい。とにかく彼を呼ぶ。帰ってきてくれるまで呼ぶ。もうそのことしか考えていなかった。そして風に目を細めながら洞口にたどり着くと、心の底からあらん限りの声を発した。
 タカシ―!

 ――――――――――

「ねえ、これどっちに行けばいいの」空中に浮かんだままナミが言う。
「こっち?あっち?いや分からない。道が多すぎる」いったん手を離されて地に降り立ったタカシが答える。
「もう時間ないわよね。適当に選んで間違ったら二度と外に出れないんじゃない?どうすんのよ」
 言われてタカシは一つ一つの穴を覗き込んだ。何か違いでもないかと思ったが、どれも同様な闇しか内包していない。とたんに焦燥感に包まれる。どうする、どうしたらいい?このままじゃ、二度と地上に帰れない。二度とリサに会えない。どうしたら……
 タカシはそのまま胡坐(あぐら)をかいてその場に座り込んだ。そして目を閉じて、うつむいた。
「何してんのよ。諦めたの?もう、抗うのをやめたの?」
 これまでどんな困難に遭遇しようとも、窮地に追い込まれても、ただ山崎リサに会うために、彼女を助けるためにこの男は予想もできない力を発揮してきた。予想外のことを起こして難局を突破してきた。現状、それに期待するしか術がない。だからナミは意識してタカシを責め立てていた。
「黙っててくれ。少し集中させてくれ」タカシが吐き出すように言った。そしてそのまま自らの内へ内へと集中した。
 彼の脳裏にリサと初めて会った時から最後に見た時までのたくさんのリサの顔が浮かんでいた。泣いている顔、困っている顔、ぼおっとしている顔、緊張している顔、怒っている顔、微笑んでいる顔、そして、嬉しそうに笑っている顔。
 そのすべての瞬間が、愛おしい。
 彼女と過ごしたその時、その場所、そのすべてが大切で、これ以上なく愛おしい。
 その気持ちに集中する。するとすぐに訴求する声が脳裏にこだまする。リサのもとに帰りたい。リサに会いたい。その他の何よりも強固な思いが彼に力を与える。彼の体内に宿る特別な力が覚醒し、彼の意思とは関係なく動きはじめる。
 地底から吹く風の音だけが洞窟内に響く。ナミは髪を風になびかせながらじっとタカシの背を見つめていた。やがてぼんやりと彼の全身が白い膜に覆われた。
 その膜は次第にうねうねと伸びていく。枝分かれしてこの場に口を開けている洞窟の数だけ増えるとそのままそれぞれの洞窟内を這うように伸びていった。
 タカシはそのすべての枝に神経を集中した。微量たりともリサの気配を感じられるように、ほんのわずかな異変でも気づけるように。
 そんな洞窟内を伸びていく枝の一本の先にほんの微かな波動が伝わった。それは例えば山一つ向こうで泣く赤子の声のように、もし万が一、聞こえたとしても気のせいとも思わないような微かすぎる音の波動だった。でもタカシの伸ばした白い枝はそれを確実に聞き分けた。間違いなくそれがリサの声だと確信した。
 はっと目を開く。瞬時に幾多に別れていた枝が身体に戻ってきた。
「あの道だ」タカシは右斜め上に伸びる洞窟の口を指さした。
 いきなりナミが背後からタカシの腹部に手を回した。
「全速で飛ぶわよ。壁に手や足ぶつけたら粉々になるから気をつけて」
「分かっ……」た、とタカシが言う間もなくナミは飛び立った。言葉の通り、全速で。

 背後から吹いてくる風よりも速く飛んでいた。
 曲がりくねっている道、右に左に身体を傾けながら、壁にぶつかりそうになりながらも飛んでいく。身体が(きし)む。叩きつけるような風圧に息もできない。力も気もいっさい抜くことが許されない。飛ぶことだけに集中する。迷いを抱いてはいけない。疑問を感じてはいけない。どこまで飛べばいいのか、何てけっして考えてはいけない。力の限り、ただ飛び続けるだけ。
 やがて、はるか前方に、小さな光が、現れた。

 ――――――――――

 リサはタカシの名を呼びながら徐々に閉じていく磐座を全身を使ってとどめようと押していた。
 すでに山の端に沈んでいく陽はほぼそのすべてを隠し終えて、その上端の一部を覗かせているだけだった。もう洞窟の入り口もおおよそ塞がれている。上方の一部分だけが人が通れる間がある。これ以上、閉じたらタカシもナミさんも出てこられなくなる。全身をケガレに染めながらも身体中に力を込めて磐座を押す。しかし軽い彼女の体重では何の意味もなしていない。彼女は更に呼ぶ。どうか間に合って、と願いを込めて。
「あんたはまったく、いつも、いつも何やってんのよ」と言いつつ状況を察したナツミが鎌を捨てて磐座をともに押す。その姿に他の眷属たちも続いた。その場にいた眷属たちで動ける者ほぼ全員で磐座を止めようと試みた。閉じ切ってしまうまでのわずかな時間を稼ぐために。
「大神様」とマコモが伊弉諾命(いざなぎのみこと)分御霊(わけみたま)が鎮まる御神輿(おみこし)の前に座して平伏する。神の力で少しでも磐座の動きを止めることができないか、一縷(いちる)の望みを懸けて平伏していた。
 ――これは定めなのだ。民草のためにこの地をケガレで満たす訳にはいかん。
 御神輿の中から沈んだ声が響く。マコモには神の苦渋の決断が察せられた。確かに陽が沈んでしまえば黄泉と現世(うつしよ)の境があやふやになる。その前に一線を引いてしまわねばこの世がケガレだらけになる。
 周囲に幾本もの松明が灯される。薄闇の中、マコモは磐座を押しとどめようとする眷属たちにその場から離れるよう自分が指示しなければならない責任を感じた。その前に一度目を閉じ、タカシたちに、申し訳ない、と呟いた。
 磐座を押す眷属たちの中に蝸牛もいた。肩を岩肌に押しつけ全身を使って押していた。眼下にはリサが座り込みながら磐座を押している。その非力な身体で諦めずに必死に磐座の動きを止めようともがいている。その姿を見ていると自分も力を出し切らねばならない気がした。だから焼けただれて痛む両手を岩肌に押しつけて全身全霊を懸けて押した。わずかでもその隙間を保つために。
 やがてリサの見開いた目に、わずかに開いている洞口の奥に微かな光が見えた。
「帰ってきた」
 リサの声に磐座に取りついていた眷属たちは全身に尚も力を込めた。蝸牛も、がああ、と声を上げながら出せる限りの力を両手に込めた。
 洞窟の中の光が見る見る近づいてくる。ものすごい速さで。
 そしてほんの一瞬、磐座の動きが止まった。
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