第三章三話 襲い来る異形の者

文字数 3,727文字

 ナミが鶏舎(けいしゃ)の中に入って少し時間が経っていた。
 マコは言いつけ通り鶏舎の外で一人ナミの帰りを待っていた。周辺に異常はない。ただ鶏舎の中からばさばさと重層的に建物を揺さぶるような激しい音が立っている。そして突然、けたたましい衝撃音。何が起きているのか分からないが、平穏な音には到底思えない。ナミさん、大丈夫かしら?そう思い、心配な気持ちに思わず足が前に出て、鶏舎の扉に近づいた。その時だった。突然、目の前の空間が歪んだように見えた。それにつづいてバオンという衝撃音。一瞬にして鶏舎の扉周辺の壁が外側に弾き飛んでいった。
 思わず、きゃあ、と叫んでいた。彼女の視界が、扉と壁の鋼板とともに宙を飛んでいるナミの姿を捉えた。その叫び声が、顔を歪めながら飛ばされているナミに届き、とっさに彼女は視線をマコに向けた。
 そして次の瞬間、ナミはもといた空中の一地点からほぼ直線でマコの目の前に飛び、その右手首を掴むとそのまま上空へと飛び上がった。マコの被っていた麦わら帽子が飛ばされて、空中を横切りながら落ちていく。
 背後でキャーと叫び声が上がったが、ナミは一先ずそのまま飛び続けた。とりあえずこの場から逃げなければならない。あの生き物はいったいなんなの?正体が分からない。この前、遭ったケガレとも違う。とにかく今は太刀打ちできそうにない。このコだけでも安全な場所に、そう思いながらチラリと振り返った。
「痛い、ナミさん、手が」苦痛の表情を浮かべながらマコが訴えていた。確かにナミが握っている手首はすぐに折れてしまいそうなほど細かった。ナミはいったん掴んだその手を離し、そしてまた叫び声を発しながら落下していくマコの、今度は腰を掴んだ。そして先ほどよりも更に飛行速度を上げた。
「ど、どうしたんですか?何があったんですか?」息も絶え絶えな様子でマコが訊いた。
「逃げるのよ。あそこはまずいの。もっと速度上げるから落ちないようにしっかりしがみついていなさい」そう言われた通りマコはナミの身体にしがみついた。

 異形の者は鶏舎から外に出ると空を見上げた。遠くの空に一点、飛んでいるナミとマコの姿が見えた。
 異形の者は少しの間、その姿を眺めていた。その頭の中にはこれまで取り込んできたいろいろな生き物の記憶が激しく渦巻いていた。見上げているこれは“空”あの者たちは“空”を“飛んでいる”あの者たちを取り込みたい。あそこに行きたい。それなら空を飛ばなければならない……空を飛べる生き物、数えきれないほどの記憶の中から“空を飛ぶ”という概念を探した。すると一羽の鳥類の姿が浮かび上がった。この生き物はいつ頃、取り込んだのだろう?思い出そうとするが、あまりにも取り込んだ生き物の数が多すぎて思い出せない。それに鳥類だけでも何種類も取り込んでいたのだ。はっきりと思い出せるはずもなかった。とにかくあれを追う、そう異形の者が念じると、土気色の背中から同色の大きな突起が盛り上がった。そして一気にそれを広げると(またた)く間に巨大な翼になった。その羽を前後に動かす。その足元から大量の砂塵が舞い上がった。少しずつ羽の動きを大きく速くしていくと少し身体が浮かんだ。そのまま宙に上がっていき、空中の一点に向かって飛んでいった。

 ナミたちは湖の上を飛んでいた。それほど大きくはない。よくあるダム湖程度の広さ。おまけに、それほど水深も深くないようだ。いたる所から樹々が水面上に顔を出しており、所々に家屋の屋根も見えている。その様子からそこはごく最近水没してしまった村落の跡なのだろうことが分かる。ただ、水深は浅くても、その底を見透かすことはできなかった。水は濁っている。中心に近づけば近づくほど色濃く、土気色に。ナミにはそれが何となく不穏な色に見えた。その色に触れると霊力を奪われてしまいそうな気がする。
 湖の中心辺りでナミは飛行速度を緩めた。腕の中のマコがあまりに身を固くしているので、少し緊張を和らげてあげようという気もしていたし、背後を振り返っても誰の姿もなかったから。あの異形の者はどうやら空を飛ぶことはできないようだ。それにしてもあんな生き物がいるなんて。この世界も一筋縄ではいかないみたい。細心の注意を払っていかなければ、どんなことが起きるか分かったもんじゃないわね。そう心中で呟きながらもマコに向かって声を掛けた。
「もう大丈夫よ。あたしの服から手を離して。破れちゃうわ」
 それまで固く目を(つむ)っていたマコが恐る恐るという風に目を開いた。
「本当に、生きた心地がしませんでした。いったい何があったんですか?」ナミの顔を見上げながら震えた声で言う。その目に動揺が色濃く表れている。怯えた、すがるような目、その目がふと見開かれた。ナミの背後、空高く、一点を見つめている。同時にナミも異質な気配を感じた。とっさに振り返り空を見上げる。自分の影の中にいたマコを見ていたその目には上空は明るすぎた。目を細める。すぐに小さな黒い点を見つけた。それは次第に大きくなっていく。
 それまで異形の者は羽ばたき続け、上空高くまで達していた。眼下を見渡す。狭い土地だ。しかし、取り込めるものは無数にある。生き物の宝庫のような場所。少しワクワクした。ただ、今、取り込みたいのはあの者だ。眼下の小さな一点、彼は翼を折ってすぐにその者に向けて降下していった。
 その上空の点が先ほど遭遇した異形の者だということはその気配からすぐに分かった。空も飛べるなんて、圧縮能力も効かないし、飛んで逃げることもできない。ナミは自分の能力が効きそうにない相手の登場に内心焦った。そしてこちらに向かってくる衝撃波の存在にも。
 ナミはとっさに左に旋回して衝撃波を避けようとした。しかし次の瞬間、二人の身体に背後の大気が襲い掛かった。激しい衝撃、二人は離れ離れに飛ばされて、そのまま湖へと落ちていく。
 ナミは落下しながらマコの姿を捜した。
 自分よりも下にその身体はあった。手を伸ばした姿で、目を見開いてこっちを見ている。急速に濁った湖面が近づいている。
 ナミはクンッとスピードを上げてマコに近づいた。もう間もなく追いつく、その刹那、湖面の土気色が盛り上がった。マコの身体目掛けて幾本もの突起が伸びていた。
 突起の一つがマコの身体に触れようとしたその間際、ナミがマコの身体を抱き寄せ、次の瞬間には、その突起たちを粉砕し、湖面に水しぶきを上げながら飛び去った。
 湖面ギリギリを飛び続ける。振り返って異形の者がどこにいるのか確認する余裕もない。とりあえずマコをどこか安全な場所に連れていくことを優先しなければならない。ただ、その後どうするのか、とっさには考えつかない。圧縮能力が効かない相手にどう攻撃する?相手の攻撃をどう防ぐ?
 ナミは、ふと殺気を感じてとっさに左に大きく進路を変えた。足元で激しく水しぶきが立った。ナミは速度を上げていく。まだ捕捉されている。背後で激しく羽ばたく音が聞こえる。このままでは逃げきれない。間もなく湖面が終わる。その向こうには田園風景が広がり、その先は林になっている。そこに飛び込めばもしかしたら逃げられるのではないか、ナミは更に速度を上げて、全速力で飛んだ。彼女にとっては身体に掛かる負担は大したことはなかったが、マコにとってはかなりな負担になっているかもしれない。実際、マコはナミの身体にしがみつき、目を固く閉じ、歯を喰いしばっていた。ナミはその身体を守るようにぎゅっと腕に力を込めて抱きしめた。
 田園の上空に達した頃、再び背後に殺気を感じてとっさに避けた。稲の緑を(たた)えた田んぼの一画が弾けて飛んで、周囲に大量の泥が巻き散らかされた。
 もう目の前に樹々の立ち並ぶ場景が迫っていた。ナミは速度を落とさずにそのまま林の中に飛び込んだ。
 背の高い針葉樹の幹の間を縫うように飛んでいく。中低木の枝が目の前に迫り、当たり、葉を撒き散らす。林の中、奥へ奥へと突き進んでいく。少しずつ地面が上向きに傾いている。山の麓に達した。斜面が眼前に広がっている。そこまで来てはじめてナミは速度を緩めた。大木の陰に身を潜めて来た方向を確認した。マコはまだナミの身体にしがみついたままだった。
 ナミの視線の先にはどんよりと暗い林の風景が広がっていた。頭上を樹々の梢に覆われているとはいえ、いつの間にかかなり暗くなっていた。ナミは頭上を見上げた。樹冠の間から黒い雲が見えた。ナミはしばらく身動(みじろ)ぎもせず追手の姿を捜した。
 強い風が林の中を縦横無尽に走り回っている。枝が、葉が、唄い踊る。羽音を立てて鳥たちが飛び立ち、みな同じ方向へと一目散に飛び去って行く。
 嵐の前触れ、そんな雰囲気が辺りを包んでいた。
 しばらく動かずに周囲を見渡していたが、追手の姿も気配もない。ふと下を見るとマコもこっちを見ていた。その手はまだナミの白いシャツをグッと握り締めている。
「ここでちょっと待ってて。すぐに戻ってくるから」ナミはそう言いながら、マコの手を解き、立ち上がった。マコは、えっ、と声を上げた。その顔はとても心配そうだった。
「大丈夫、すぐ戻ってくるから」ナミは軽く微笑んだ。
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