第十四章二話 別れも言えず

文字数 5,192文字

「あなた、もう飛ぶのが怖くなくなったみたいね」
 空中を飛ぶナミに腰を抱えられたマコの身体はそれほど強張(こわば)ってはいない。これまでとは違ってこのひと時を少し楽しんでいるようにさえ思える。
「怖くない訳じゃないけど、この数日、飛んでばかりだったから、かなり慣れました。それにナミさんを信用してますから」
 ナミのすぐ横でマコが微笑む。洞窟を出る前に顔は綺麗に拭いてきた。しかし誘拐されてからずっと着ていた寝間着はところどころ破け、全体薄汚れ、何か所か、血液汚れか焦げ跡か、目立つ汚れも見えている。その様子が物語るように、続け様にかなりひどい目に遭ったことで精神が病んでしまってないか心配だった。しかしそれも杞憂のようだ、とナミはほっとした。これはこのコの性格というより性質のせいかしら、と思いつつ、これで安心してお婆さんのもとへ送っていける。そう思うとナミは少し胸の奥が締めつけられた気がした。
 これでこのコに会う理由がなくなる……もちろん会わなくても何の支障もない。逆に今までは円滑な業務遂行のために、ひとの自我の中にいる存在とはなるべく関わらないようにしてきたのだ。これで自分の感情の起伏も落ち着くだろう。いいことしかない、はず……ナミは無意識に小さく溜め息を吐いた。
 マコは、薄っすらとナミの顔にさした影を振り払うように明るい声を発した。
「私、ナミさんのこと大好きです。ナミさんがお姉ちゃんだったら良かったのにって思います。いろんなことを一緒にしたらすごく楽しいと思うんです。だから、これからも時々会えますか?ほんと、暇な時でいいんです。一緒にお茶したりお買い物したりしましょうよ」
 ナミの胸の内の締めつけが強くなった。眉間(みけん)(しわ)を寄せてしまうくらい。
「ねえ、マコ。私はもうあなたには会えない。私は他の世界に行かなくてはいけないの。それに私には私の妹がいるの。その世話だけで手一杯なのよ。だから甘えるんなら、自分の姉に甘えなさい」
 えー、と不満気に言うマコの声を聞きつつ、もうやめて、とナミは思った。これ以上は耐えられない。とても名残惜しくてたまらない。
 そして二人は東野村(とうのむら)の恵美さん宅の上空にたどり着いた。ゆっくり降下して、玄関先に足を着けた。するとナミは着ていたスーツのジャケットを脱いでマコに羽織らせた。
「あまり汚れた格好だとお婆さんが心配するから」
 真っ白いシャツの肩に茶色がかった長い髪が陽の光を受けて輝きながら波打っている。その姿に思わずマコは声を掛けようとした。しかしその時、玄関の扉が開いた。
「誰かいるの?」と言いつつ扉を開けた恵美さんは、はっと息を止めた。
「マコ、無事だったんだね。大丈夫かね。怪我はしてないかい?」歩み寄り、マコの肩に手を掛ける。心から安堵した表情をしている。
「うん、大丈夫。心配掛けてごめんね」これまで自分のことで精一杯で考える余裕もなかったが、みんなが心配してくれたことを実感した。そして孫が唐突に(さら)われた祖母の心中を(おもんばか)って目頭が熱くなった。
「ええから、早う中に入りな。お風呂入るか。お腹空いてないか?」そう言って先に玄関から中に入っていく祖母の後をついていきかけて、マコは振り返った。
 もう、そこには誰もいなかった。マコは唇を噛みながら雲ひとつない空を見上げた。
 ああ、お礼もさようならも言えなかったなあ……

 ――――――――――

 マコモの周りに眷属の主だった者たちが集まっていた。
 災厄のもとへ、討伐隊を派遣することは決まった。道のりも黄泉(よみ)から生還したサホやカツミの話から、災厄の分御霊(わけみたま)が空けた大穴を通っていくのが現実的だったので、そのように決まった。しかし現状、地下からは水が湧き出ており、大穴からも禍い者を含んだ水が溢れ出ている。眷属たちは水の中でも移動できるが、時間が掛かるし、身動きがろくに取れず攻撃されたら対処できない。先ずは地中の水をどうにかしないといけない。どうしよう、と考え込んでいるマコモたちの前に、集団を分けるように飛梅(とびうめ)をはじめ天満宮の面々が近寄ってきた。
 飛梅はじめその一団は怒気を帯びていた。そしてマコモや八幡宮の眷属を睨みつけていた。
「うちの白牛(はくぎゅう)がえらいお世話になったみたいじゃな」
 マコモもクレハも心当たりが確かにあるため、とっさに答えられなかった。
「まあ、消滅の憂き目は(まぬが)れたから良かったものの、これで白牛が消えておったら、けっしておぬしらを許さぬとこじゃったわ」
 これ以上、立場が悪くならないように慌ててクレハが弁明しようとするが、それを制して飛梅が続ける。
「この郷のこと、特に災厄のことはすべて神議(かむはか)りによって今まで決めてきたじゃろう。我ら八社の合議制で決する慣わしだっただろう。それを無視して専制して事を進めるなど、(さと)い八幡神の大御神意(おおみごころ)とは思えぬ。まあ、結果的にそこの民草(たみくさ)のお蔭で何とか、八社の和、神議りは保たれた。我らも事態が事態だけに今、そなたたちを責めることは慎もう。しかし事が収まったら忘れずに申し開きをせよ。分かったな」
 クレハが再度、弁明しようとするが、また飛梅が機先を制する。
「それで、そなたたち地の底から湧き出る水をどうしようか悩んでいるのだろう?それなら()が大神様に御力(みちから)発現(あらわ)してもらおうか。我が大神様の御力なら、水を伝って災厄のもとまで攻撃を加えることができる。それを何度か繰り返せば、さしもの災厄も水を引かずばなるまい。どうだ?」
 言われて眷属たちは確かに天満天神の強烈な雷撃ならば、災厄も水を引くことになるだろう。そう思うと、もうそれ以外の方法はないような気になってきた。そこでクレハがぜひにと願い出ようとすると今度はマコモがそれを制して発言した。
「飛梅殿、この度のこと、すべては(おさ)たる我の落ち度。責めは我が身一つに負わせていただきたい。また、我らは災厄を討伐するために、天満天神様の御力にすがる他ございません。どうか、我らにお力をお貸しください。この通り」
 マコモは静かに頭を下げた。どの眷属たちも長い年月を存在してきた身である。昔ながらの敬老の精神も濃厚に持ち合わせていたので、他の眷属たちが飛梅に頭を下げることは特に驚くことでもなかった。しかしマコモは立場上、郷中の眷属を束ねる者としての矜持からこれまで神々に対して以外にはけっして頭を下げることはなかった。
 そのマコモが頭を下げている。飛梅にしても天満宮の眷属たちにしても溜飲がほんの少しだけ下がったような気がした。
「分かった。では、我らは準備をせねばならん。我が村に戻り、大神様に乞い願ってみよう。そなたたちはみな、この水から離れて待機しておれ」
「分かりました。よろしくお願いします」マコモのかたわらにクレハも並び立ち一緒に頭を下げた。我らは他の眷属たちよりも尚一層、この郷を守る責任がある。そのためになら頭を下げることも(いと)わない、そんな思いから。

「飛梅殿、我は……」
 間もなく自分の村へと帰還しようとしていた天満宮の眷属たちのもとへ蝸牛(かぎゅう)が近寄って声を掛けた。先ほど合流した際に、白牛が消滅を免れたことを聞かされていたので、その表情は穏やかだった。そんな蝸牛に飛梅が、どうせ、こやつはともに旅をした連中と一緒に災厄のもとに行くと言うんじゃろ。この上なく危険じゃが、ここはやりたいようにさせるのが一番なのだろう、と思いつつ、
「蝸牛、そなたは儀式の場では何の役にも立たん。天満宮の代表としてここに残り、郷のために尽力せよ」とつっけんどんに言い放った。蝸牛もそのことを願い出ようと思っていたので、即座に承諾した。
「分かりました。天満宮の名を汚さぬように全力を尽くします」
 それから天満宮の眷属たちは末弟のことを心配しつつ、飛梅に()き立てられるままに自らの村へと戻っていった。
 それを見送る蝸牛のかたわらに先ほどから清瀧(きよたき)がぴったりと寄り添っていた。
「あなた、災厄のところへ行くんでしょ。私も行くから。邪魔にならないようにしてよね」
 何よりも手柄と功名を得られそうな場に行かない訳にいかない、と思っていたので、清瀧は一人でも災厄のもとへ行くつもりだった。でも蝸牛が一緒なら心強いことこの上なかったから内心、喜んでいた。
「ああ、分かった」そう言いつつ蝸牛はタカシたちの所へと戻っていく。清瀧もその側を離れず移動していった。

 陽は中天に近づき、ぎらつきながら降り注ぐその光が一気に気温を上げていく。地中から湧き出る水のせいか、普段よりも湿度が高い気がする。そしてそのムワッとする大気に混じって、周囲から吐き気をもよおす腐敗臭が漂ってきた。それが周りをうろついている(むくろ)たちから発せられているのは明らかだった。それはまだ死臭と言うほどには強烈ではなかったが、それでも思わず顔をしかめてしまう臭いだった。
 そんな骸たちから逃げ回る玉兎(ぎょくと)の前に一人の骸が迫ってきた。それは見覚えのある老婆の姿。あれは、和子さんじゃないか。災害に巻き込まれてしまったんだな、と玉兎は沈鬱な気持ちになった。その耳に背後から声がする。
 玉兎の背には小さなバックパックのように、力を使い果たして小型化したマガが貼りついていた。そのマガがぼそぼそと、恐らく玉兎にしか聞こえない声を発する。
「あの民草たちは、水で操られている。死体は(ほうむ)るもの。操るのはダメ。だから死体から水を切り離さないとダメ」
「切り離すってどうするんだよ」自分は逃げ足の速さしか取り柄がない、そんなことできそうな気がしない。
「風を起こして。神がしてたみたいに」
「そんなことできる訳がないだろ。それは神の力であって俺にはそんなことできない」
「うさぎ、できる。うさぎは神の力を持ってる。今まで力が弱かったからできなかった。でもマガの力をあげた。だから今はできる。マガの言うこと、信じて」
 そう言われても、できる気はしなかったが、試しに眼前の老婆の骸に向かって、ふっと息を吹き掛けた。
 それは唇を離れる際には、ただの息吹(いぶき)だった。でも、すぐに周囲の大気を巻き込んで少し強めの風に変化した。しかし骸の足を止めるほどではなかった。そこで玉兎は今度は少し強めに息を吹いた。
 骸の足が止まった。その周囲に溜まっていた水が吹き飛ばされた。
 本当に俺にも息吹を放つことができた。と驚きつつ、玉兎は地に倒れていく老婆の姿から目を逸らした。本当に災厄も趣味の悪いことをする、と思いながら。
 それから次々に玉兎は骸を災厄の水から解き放っていった。やがて息吹放つことに慣れてくると少しずつ風を操ることができるようになった。そこで集中して息吹を放ち、風を操ってつむじ風を起こし、少しずつ大きくしていった。そのつむじ風は骸を巻き込み、移動させ、やがて一つ所に積み上げた。
 はじめて自分の能力に気づいて、早速大量に使用した。慣れないこともあり、玉兎は極度に疲弊していた。それに合わせるようにマガもただ静かに動かずにいた。
「どうした?大人しいな。マガらしくない」
 するとマガのぼそぼそと沈んだ声。
「和子さん、優しかった。マガがテレビ観にいくと、寒い日でも窓開けて、音量大きくしてくれた。マガが好きそうなテレビ観せてくれた。たぶんマガのこと気づいてた。でも怖がらなかった。テレビ観せてくれた。マガの中、たぶん民草が言う、悲しいがいっぱい」
 二人だけでなく周囲の眷属たちも沈鬱な表情をしていた。民草が自分たちに比べて、あまりにも(もろ)(はかな)い存在なのは分かっている。それでも自分たちの守護の力が及ばずに多くの別れを迎えてしまったことは、やるせないとしか思えなかった。
 数十体の骸が積み上がった山に誰もが身体を向けていた。そこに山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の眷属たちが進み出て誰からともなく読経をはじめた。その間、みな頭を垂れていた。
 ひとしきり読経が終わると、マサルが進み出て他の社の眷属たちに向かって、山王日枝神社の眷属によって骸たちを荼毘(だび)にふすことへの了承を求めた。今、この郷ではろくな葬儀もできないだろう。それにこのままにしておいては腐敗が進むばかり。どう考えてもここで荼毘にふすことが最良に思えた。だから誰も異議を唱えなかった。そして自分たちが守ってきた民草をこのような姿にした災厄に対して重く深い憤りを覚えた。
 マサルはそんな暗鬱とした雰囲気の中、数名を残し、他の仲間たちに骸を荼毘にふすように命じた。そしてその準備が進む中、彼らの頭上に黒い雲が突如現れ、渦巻き出した。
 その場にいたタカシや眷属たちが、それぞれ手近な森や林の中に避難していく。郷の中心に空いた地の裂け目の周囲に人影がなくなった頃には黒い雲の中に雷光が走り、雷鳴が轟きはじめた。
 やがて、一筋の稲妻が大気を切り裂くように、轟音を響かせながら地表に湧き出している水の中へと突き刺さるように落ちていった。
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