第十四章六話 植えつけられた猜疑心
文字数 5,972文字
動くな!
ルイス・バーネットの命じの言葉が洞窟内に反響しながら響き渡った。するとそれまで重層的に響いていた怒声や呻き声や叫び声、衣擦 れの音や地を踏みつける音や刃 同士を打ち付ける音、そんな音たちがすっとやんだ。そして眷属たちの動きもピタリと停止した。
ナミは狭い中を暴れ回っている眷属たちの巻き添えを食わないようにタカシのかたわらで宙に浮いていたが、命じられて、しまった、と思いながら落下していく。そこをルイス・バーネットが両手で抱きとめた。そして口を耳に近づけて、動け、と囁くように命じた。
命じの縛りから解放されてナミは慌ててルイス・バーネットの腕から降り、
「いったい何が起きたの?」と言いながら周囲を見渡した。
サホたち神鹿隊 の三人は固まって睦月 が広げた左腕の防御壁の後方に難を逃れていた。集団行動に慣れた彼女たちの秩序は猜疑心くらいでは乱れない。
マサルたち山王日枝神社 の眷属たちは半数以上が地に倒れていた。残ったマサルは二人の仲間眷属と対峙している。
熊野神社の眷属はクロウのみ残り、他は地に倒れている。
カツミとナツミは状況が掴めず、とりあえず壁際に寄って気配を消していた。彼らにとって気配を消すことは、隠密行動をすることが多かったためにお手のものだった。カツミとしては争いの仲裁に入ろうかとも思ったが、自分が行くとナツミも渦中に飛び込んでしまうだろうから自重していた。
マガを背負った玉兎 は日頃からの習性で巻き込まれないように逃げ回っていた。
蝸牛 は騒乱中、おやめなさい、と叫ぶように言いながら暴れる者たちをとどめようとしたが、暴れている側から、邪魔をするな、とか、どけ、とか言われて争いの輪から外されていた。
タマとヨリモは、秘鍵 の後ろで依 り代 の民を警護していたが、マコモと秘鍵が争いをはじめると止めるために前に出ていくところだった。
「分からないな。分からないから訊いてみるしかない」とナミに返答するとルイス・バーネットは眷属たちに向けて正対し、朗々と言霊 を発しはじめた。眷属たちには命じの効力はほんの短時間しか効かない、と彼は察していたので、それまでに言霊を発し終えるつもりだった。
「我が言の葉に寄り給える御霊 の力により、我が唱えし詞 が汝らの現実 となる。汝らの胸の内に渦巻く怒り、疑念、嘆きを消し去り、気を静め、振り上げた刃を納め、腕を下ろして争いをやめよ」
詠じている間もマコモをはじめ主だった眷属たちの身体は小刻みに揺れはじめていた。命じの効力が薄れている証しだった。ルイス・バーネットは眷属たちの間に言霊の効力がしっかりと浸透したことを認めると再度命じた。
動け!
とたんに眷属たちやタカシたちの身体が解放され動き出した。
秘鍵が閉じていた目を開くとそこには自分の顔を覆うようなマコモの大きな手のひらがあった。それがすっと下に落ち、視界が明るくなった。
マコモは先ほど秘鍵の攻撃を足に受けていたためにその場に崩れ落ちた。
「マコモ殿、大丈夫か」秘鍵は眼前で尻餅をつくこの群れの長に声を掛けた。
ぐう、とマコモは呻く。足の傷から相当な痛みを感じつつ、自らの激情に流されて行動してしまって面目もなく顔を上げることができない。そんなマコモの姿を見下ろしながら秘鍵もかなりこの短時間で消耗してしまったことを感じていた。尾の半数以上を斬られ、握り潰されていた。依り代の民を守るためとはいえ、多くの者を傷つけ自分も傷ついた。自分が八幡宮の眷属たちを攻撃したことが正しかったのか一概に言えない気がしていた。
そんな二人の近くに倒れている八幡宮の眷属たちに蝸牛が近寄り傷の具合を診ていた。軽傷の者もいれば傷口から身体の構成要素が漏れ出している重傷の者もいる。とりあえず重傷の者の傷口を手で抑えつけて流出を防いでいた。そんな蝸牛のかたわらにルイス・バーネットが立ち、声を掛けた。
「これはいったい何が起こったんだい?みんなが怒りの感情に支配されたみたいだった。君はあまり変わりなかったみたいだけど」
そう言われた蝸牛は顔だけルイス・バーネットに向けた。やはりこの人はすごい能力を持っているな、と感心しながら。ただ問いへの答えを彼は持ち合わせていなかった。自分にも何が起こったのか分からなかった。他の者たちが激しく感情的になったことは分かったが、自分的にはほとんど変わりがなかったのでなぜなのか分からなかった。だから言い淀んでいた。すると秘鍵が静かに声を発した。
「聞いたところでは、災厄がこの世を混乱に陥 れていたやり口は、自らの力を発揮するというより、人々の心に猜疑心を植えつけ、増長させ、それにより争いを起こすことが多かったようだ。恐らく今回も我らの心に作用して仲違 いさせたのだろう」
「そうなんだね。しかしどうやったんだろう?何か力を及ぼしたような気配はなかったよね」
「それは我にも分かりかねる」
男二人がそう話しているところにナミも割って入る。
「まったく災厄って、面倒な相手ね。この臭いだけでも充分迷惑だっていうのに」
臭い?ああ、もしかして。そう思うとルイス・バーネットは辺りを見回し、少し離れた壁際にいた玉兎を探し当てた。
「ねえ、君。さっき風を操っていたね。この臭いを吹き払ってくれないか。たぶんこの臭いがこの争いの元凶なんだ」
玉兎は突然言われて、え?ああ、と戸惑いつつも、そんなことならと、ふうっと地底に向けて息吹 を放った。
すうっと、洞窟全体を貫く風の流れができた。それまで全身にまとわりついていた臭いが次第に軽くなっていく。それにつれて頭の中を覆っていた重量をともなう靄 のような雑念が晴れていく。そこにいた誰もが一息吐 く思いだった。ただ、負傷者が多い。半数以上の者たちが地に倒れている。
「先に行ける人数がかなり減ったわね」と憮然とした表情でナミが言う。
「そうだね。先ずこの負傷者たちをどうにかしないといけない。動けない者たちをこの場に置いていく訳にもいかない。またどんな災いが降り掛かってくるかも分からないし」とルイス・バーネットが答える。すると、
「我らのことは捨て置けばよい。そなたたちはなすべきことをなせ」とマコモが痛みを抑えつけながら声を発した。そんなマコモの姿をじっと見つめた後、ナミが冷たく言い放つ。
「分かったわ。それがあなたの望みならそうしてあげる。私たちには時間がない。あなたたちの看病している暇がないからちょうどいいわ。悪く思わないでね」
その温情の欠片もなさそうな言葉と声、しかしルイス・バーネットは分かっていた。すぐそこで山崎リサが酩酊状態のような様子でふらついている。タカシがその肩を掴んで何とか倒れないようにはしていたが、それでもいつ動けなくなるか分からない。タカシもかなりな不快を抱えた表情をしている。リサを支えるためにそれを必死に抑えているのだろう様子が見て取れる。どちらにしても災厄から受ける影響は人間の方が大きいようだった。まだどれだけの時間耐えられるのかは分からないが極力、短縮するに越したことはない。
そうこうするうちに彼らの周囲に動ける者たちが今後の方針がどうなるのか確かめるために集まってきた。その者たちに向かって秘鍵が声を上げる。
「まだ動ける者たちは引き続き災厄のもとへ向かう。負傷した者、動けない者はこの場に残していく。さあ、我に続け」
この一団の中ではマコモに続いて秘鍵が年長者であった。だから誰もその声掛けに違和感、異論を持つ者はいなかった。ただ、睦月だけが、ちょっと待ってください、と言いながら秘鍵のもとへと歩み寄っていった。
「何かな?」と問われて睦月は答えを言い淀んだ。自分でも何で秘鍵の動きを止めようとしたのか、よく分からない。ただ、脳裏にとどめなければ、という思いがぽっと浮かんで口から漏れ出た感じなのだ。
「いや、その、秘鍵殿は大丈夫なんですか?だいぶ消耗されているようですが」考えるよりも浮かんでくる言葉が口から出ていく。
「心配をお掛けして申し訳ない。が、支障ない。まだ充分戦える」
正直、あとどれだけ戦えるのかは分からない。しかし眷属として、また年長者としての責任感がそう言わせていた。
「強がるな。そなたが消えてしまっては、大神様や村の警護に支障が出るだろう。無理をするな」と急に思ってもいない言葉が自分の口から漏れ出てきて、睦月は焦った。あ、いや、これは、としどろもどろになりながら弁明しようとしていると急に左側の首筋にぴりりとした電流が走ったような痛みを感じてとっさに右手で押さえた。
「睦月ちゃん、大丈夫?」
ミヅキの目には睦月の左腕から首筋の半ばまで白く光っている様子が映っていた。睦月はその光に自らの左腕に宿る力が増幅していることを察した。それは薄々感じていたことではあった。この左腕の防御能力は使うともちろん力は減るが、急速に回復する。それも使用する前よりもその都度 少しずつ増加していくように。そして光る部分もそれにつれて広がっていく。左胸や左の肩甲骨辺りまで光っている。まるで自分の身体を侵食していくかのように。
「大丈夫よ」と冷たく言い放って睦月はミヅキとの話を断ち切った。こんなところで無駄に心配なんてしないで。
その睦月の様子を眺めながら秘鍵は察した。宝珠 の力は長年積み重ね、練り、鍛え上げてきたものだ。生半可な強さではない。その力に押されて睦月殿の力が退行している。このままでは呑み込まれてしまうかもしれない。
「睦月殿、もうその左腕の力は使わぬ方が良い。これ以上、使えば……」
「大丈夫です。我とて神鹿隊の一員、我が身のために力を出し惜しむことなど言語道断です。きっと、この左腕も使いこなしてみせます」睦月が断固とした口調で答えるので秘鍵はそれ以上、強いては言えなかった。彼女の身体のことは彼女が決めるしかないのだ。
睦月は思う。自分は隊長ほどの力も智慧もない。隊長や弥生副隊長に比べるとまだまだ未熟でしかない。そんな自分に奇しくも与えられた能力。これを我が身可愛さに封印するなど、見す見す自分の価値を下げることでしかない。そんなことは容認できない。きっとこの力を使ってみんなに、隊長に認めさせる。自分が次世代の神鹿隊を担 っていくに足る存在だということを。
けっきょく話はあやふやなまま、秘鍵も睦月も一団とともに進むことになった。
改めて災厄のもとへ向かう者たちを募ってみると、
春日神社は神鹿隊のサホ、睦月、ミヅキの三人。
山王日枝神社はマサルのみ。
熊野神社はクロウのみ。
稲荷神社は秘鍵とタマ。
八幡宮はヨリモのみ。
天満宮は人数に変化なく蝸牛のみ。
東野神社も変わらず玉兎とマガの二人。
三輪神社も同じくカツミとナツミの二人。
そしてタカシ、リサとナミ、ルイス・バーネットの計十七人となっていた。
他の者たちは重傷の者、軽傷でも戦闘は難しいだろう者、そして精神を掻きまわされたことで疲弊して動けなくなった者たちで、その場に残ることになった。その中にはマコモもいた。秘鍵の尾が足に刺さり、もう歩くことは不可能だった。無念ではあったが、ここで無理に同行することにしても足手まといにしかならない。もう、この場に残るしかない。
そんな残る者たちに向かって蝸牛がゆっくりとした口調で言う。
「我が天満宮の仲間たちが間もなくこちらに向かってくるでしょう。我が兄たちならみなさんを担 いで地上に行くなど容易 いこと。それまで辛抱してください」
マサルとクロウは仲間たちを労 わっていた。中には自分に襲い掛かってきた者もおり、それが災厄の力によることと分かってはいたが、お互いに心中複雑な思いだった。
タマは傷ついた者たちの中から特に重傷者に対し治癒能力を使用して、一時的に身体の構成要素が漏れ出ないようにしていった。あくまで応急処置だが、完全に治癒させようとすると時間も掛かるし、自分の力の多くも使用しなければならない。これからのことを考えると力はなるべく温存しておきたかった。
そんな眷属たちから少し離れたところでタカシとナミが話していた。
「リサはこんな状態だし、もう連れていくことは難しいだろう。この場に残していった方がいいと思う。でも、俺はこの地の崩壊を防ぐために災厄を倒さないといけない。かといってリサだけここに残していくのは心配だ。だからナミ、リサと一緒にここに残ってくれないか」
ナミが改めてリサの姿に視線をやる。確かに意識朦朧とした様子だ。今にも倒れてしまいそうにふらついている。確かに契約者の言うことにも一理ある気がするが、逆に自分がいなくて契約者の身に不測の事態が起きないか不安ではあった。
「私がいなくて大丈夫なの?あなたの力が災厄に通用するかどうかも分からないのに、そんなこと言って後で悔やんでも遅いのよ」
確かにナミがいないのは著 しい戦力の低下であるし、心細くもあった。しかしリサを一緒に連れていく訳にもいかないし、一人にしてもおけない。どうするのが良いのか思案した末の結論だった。
そんな二人の話をかたわらで聞きながら、リサは少し悲しい気持ちになっていた。
私のことなのに、私の意志を無視して決めようとしている。なぜ、どうするか訊いてくれないのだろう?確かに勝手に決めてどうするかだけ言ってくれた方が楽だし、たぶんその方が何事もうまくいく。でも、今はここに残りたくない。私は前に進みたい。
リサのふわふわとした重力の低下したような脳裏では、しきりに先に行きたい気持ちが生まれていた。進んでいけば、きっと危険なこと、不快なことが待ち構えている。それでも私は呼ばれている。自分を求めている何者かがいる。それを見極めることが依り代である自分の宿命のような気がする。
「私は、行きます。ここには、残らない。まだ、奥まで、下りていきます」そう言って彼女はふらふらと歩きはじめた。
「ダメだ。この先、何があるか分からないんだ。そんな状態じゃ危ないからここで待っててくれ」タカシが肩を掴んで止めようとするが、力なくもその手を払い除けながらリサは進み続ける。
仕方なくタカシもナミもともに進んでいった。
やがて更に地下深くにまで潜っていった一行は災厄のいる洞 の近くに到達した。そこまで玉兎が、息吹放ちながら進んでいたので、それほど悪臭に悩まされることはなかったが、それでもある一定の地点を越えるととたんに臭いが気になりはじめた。また、全身にヒシヒシと伝わる威圧感に、災厄本体が近いことに嫌でも気づかされた。
自分の存在はおろか、この郷の命運もこれからの攻防にかかっている、そう感じ、いやが上にも全員の身体に更なる緊張感が漲 っていく。
さあ、災厄はもうすぐそこだ。
ルイス・バーネットの命じの言葉が洞窟内に反響しながら響き渡った。するとそれまで重層的に響いていた怒声や呻き声や叫び声、
ナミは狭い中を暴れ回っている眷属たちの巻き添えを食わないようにタカシのかたわらで宙に浮いていたが、命じられて、しまった、と思いながら落下していく。そこをルイス・バーネットが両手で抱きとめた。そして口を耳に近づけて、動け、と囁くように命じた。
命じの縛りから解放されてナミは慌ててルイス・バーネットの腕から降り、
「いったい何が起きたの?」と言いながら周囲を見渡した。
サホたち
マサルたち
熊野神社の眷属はクロウのみ残り、他は地に倒れている。
カツミとナツミは状況が掴めず、とりあえず壁際に寄って気配を消していた。彼らにとって気配を消すことは、隠密行動をすることが多かったためにお手のものだった。カツミとしては争いの仲裁に入ろうかとも思ったが、自分が行くとナツミも渦中に飛び込んでしまうだろうから自重していた。
マガを背負った
タマとヨリモは、
「分からないな。分からないから訊いてみるしかない」とナミに返答するとルイス・バーネットは眷属たちに向けて正対し、朗々と
「我が言の葉に寄り給える
詠じている間もマコモをはじめ主だった眷属たちの身体は小刻みに揺れはじめていた。命じの効力が薄れている証しだった。ルイス・バーネットは眷属たちの間に言霊の効力がしっかりと浸透したことを認めると再度命じた。
動け!
とたんに眷属たちやタカシたちの身体が解放され動き出した。
秘鍵が閉じていた目を開くとそこには自分の顔を覆うようなマコモの大きな手のひらがあった。それがすっと下に落ち、視界が明るくなった。
マコモは先ほど秘鍵の攻撃を足に受けていたためにその場に崩れ落ちた。
「マコモ殿、大丈夫か」秘鍵は眼前で尻餅をつくこの群れの長に声を掛けた。
ぐう、とマコモは呻く。足の傷から相当な痛みを感じつつ、自らの激情に流されて行動してしまって面目もなく顔を上げることができない。そんなマコモの姿を見下ろしながら秘鍵もかなりこの短時間で消耗してしまったことを感じていた。尾の半数以上を斬られ、握り潰されていた。依り代の民を守るためとはいえ、多くの者を傷つけ自分も傷ついた。自分が八幡宮の眷属たちを攻撃したことが正しかったのか一概に言えない気がしていた。
そんな二人の近くに倒れている八幡宮の眷属たちに蝸牛が近寄り傷の具合を診ていた。軽傷の者もいれば傷口から身体の構成要素が漏れ出している重傷の者もいる。とりあえず重傷の者の傷口を手で抑えつけて流出を防いでいた。そんな蝸牛のかたわらにルイス・バーネットが立ち、声を掛けた。
「これはいったい何が起こったんだい?みんなが怒りの感情に支配されたみたいだった。君はあまり変わりなかったみたいだけど」
そう言われた蝸牛は顔だけルイス・バーネットに向けた。やはりこの人はすごい能力を持っているな、と感心しながら。ただ問いへの答えを彼は持ち合わせていなかった。自分にも何が起こったのか分からなかった。他の者たちが激しく感情的になったことは分かったが、自分的にはほとんど変わりがなかったのでなぜなのか分からなかった。だから言い淀んでいた。すると秘鍵が静かに声を発した。
「聞いたところでは、災厄がこの世を混乱に
「そうなんだね。しかしどうやったんだろう?何か力を及ぼしたような気配はなかったよね」
「それは我にも分かりかねる」
男二人がそう話しているところにナミも割って入る。
「まったく災厄って、面倒な相手ね。この臭いだけでも充分迷惑だっていうのに」
臭い?ああ、もしかして。そう思うとルイス・バーネットは辺りを見回し、少し離れた壁際にいた玉兎を探し当てた。
「ねえ、君。さっき風を操っていたね。この臭いを吹き払ってくれないか。たぶんこの臭いがこの争いの元凶なんだ」
玉兎は突然言われて、え?ああ、と戸惑いつつも、そんなことならと、ふうっと地底に向けて
すうっと、洞窟全体を貫く風の流れができた。それまで全身にまとわりついていた臭いが次第に軽くなっていく。それにつれて頭の中を覆っていた重量をともなう
「先に行ける人数がかなり減ったわね」と憮然とした表情でナミが言う。
「そうだね。先ずこの負傷者たちをどうにかしないといけない。動けない者たちをこの場に置いていく訳にもいかない。またどんな災いが降り掛かってくるかも分からないし」とルイス・バーネットが答える。すると、
「我らのことは捨て置けばよい。そなたたちはなすべきことをなせ」とマコモが痛みを抑えつけながら声を発した。そんなマコモの姿をじっと見つめた後、ナミが冷たく言い放つ。
「分かったわ。それがあなたの望みならそうしてあげる。私たちには時間がない。あなたたちの看病している暇がないからちょうどいいわ。悪く思わないでね」
その温情の欠片もなさそうな言葉と声、しかしルイス・バーネットは分かっていた。すぐそこで山崎リサが酩酊状態のような様子でふらついている。タカシがその肩を掴んで何とか倒れないようにはしていたが、それでもいつ動けなくなるか分からない。タカシもかなりな不快を抱えた表情をしている。リサを支えるためにそれを必死に抑えているのだろう様子が見て取れる。どちらにしても災厄から受ける影響は人間の方が大きいようだった。まだどれだけの時間耐えられるのかは分からないが極力、短縮するに越したことはない。
そうこうするうちに彼らの周囲に動ける者たちが今後の方針がどうなるのか確かめるために集まってきた。その者たちに向かって秘鍵が声を上げる。
「まだ動ける者たちは引き続き災厄のもとへ向かう。負傷した者、動けない者はこの場に残していく。さあ、我に続け」
この一団の中ではマコモに続いて秘鍵が年長者であった。だから誰もその声掛けに違和感、異論を持つ者はいなかった。ただ、睦月だけが、ちょっと待ってください、と言いながら秘鍵のもとへと歩み寄っていった。
「何かな?」と問われて睦月は答えを言い淀んだ。自分でも何で秘鍵の動きを止めようとしたのか、よく分からない。ただ、脳裏にとどめなければ、という思いがぽっと浮かんで口から漏れ出た感じなのだ。
「いや、その、秘鍵殿は大丈夫なんですか?だいぶ消耗されているようですが」考えるよりも浮かんでくる言葉が口から出ていく。
「心配をお掛けして申し訳ない。が、支障ない。まだ充分戦える」
正直、あとどれだけ戦えるのかは分からない。しかし眷属として、また年長者としての責任感がそう言わせていた。
「強がるな。そなたが消えてしまっては、大神様や村の警護に支障が出るだろう。無理をするな」と急に思ってもいない言葉が自分の口から漏れ出てきて、睦月は焦った。あ、いや、これは、としどろもどろになりながら弁明しようとしていると急に左側の首筋にぴりりとした電流が走ったような痛みを感じてとっさに右手で押さえた。
「睦月ちゃん、大丈夫?」
ミヅキの目には睦月の左腕から首筋の半ばまで白く光っている様子が映っていた。睦月はその光に自らの左腕に宿る力が増幅していることを察した。それは薄々感じていたことではあった。この左腕の防御能力は使うともちろん力は減るが、急速に回復する。それも使用する前よりもその
「大丈夫よ」と冷たく言い放って睦月はミヅキとの話を断ち切った。こんなところで無駄に心配なんてしないで。
その睦月の様子を眺めながら秘鍵は察した。
「睦月殿、もうその左腕の力は使わぬ方が良い。これ以上、使えば……」
「大丈夫です。我とて神鹿隊の一員、我が身のために力を出し惜しむことなど言語道断です。きっと、この左腕も使いこなしてみせます」睦月が断固とした口調で答えるので秘鍵はそれ以上、強いては言えなかった。彼女の身体のことは彼女が決めるしかないのだ。
睦月は思う。自分は隊長ほどの力も智慧もない。隊長や弥生副隊長に比べるとまだまだ未熟でしかない。そんな自分に奇しくも与えられた能力。これを我が身可愛さに封印するなど、見す見す自分の価値を下げることでしかない。そんなことは容認できない。きっとこの力を使ってみんなに、隊長に認めさせる。自分が次世代の神鹿隊を
けっきょく話はあやふやなまま、秘鍵も睦月も一団とともに進むことになった。
改めて災厄のもとへ向かう者たちを募ってみると、
春日神社は神鹿隊のサホ、睦月、ミヅキの三人。
山王日枝神社はマサルのみ。
熊野神社はクロウのみ。
稲荷神社は秘鍵とタマ。
八幡宮はヨリモのみ。
天満宮は人数に変化なく蝸牛のみ。
東野神社も変わらず玉兎とマガの二人。
三輪神社も同じくカツミとナツミの二人。
そしてタカシ、リサとナミ、ルイス・バーネットの計十七人となっていた。
他の者たちは重傷の者、軽傷でも戦闘は難しいだろう者、そして精神を掻きまわされたことで疲弊して動けなくなった者たちで、その場に残ることになった。その中にはマコモもいた。秘鍵の尾が足に刺さり、もう歩くことは不可能だった。無念ではあったが、ここで無理に同行することにしても足手まといにしかならない。もう、この場に残るしかない。
そんな残る者たちに向かって蝸牛がゆっくりとした口調で言う。
「我が天満宮の仲間たちが間もなくこちらに向かってくるでしょう。我が兄たちならみなさんを
マサルとクロウは仲間たちを
タマは傷ついた者たちの中から特に重傷者に対し治癒能力を使用して、一時的に身体の構成要素が漏れ出ないようにしていった。あくまで応急処置だが、完全に治癒させようとすると時間も掛かるし、自分の力の多くも使用しなければならない。これからのことを考えると力はなるべく温存しておきたかった。
そんな眷属たちから少し離れたところでタカシとナミが話していた。
「リサはこんな状態だし、もう連れていくことは難しいだろう。この場に残していった方がいいと思う。でも、俺はこの地の崩壊を防ぐために災厄を倒さないといけない。かといってリサだけここに残していくのは心配だ。だからナミ、リサと一緒にここに残ってくれないか」
ナミが改めてリサの姿に視線をやる。確かに意識朦朧とした様子だ。今にも倒れてしまいそうにふらついている。確かに契約者の言うことにも一理ある気がするが、逆に自分がいなくて契約者の身に不測の事態が起きないか不安ではあった。
「私がいなくて大丈夫なの?あなたの力が災厄に通用するかどうかも分からないのに、そんなこと言って後で悔やんでも遅いのよ」
確かにナミがいないのは
そんな二人の話をかたわらで聞きながら、リサは少し悲しい気持ちになっていた。
私のことなのに、私の意志を無視して決めようとしている。なぜ、どうするか訊いてくれないのだろう?確かに勝手に決めてどうするかだけ言ってくれた方が楽だし、たぶんその方が何事もうまくいく。でも、今はここに残りたくない。私は前に進みたい。
リサのふわふわとした重力の低下したような脳裏では、しきりに先に行きたい気持ちが生まれていた。進んでいけば、きっと危険なこと、不快なことが待ち構えている。それでも私は呼ばれている。自分を求めている何者かがいる。それを見極めることが依り代である自分の宿命のような気がする。
「私は、行きます。ここには、残らない。まだ、奥まで、下りていきます」そう言って彼女はふらふらと歩きはじめた。
「ダメだ。この先、何があるか分からないんだ。そんな状態じゃ危ないからここで待っててくれ」タカシが肩を掴んで止めようとするが、力なくもその手を払い除けながらリサは進み続ける。
仕方なくタカシもナミもともに進んでいった。
やがて更に地下深くにまで潜っていった一行は災厄のいる
自分の存在はおろか、この郷の命運もこれからの攻防にかかっている、そう感じ、いやが上にも全員の身体に更なる緊張感が
さあ、災厄はもうすぐそこだ。