第九章八話 花が咲き蝶は舞う

文字数 5,222文字

 タカシたちは、鹿の背に乗って、林の中を疾走していた。
 とにかくよく跳ぶ。ぐっとこらえていても思わず声を発してしまう。何度、(うめ)き声や叫び声を上げたか分からない。とにかく声が枯れるほど跳ね飛んでいた。
 リサは引き続きロクメイの背に乗っていた。これまでの道のりである程度慣れていたとはいえ、先ほどまでとはまったく違う激しい走りにやはり、ひゃあ、と何度も声を上げていた。
 カツミはロクオンの背に乗り、ナツミもマサルもそれぞれ雄鹿の背に揺られていた。この移動方法については弥生が指示を出していた。民草(たみくさ)は足が遅いし、三輪の眷属たちは自分たちの足で移動させると見失って逃げられる可能性がある。だから男眷属の背に乗せて、途中、立ち止まることなく我が村まで行くべきだ、と考えていた。また男眷属の中で背の空いている者には負傷者を乗せ、サホ以下、女眷属も変化(へんげ)して、全員で跳躍しながら一路、春日村(かすがむら)に向かって突き進んでいた。
 タカシが驚いたことには、一行は臥龍川(がりゅうがわ)に差し掛かった時も一気に押し渡った。岸辺にいたると速度を緩めるものと思っていたが、どの眷属も速度を落とす気配は微塵もなく、逆に近づくほどより一層速度を上げていった。そして岸辺で大きく跳躍すると、その背に何も乗せていない眷属はその川幅の大半を跳び越え、背に誰かを乗せている眷属もその半ばまで跳ぶと、後は何度か水面を蹴り跳ねて対岸にたどり着いた。
 いったん全員が渡り終えるまで待ち、再び一行は進みはじめた。左手に美和山の稜線が、強く西日に照らされてほの赤く染まりはじめた入道雲を背負って、(たたず)んでいた。
 ナツミはタツミの最期を思い出して、思わず目頭が熱くなった。どうか、見守っていてください、神と兄が鎮まる秀麗な山容に向かって、心中で呟いた。
 カツミも三輪山の山容を眺めていた。先ほど岸で全員の渡河を待っている間に、ナツミから兄の最期の様子を聞かされていた。
 予想していたことだった。
 タツミからは、村を、大神様を、自らの存在を賭けてでも守護せねばならぬ時が、いつくるとも限らん。その時のために常日頃から覚悟を決めておけ、といつも言われていた。だから、どのような状況がいつ起きてもいいように心づもりだけはしっかりとしていた。何が起きても仕方ないと諦められる、そう思っていた。自分の存在についても、兄の存在についても。
 でも、カツミは生まれた時から、ずっと何百年もタツミと一緒にいた。数少ない家族、いつも一緒にいることが当たり前の兄弟だった。
 生まれてこの方、感じたことのない喪失感。胸の中に、果てしなく深い、漆黒に染まる穴が現れて、渦巻き大きくなりながら存在を主張しているような気がした。ああ、これは、想像していたのと違う。
 カツミはしばらく目を閉じてロクオンの背に揺られた。胸の痛みが静かに鎮まってくれる時をじっと待ちながら。
 ()の兄妹が沈鬱な面持ちをていしたまま一行は進み続けた。
 美和村に入ってからは御行幸道(みゆきみち)に入り、長く平坦な道が続いた。神鹿隊(しんろくたい)は隊列を組み、一個の群れとして、みな駆け足に歩調を合わせて進んでいく。その中央付近に弥生(やよい)とミヅキがいた。弥生は周囲への警戒もそこそこに、厳しい顔つきをしながらしきりにぶつぶつと呟いていた。
「一番騎がロクオンで、二番騎がロクジョウで、いやロクサイだったかな……。いやロクサイは三番騎で……。くそ、まずいな、顔と名前が一致せん。今、敵に襲われたら指令を発することができん……」
 鹿の姿なのでその呟きは言葉にはなっていなかったが、ミヅキにはおおよそその内容を察することができた。村に帰ったら、男眷属たちの名前と騎番の対応表をつくってあげよう。きっと喜んでくれるだろう。
 やがて、一行は美和と春日の村境にたどり着いた。

 恵那郷の南方に位置する春日村。南側を埋め尽くす山の連なりを背負うように、北側は平地が見晴らしよく広がり、延々と田畑が続いている。
 長閑(のどか)な、とても穏やかな雰囲気。風が優しく地を撫でながらそよぎ過ぎていく。道はどこまでも平坦で、小川がせせらぎ、思いなしか西陽の照り具合も柔らかくなった気がする。
 春日の眷属たちは、そんな穏やかな雰囲気にあわせてか、自分の村に入って安心したためか、進行速度をやや落としていた。タカシは鹿に乗るという慣れない経験をしたために全身強張っていたが、ここにきてやっと一息吐くことができた。それで、それまでもちょくちょく気にしていたが、隣にいるリサの姿に視線を向けた。
 そこに至るまで、タカシを乗せた雄鹿は、ただ群れの速度にあわせて走ることしか考えていないようだったが、そんなタカシのすぐ横に常時、ロクメイが駆け寄ってきてくれていた。気を使ってくれているようだ、とロクメイに対してタカシは好感を抱いた。
 それまでの緊張感が解けたのかリサは、ロクメイの背で身体を前後にふらふら揺らしながら目を眠そうに(またた)かせていた。無理もない、とタカシは思った。疲労は極限に達しているだろう。今日は夜が明ける前からいろいろあった。その小さな身体に背負い込むにはあり過ぎるほどに。
「リサ」
 タカシが呼び掛けると、リサはハッと目を開いてタカシに向けた。
「たぶんあそこが春日神社だ。もう少しだから、頑張って」
 タカシが指し示す先には民家が立ち並んでいた。その中に木々が生い茂る一画が見える。それを認めるとリサはタカシに視線を戻し、はい、と答えた。眠気が残っているせいか、そこには力感のない警戒心も猜疑心も見えない、ただのまっさらな微笑み。
 それを瞳に映して、タカシは改めて決心する。これから何が起こるか分からない。でも俺ができること、いやできないこともリサのためならするだけだ。ただ、リサが笑顔でいられるように、それだけを考えていく。
 ただ、現状、抗う術を持たない無力さを感じている。ただ、存在するだけの自分に鬱屈としたものをたまらなく感じる。どうにか、何か、手立てを見つけなければ。タカシは、そう思いながらリサを見つめる。リサも彼を見ている。その顔も身体つきも心なしか、少し成長したような気がする。いつか現実世界のリサと同じくらいまで成長してくれるのだろうか。その時、俺のことは思い出してくれるのだろうか。
 リサは、自分に向けられているタカシの優し気な表情を見ていると、胸の中にぬくもりを感じる。こんな状況だけど、このひとと一緒にいると少し不安が和らぐ、穏やかな気持ちになれる。
 道のりは緩やかな上り坂になっていた。そして間もなく村の中心部に至る。人家が次第に密集していく。その奥に周囲と隔絶された生い茂る樹々の威容。そこには朱色の瑞垣でぐるりと取り囲まれた春日神社の境内があった。
 境内北側にある正面入り口で、春日の眷属たちは全員、人型に変化した。そして軍装や荷物など、身だしなみを整えるとタカシたちを囲みながら整列して境内に入っていった。
 正面入り口には三段の石段があり、上った所に朱色に染められた、笠木(かさぎ)と横木が平行に横に伸びている春日鳥居、くぐって参入していく。
 リサと並び立って進む。今まで雄鹿の背に長時間、揺られていたせいか、浮遊感が身体に残って出す足がおぼつかない。タカシが足元を気にしながら鳥居をくぐるとその視線の先に、淡い色の花びらが一枚ひらひらと通り過ぎていった。えっ、と思い視線を上げるとすぐそこ、参道の
脇に太い樹幹のソメイヨシノが、樹形全体を包み込むように咲き誇る満開の桜花をまとって異様なほどの存在感を放ちながら立っていた。
 風が吹く度に、ふわっと周囲を桜色に染めながら大量の花びらが舞い落ちてくる。それは得も言われぬ至福の風景。そこに身を置いていると、それ以上の何ものも求めることさえ忘れるような情景だった。
 タカシもリサも、春日以外の眷属たちも、眼前の風景に見惚(みと)れつつも戸惑った顔をしていた。鳥居を潜るまで満開の桜にまったく気づかなかった。それに真夏のこの時期に桜?
 しかし、見渡せば、境内は外界より更に穏やかな雰囲気に包まれており、境内中、あちこちに梅、桜、桃、ボケ、藤などの木花(このはな)が咲き乱れ、芳香を辺りに漂わせながら境内中を彩っている。多種多様な(ちょう)が花の間を飛び回り、舞い踊っている。視界いっぱいに細かい色彩が混ざり合い、溶け合いながらあふれている。とても真夏の場景には見えない。一種の別天地に迷い込んだ気分。
 今日はまた、先輩方ははりきっておられるな。タカシたちの反応をチラリと横目に見やりながらサホはニヤリと笑った。そして参道の石畳の上を先導して奥にある社殿へと向かった。
 境内に建つ、ほぼすべての建造物が朱色に染められていた。その中でも一際(ひときわ)、色鮮やかに輝いているのは社殿の威容、八幡宮ほどの大きさはないがしっかりと趣向を凝らした造りであることが察せられる品の良さが感じられた。
 そんな彼らの進行方向、桜花舞い散り、蝶の飛び交う社殿前に、数人の女眷属が忽然と姿を現した。
 どの女眷属も花々が変化したようないろとりどりの着物を着て、優雅に打ち掛けの(すそ)を引きずりながら彼らに近づいてくる。その中央で穏やかな微笑みを(たた)えている朱色地に全面、花柄をあしらった打ち掛けを羽織った女眷属に近づきながらサホが口を開いた。
「これは如月(きさらぎ)殿、お出迎え痛み入ります」
「お帰りい。先駆けの者から聞いたえ。何や、えらく苦労したようやなあ」ゆっくり、おっとりとした口調だった。背筋を伸ばして少し(あご)を上げて、目尻の下がった笑みを見せながらも見下ろすように話す。どことなく高貴な雰囲気を(かも)し出している。
「はい。しかし、禍津神(まがつかみ)は退治しましたし、神議(かむはか)りに逆らう三輪の眷属たちも捕らえ、更には神々の()(しろ)になれそうな民草(たみくさ)の娘も連れてまいりました。大戦果と申し上げてもよろしいかと」
 サホは言いながら、自分たちの力が及ばなかった面も多々あったが結果はともなっていると思った。だから、ほめてもらえぬまでも(ねぎら)いの言葉の一つもあるかもとちょっと期待した。
「さよかあ」さして興味も無さげに如月は言うと一人すっとサホの横を通り過ぎた。そしてサホ以外の仲間たちに、お疲れさんやったなあ、と声を掛けながらタカシたちの前に向かった。サホはその自分以外の者たちに向けられた労いの言葉を聞きながら目を閉じ、一息大きく吸った。
 如月の前には、タカシとリサ、三輪の眷属兄妹、そしてマサルがいた。如月は微笑みながらマサルに軽く会釈(えしゃく)した。マサルも軽く頭を下げた。二人は先日の神議りで顔を合わせているし、これまでも度々声を交わしている。いつもながら肩肘(かたひじ)張った男よなあ、もうちっと力を抜いた方が万事うまくいくだろうに、そう思いながら如月は続けて巳の兄妹に視線を移した。
 二人とも心の底が悲哀に満たされている目をしていた。けっきょく兄を助けられなかった、自分の力の無さに忸怩(じくじ)たる思いを抱いている、そんなくすんだ色。しかし、二人とも心の向きはどこまでも真っ直ぐに見える。自分の正しいと思うことだけに目を向け、真っ直ぐに進もうとする。じゃが、もうちっと怖れを知らんとこの先が思いやられるなあ。
「そなたたち、三輪の眷属じゃなあ。わっちは如月。初めましてじゃが、隣村同士これからはよろしゅうに」
 これまた穏やかに微笑みながら如月は会釈した。カツミはカガシたちの偵察で如月の存在は知っていた。春日神社の第一眷属にして前神鹿隊々長、何度も郷外への遠征を敢行して何体もの禍津神を討伐した伝説並みの実績を持つ勇猛なる眷属。特に気にする様子でもないナツミの横で、警戒心を顕わにしながら、こちらこそよろしく、とカツミは軽く会釈を返した。
 如月はまた横に視線を移して、今度はタカシ、そしてリサに顔を向けた。
 代わる代わるにじっくりと眺められて自分たちも何か言われるのだろうかとタカシは思わず身構えていた。すると、
「そなたたち恋仲か」と言われた。
 え?とタカシは思わず声を上げた。
「違うのかあ?」
 そう言われて否定する訳にもいかず、肯定していいものかも分からず、横にいるリサの姿をチラリと見た。案の定、うつむいたまま固まっている。
「まあ、どちらでもよいが、そなた、その娘を守り抜くという固い決意を持っておるなあ。じゃが、ちと覚悟が足りぬようやなあ」
 その如月の言葉にタカシはとても意外な気がした。リサのためなら自らの命も顧みないほどの覚悟を持っていると自負していたから。だから言い返そうとした。しかし、それを制するように如月がじっとタカシの目に視線を向けた。タカシはその視線に思わず声を詰まらせた。
「今のままじゃ、そなたの願い、叶わぬかもなあ」
 タカシが怪訝(けげん)な表情を見せると、如月はすっと視線を外しながら、
「客人方、(うたげ)の用意してるでなあ、どうぞこちらへ」と(いざな)うと、そのまま社殿横に建つ斎館(さいかん)に、タカシたちを先導していった。
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