第一章一話 禍々しいモノ

文字数 3,969文字

 地殻同士が押し合いへし合いせめぎ合い、より押された方が身をよじり、その身のほんの一部を、気の遠くなるような長い年月をかけて、じりじりとたゆまずにわずかずつ、空に向けて伸ばしていく。その果てとしての高台に、陽が照りつけ、雨が降り、風が吹き、比較的柔らかい岩盤を容赦なく削り、流し、吹き飛ばした。延々とつづく時を経て更に空に伸びつつ更に削られ、次第に高低差を生み出していく。やがて、そびえ立つ巨大な岩石の固まり、そのむき出しの肌に、風の撒いていったものか、鳥や獣の落とし物に混じっていたものか、いつしか草花が芽吹き生い茂り、低木も負けじと背を伸ばしはじめた。やがて、どこから来たのか高木の(たぐい)も根づきだし、年を経て背を伸ばした先に広げた樹冠が地表を覆い、季節に連れて辺り一面を彩った。
 そんな山の連なりに周りをぐるりと囲まれた田園風景の中にタカシはいた。
 じりじりと肌を焼く強い陽射しが容赦なく降り注いでいる。若緑色に輝く稲の群れから垣間見える、田の水面(みなも)に反射してキラキラと(まぶ)しく照り返してくる。
 ここはいったいどこなのだろう?まったく予想外な場所に着いてしまって困惑気味に周囲を見渡す。背後には両岸に(あし)を茂らせた小川が、細流を涼し気に(たた)えている。その水音を掻き消すように、山や樹々や周囲の至る所から耳の奥目掛けて突き刺してくるような(せみ)の声が撒き散らかされている。あれは、鳴き声ですぐに分かる、ミンミンゼミ。かなりの数がいる。その鳴き声が層になって辺り一面を絶え間なく圧している。
 そよりと優しく吹く風に何千何万と並ぶ稲の(こうべ)が揃って首を(かし)げる。じとりとした湿気を(はら)んだ風はにじみ出てくる汗を飛ばしてはくれない。じりじりと肌の表面温度は上がっていく気がする。その風は、田んぼに張られた泥水のにおいと、近くの(あぜ)に生えている(かや)や杉菜でも刈った名残であろうか、むあっとする草いきれを運んできて鼻孔をくすぐる。
 彼の正面には、かなり舗装されてから年月が経っているのだろう、所々に凹凸が目立つ道路が一本、田園を分断するように奥にそびえる山々に向かって伸びている。その道先の山麓(さんろく)には瓦葺(かわらぶき)きの民家が点在している。その民家の周囲にもその他にも人の気配はしない。強い陽射しを屋内に避けているのだろうか。
 さて、これからどうしようか、と彼は考えた。しかし、すぐにやめた。うだるような暑さの中でうまく想念が結ばない。とりあえず日陰に避難しようと思った。
 ここは、リサの二つ目に訪れた自我の中、のはずだった。もちろん辿り着いた当初はナミと一緒だった。
 初めて訪れた場所。初めて見る風景。何をどうすればこの自我を救うことができるのか、分かるはずもない。しかし、ナミは到着するなり、周囲の安全を確認するとすぐに、
「私たちは、霊力の補充をしてくるわね。そんなに時間は掛からないから大人しく待っていて」と言うが早いか、彼を置き去りにして、肩に乗せたテントウムシと一緒にさっさとどこかに消えてしまった。
 まったくナミは、時間がない、時間がないといつも()かすくせに、自分はちょくちょくいなくなる。それが彼女にとって必要なことで、仕方のないことだとは理解しているつもりだったが、こんな所に一人で置き去りにされた現状ではつい文句の一つも言いたくなる。とはいえ不平不満を(つの)らせても何の解決にもならないので、とにかく彼は歩きはじめることにした。
 そんな彼の目の前を、ギンヤンマが横切り、そのまま田んぼの上へと飛んでいった。彼の視線はその飛行体の姿を追っていた。とても久しぶりにトンボを見た気がした。昔、まだ彼が少年だった頃の、虫取り網を手に飛ぶ虫を追った記憶がよみがえった。
 ギンヤンマが彼方に飛び去ったので、視線を道の上に戻した。そして彼はぎくりとした。
 こちらを見ていた。道路の先、舗装が崩れて、つい先日まで大きな水溜まりだったのだろうくぼみの湿った土の上に、一匹のカエルがいた。
 それは、カエルにしては大きすぎる身体を腹ばいに伏せ、じっと動かず彼のことを凝視していた。先ほどまで、その姿に気づかなかった。いや、前からいたとしたら気づかないはずがなかった。なぜなら彼は、この世の生物の中で一番、カエルが苦手だったから。もしその存在があれば彼の防衛本能が即座に働き違和感を感じて、その存在に気がついただろう。このカエルは突然現れたのだ。だから彼の驚きもひとしおだった。
 とはいえ、道路の横は疎水の流れを挟んで田んぼが広がっている。そこから飛び出してくることもあるだろう。存在自体は不思議ではない。不思議なのはその大きさとその雰囲気だった。成人男性が屈み込んでいるほどの大きさの身体はぬめりを帯び、陽の光を浴びて土気色に輝いていた。そしてその無感情に見える黒一色の両目は意識して彼のことを見つめているようだった。そこに意思の存在が見受けられた。
 タカシもカエルのことを凝視していた。警戒心から、その身体に動きがないか不安で、その姿から目が離せなくなっていた。相手がどう動くか分からず、足がすくんでいる現状、相手の様子をうかがうことしかできなかった。とりあえず、こちらに飛んで来たら、(きびす)を返して全速力で逃げよう、そう思った。
 なぜ、そんなにカエルのことが嫌いなのか、その理由はと訊かれれば、生理的にどうしても、と答えるしかないだろう。ただ、そのきっかけとしては、一つ彼には思い当たる節があった。
 彼の父親は転勤族で、彼が小学生の間、幾度となく県をまたいで転勤した。家族はそのほとんどについて行き住居を変えた。その移住先の一つ、彼が小学二年生の頃に住んだ場所。今となっては地名も思い出せないような遠い記憶に残る場景での出来事だった。
 彼の住んでいた借家の近くには、小さな貯水槽があった。コンクリートに囲まれた幅三メートル四方程度のそれは、近くの川から水を引き込み、また川に流していた。それが、近くにある田畑に水を配するためのものか、消火に利用するためのものか、使用目的は分からなかった。ただ、そこには魚がたくさんいた。ウグイや小さなコイやナマズの類まで。地表から水面までは、当時の彼の身長よりも高さがあったが、コンクリートの枠はそれほど高くはなく、小さな彼らでも中をのぞきこむことができた。そんな場所だったので、そこは男のコたちのかっこうの遊び場になっていた。
 魚釣りをする者もいれば、近くの小さな水路でザリガニを釣る者もいる。虫取り網で魚や爬虫類を捕獲する者もいる。その土地の他のことに関してはあまり覚えていない彼だったが、その貯水槽と周囲のことはよく覚えていた。
 その貯水槽の近くで遊んでいたある日のこと、彼は自分の名を呼ぶ声に振り返った。そこには近所に住んでいた二つか三つ年上の友人が彼の方に走り寄ってくる姿があった。その手には、とても大きなカエルの姿。
 これ、すげえだろ、こんなでかいカエル、すげえだろ、みたいなことを言いながらその年上の友人は走ってきていた。その時、彼は多分に不快な感情を覚えた。そのカエルのぼてっとした姿形に、そのどうみても美しいとは言えない肌の見てくれに、その感情もなくこちらの深淵までのぞき込むような視線に、訳もなく嫌悪感を抱いた。
 そして、その年上の友人が何かに足を取られて、前方につんのめった。その拍子に手に抱えていた大きな両生類が宙を飛んだ。大きく四肢(しし)を延ばして、彼に向かって、無表情に。
 それまでも決して好きな訳ではなかったが、そこまで嫌悪するほどではなかった。しかし、その瞬間、彼は悟った。僕は、何より、カエルが嫌い……
 全身総毛立つ感覚と背筋の悪寒を感じながら、腰を抜かして背後に倒れ込んだ。そんな彼の手前でカエルは地に降り立った。彼はあわてて背後に向きを変えて、這うようにしてその場を後にした。それ以来、彼はカエルに関わる一切を避けるようになった。好きになろうと努力する気にさえなれない、そんな有り様だった。
 そんな存在が目の前にいる。苦手意識からか、その存在から言い知れぬ圧を感じる。身体に比して大きすぎる顔、無遠慮に飛び掛かってくるその跳躍力。どう見ても圧の塊にしか思えない。
 突然、そのカエルが(のど)の皮膚を大きく(ふく)らませて、チェロの低音のような鳴き声を辺りに響かせはじめた。同じ音程の鳴き声をくり返す。更なる圧。タカシの嫌悪感はこれ以上ないほどの領域に跳ね上がった。
 しばらくそのままで身動きもとれずただその鳴き声を聞いていた。すると少しずつその声が高く、大きくなっていっていることに気がついた。そしていきなり鳴き声がやんだ、かと思うと、突然、声の主が後ろ脚で跳ね飛んだ。
 あっと思う間もなくすぐ目の前に、どすんと音を立てながらその巨大なカエルが着地した。地が揺れ、タカシは思わず、ひい、と声を上げながらその場に尻餅(しりもち)をついた。すぐさま踵を返して逃げないと、とっさにそう思ったが、その目はあまりの恐ろしさに眼前の生物から目を離せないでいる。すると見る間にカエルの身体が上へと伸びていく。彼の身長を上回るほど高く伸びたかと思うと、がばっとその口が大きく開かれた。
 悪い予感しかしない。目の前の相手からは友好的な雰囲気はみじんも感じられない。それどころか感情の在りかさえ見出すことができない。よく見るとその身体の表面は流動的で、ところどころからその内容物が(こぼ)れては、また戻っていた。小さな生き物の集合体、のようにも見える。ただ、今のタカシにはそんなことはどうでもいいことだった。陽の光が透けているのか、薄暗くぼうと浮かび上がる異形の者の口内が頭上に迫っている。間違いなく自分を頭から呑み込もうとしている。そして、どう見ても、逃げ出すにはもう遅った。
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