第十四章十一話 一つの玉と落涙の跡

文字数 5,747文字

 リサを呑み込んでいる暗色が、その白衣緋袴(ひばかま)姿の少女に流入し続けてしばらく経っていた。やがてその勢いは減退し、残った災厄の魂が黒い固まりとなってリサを包み、水面の上に直立して依然、リサを閉じ込めている。
 その黒の固まりから突起が出て、絶え間なく(むち)のように、切っ先鋭い(やり)のように無数に伸びては眷属たちに攻撃を加えていた。
 その黒い槍の攻撃をサホは歯を喰いしばって(しの)いでいた。民草(たみくさ)に神々や(まが)の者などが憑依する場合、実際に動き出すまでに少しの間が空く。サホとしてはその隙を狙っていた。もうこの状況に陥ってしまった以上、あの娘もろとも災厄を滅するしかない。それまで何とか耐え凌いでと思っていたが、どうやら災厄もそのことは百も承知のようで、憑依しきる前にこちらの全員を先に滅しようとしている。何とか攻撃に転じたいところだったが、その間も与えぬ猛攻が果てなく襲い掛かってくる。お蔭で左腕の感覚がなく、左目も視界がない。この場にいるだけで戦闘力を次々に削がれていく。そう思っているとぐらりと足もとが揺れた。サホがチラリと視線を向けると牛姿の蝸牛(かぎゅう)が顔を上に向けてぶはあと息を吐いていた。
 眷属たちが一斉に災厄へと突撃を開始した時、蝸牛もその流れに乗った。しかし水面を走ることもできず、泳ぎも不得意な彼は一人、水面を、手足をばたつかせながら浮かんでいるだけだった。前面には空中を飛んで攻撃を加えるナミとクロウ、水面を走るカツミとサホ、片手に薙刀(なぎなた)を掴んだまま器用に泳いでいくマサルがいた。そのすべての者たちに向かって黒い槍や鞭が襲い掛かる。
 ナミはそれらを避けながら狭い空間を高速で飛び続ける。しかしなかなか攻撃を仕掛ける隙が見当たらない。ナミほど高速で飛べないクロウは錫杖(しゃくじょう)で槍を防ぐばかり。加えて槍の力はしごく強く、空中で足が踏ん張れない分、防いでいる中でも右に左に弾かれる。その度に体勢を整えるが、やがて間に合わずにひゅんと空気を切りながら黒い鞭が伸びてきて、ばちんと身体を打たれた。そのあまりに激しい衝撃に一気に後方へ飛ばされて、そのまま壁に身体を打ち付けて意識を失った。
 マサルは立ち泳ぎをしながら薙刀を振って黒い槍を器用に切断していった。なかなか攻撃に移れない、このまま守勢に終始していてもいつまでもつか分からない。そう焦燥感を抱いていると突然、彼の身体が水面から空中へと浮かび上がった。腹部に違和感。見ると黒い槍が自分の腹部に突き刺さっていた。水中を潜ってきた槍が彼を刺してそのまま宙へと持ち上げたのだった。そこへ新たに黒い槍が飛んでくる。マサルは痛みを堪えながら薙刀を振った。続け様に数本の黒い槍を薙ぎ払うと突然、自分の腹部を刺している槍が前に後ろに大きくしなった。その中で、腹から黒い槍が抜けた。そのままマサルは天井の岩肌に身体を打ち付け、激しい水飛沫(みずしぶき)を起こしながら水中に没した。
 カツミとサホは水面を駆けて防御を続けていたが、一直線に走っている時以外は水中に沈んでしまうサホは少し動いては沈み、水面から出て動いては沈みを繰り返していた。その姿を見て、このままでは泳げない我は何の役にも立てない、せめて、と思った蝸牛は、我に乗れ、とサホに声を掛けると牛姿に変化した。
 牛姿になってみると体積が大きい分、浮きやすくはあった。だからそのままサホの足場となっていた。
 カツミは素早く水面を駆け、他の眷属よりも若干リサのもとへと近づいたが、その分、より多くの攻撃に襲われ、そのうち右足を貫かれた。そのまま水中へと沈んだが、泳ぎも得意な彼は水中を伸びてくる黒槍を鎌で対抗していた。ちなみに先ほどリサを捕らえた鎖は災厄の力により断ち切られており、手には鎌しか残っていない。
 そんな眷属たちの後方の水際で玉兎(ぎょくと)は風を起こして黒槍の攻撃を防いでいた。災厄はこの場にいる誰一人逃すつもりはないようで、後方の彼にも激しい攻撃を加えてくる。息吹(いぶき)放って黒槍を吹き飛ばそうとするが、黒槍は空気の層を貫いて更に向かってくる。とっさに鋭く息吹(いぶ)いて風を起こし、黒槍を途中から切断した。それを何度も行う。果てしなく続く。終わりが見えない。息が切れてくる。
 そんな彼から遠からぬ水際でヨリモは自らの槍を振って黒槍を撃退していた。その背後にはタマの姿。先ほど禍い者を撃退するのに多量の力を使って衰弱している。ただ、状況が状況だけに休むつもりはなく他の者たちと同じく前面に出ようとするが、ヨリモが前に立ち、その進行を妨げていた。
 ヨリモはヒュンヒュンと音を立てて槍を振り、高速で回転させながら次々に黒槍を打ちのめし、撃退していく。最大限に集中している。一本たりとも後ろには行かせない。私が必ずタマ殿を守る。他の眷属たちが戦闘不能になればなるほど、黒槍を撃退すればするほど彼女目掛けて伸びてくる黒槍の本数は増えていく。それでも更に速度を上げて槍を振り、回し、突き、打ち、倒す。そのあまりの高速な身のこなしにさすがのタマも圧倒されて前に出ることができなかった。ただ、段々、黒槍の先端がヨリモの身体を(かす)めるようになった。全身に小さな傷が積み重なっていく。ヨリモはそんなことにはお構いなく槍を振り続ける。しかし体力も無尽蔵にある訳ではないので、次第に黒槍が掠めてできる傷が大きくなっていく。まだ身体の構成要素が漏れ出るほどの傷ではないが、時間が経てば経つほど数が増えていく。その状況にタマは我慢ができずに口を開いた。
「ヨリモ、もういい。我が代わる。いったん退()がれ」もちろん自分の体力もまだ回復できていない状況で、この猛攻に対抗できるのか自信はないが、目の前でヨリモが傷ついていくのを見るのは何より忍びなかった。しかしヨリモは彼の前に立ったまま、いっこうに退(しりぞ)く気配を見せない。
「そなたのような小さな女の子に助けられたとあっては一生の名折れ。我は大丈夫だ。そなたは退がっておれ」
 タマは自分の両手に光の粒子を浮かび上がらせた。
「私は」ヨリモは振り向かず、でも心のすべてを吐き出すように、渾身の思いを込めて声を発した。「私は、今まで、小さな男の子に何度も、何度も助けられたのです。その男の子がいたからこの世が好きになった、楽しいことがあるって知ったんです。だから、その男の子を助けないといけないんです。助けたいんです」
 ヨリモは更に感情を(たかぶ)らせる。更に高速で黒槍を撃退していく。しかし更に数を増やした黒槍が次々に身体を掠めていく。全身傷が増えていく。少しずつ少しずつ身体が削られていく。身体の構成要素も漏れ出してきた。まだ、まだ、私は倒れる訳にはいかない。守らないと、助けないと、タマ殿を……
 その時、ヨリモの身体の動きががくんと速度を落とした。まだ気力は充実しているし、感情も高揚している。でも体力が尽きていた。ここ、まで、なの……そう思った時、自分の身体が白い光に包まれた。とても暖かく優しい光に。周囲から力が身体に染み込んでくるよう。更に光は前方に伸び、何本かの黒槍を撃退した。
「ダメ、やめて」ヨリモは叫びながら自分のすぐ後ろでうずくまったまま前方に両手を突き出している、身体の密度が透けるほどに薄くなったタマの姿に視線を向けた。
 その身体はゆっくりと縮まっていく。元の(ぎょく)に戻っている。ヨリモは察した。ああ、何てことを……。
「玉になった我に、災厄の霊魂を鎮めよ。そして我もろとも災厄を、砕け……」タマが最後の力を振り絞って声を発した。「ヨリモ、我は、そなたとともにいる時が、何より、楽しかった。礼を、言う……」
「何を言っているんですか。諦めないでください。せっかく助かったのに、また私の前から消えるんですか?そんなの、もうイヤ。お願い、行かないで……」ヨリモは更に襲いくる黒槍からタマを守りながら叫ぶように、願うように、乞うように言った。両目に満々とあふれ出るものを溜めながら。
 玉兎は少し離れた所にいるそんな二人の姿に気づいていたが、自分の身を守ることで精一杯ですぐに救助に向かうことができなかった。それでも自分に向かってくる黒槍をやり過ごしながらじりじりと二人のもとへと向かっていった。
 ヨリモはタマの力のお蔭で体力が回復していた。しかし黒槍は勢いを減退する様子も見せず果てなく襲い掛かってくる。タマを背にしているために避ける訳にもいかない。固く重い黒槍を何度も打ち、砕き、退けた。しかしすぐに新手が襲い掛かってくる。自らの槍の刃は欠け、柄もかなり削られた。次第に腕が上がらなくなってきた。足も動かない。また傷が身体中に増えていく。そこから自分が次々に漏れていく。自分が薄くなっていく。意識が遠のいていく……ダメ、しっかりしなさい。私がタマ殿を助けるの。絶対に、絶対に……
 その時、彼女の防御を()い潜って一本の黒槍が彼女に伸びた。それは彼女の胸を貫いた。
 間に合わなった、と思いつつ、玉兎は刃状の風を吹いてその黒槍を切断した。慌ててヨリモのもとへ駆け寄ろうとするが、更に攻撃されて近づけない。
 ヨリモはその場に崩れ落ちた。崩れ落ちながら首を巡らせてタマの姿を探した。視線の先に、次第に球体になっていくタマの姿。這って近づく、手を伸ばす。そして触れた。そのとたん、彼女の身体も白く光り、小さな粒子に分裂をはじめた。
「玉兎殿」ヨリモは少しずつ自分たちの方へ近づいている玉兎に死力を振り絞って声を掛けた。「我らの玉に災厄の霊魂を遷して……。そして、砕いてください……」
 玉兎がこちらを見ている。困惑の表情をしているところを見るとちゃんと伝わったようだ。そう思い安心すると、改めてヨリモはタマを見つめた。
「私たち、これで、ずっと、一緒ですね……」
 ヨリモの頬を大粒の涙が伝っていた。その身体が更に細かく分裂していき、次第にタマに寄り添い、渦を巻きながら混然一体となって玉になっていった。そして後には一つの玉と落涙の跡だけが残っていた。

 タカシは、災厄の霊魂がリサに流入をはじめるとすぐにナミの手を振り解いて落下した。水面に没すると同時に勢いよく白い手を伸ばしてリサの身体を掴み、自らをリサの方へ引き寄せた。
 リサに近づけば近づくほど黒い槍が襲ってくる。ナミがその大半を圧縮させて防いでくれたが何本かは足を、肩を、脇腹を貫いた。激痛が走る。それは貫いたその場に残り、ぐりぐりと動く。更に焼けただれていくような激痛が走る。タカシは必死に激痛に屈しようとする自分を抑制し、リサに呼び掛ける。何度も、何度も。やがてリサが目を開いた。

 恐れ、怯え、不安、猜疑、困惑、リサの胸中にはそんなけっして好ましくない黒い感情が渦巻いていた。おまけに目を開いてみると眼前でタカシが血だらけになっているし、他の眷属たちも重く傷ついている。もしかして、これは私のせい?そう思うと更なる恐れ、怯え、不安が噴き出してくる。そんな状態だったので、ナミに叱責されても何をどうすることもできないし、しようとする気持ちさえ起きなかった。ただひたすらに怖くて不安で困惑していた。
「リサ!」とタカシがごぽごぽと血を吐き出しながら叫んだ。「今、助けてあげるから。すぐにその黒いのから出してあげるから、もう少し頑張って。諦めないで」
 もう、イヤ。もうやめて。もう傷つかないで。お願いだからあたしのことはほっといて。もう、誰かが傷つくのを見るのはイヤなの。もう、やめて……。リサの意識は災厄の霊魂に包まれていた。何の光も通さない漆黒の闇の中にいた。その闇は次第に密度を上げていく。自分のいる場所がどんどん狭くなっていく。自分が見る見る矮小になっていく。そしてじょじょにその暗色に染まっていく。自分の意識が急速に薄くなっていく。自分が消えていく……
「山崎リサ」再び頭上からナミの怒鳴る声がした。「自分の頭の中を乗っ取られているんじゃないわよ。自分の頭の中くらい自分で守りなさい。諦めずに抗いなさい」
 やめて、あたしが悪いのは分かってる。だから、もう責めないで。あたしはこのまま消えるから、それで許して。
 リサが再び力なく目を閉じようとしていた。タカシは必死になって白い手を伸ばしてリサの中を満たしていく暗色を掴み、引っ張り出そうと懸命に気力を込めていた。しかし、あまりに相手は大きく重く、そして頑強だった。
 そんなタカシの周囲を先ほどから一羽のコウモリが飛び回っていた。そのコウモリは胸の辺りから強い光を発していた。
 ルイス・バーネットは少しでもタカシに襲い掛かる攻撃の手を減らそうとならべく目立つようにその周囲を飛び回り、実際気を取られた黒槍が何本も彼の方へと伸びてきた。彼はその攻撃をひらりひらりとかわして尚も飛び続けた。そしてその他のタカシに向かう災厄の攻撃をナミが圧縮能力をもって防いでいた。確かにタカシは何か所も貫かれていたが、その二人のお蔭で致命傷にはいたっていなかった。しかしそれもルイス・バーネットがついに黒槍の先端で弾き飛ばされ、ナミに攻撃が集中するにいたって、タカシはまるっきりの無防備になった。
 リサがゆっくりと閉じかけた視線の先、うっすらとぼやけて見えるタカシの身体に一際(ひときわ)太い黒槍が伸びてその腹部を貫いた。
 たちまちタカシは大量の血を吐き出し、そして小刻みに震えながら苦悶の表情をていしながらその視線をリサに向けた。
 リサは限界まで大きく目を見開いた。とたんに大量の新たな、というよりそれまで自分の奥深くに眠っていた、眠らせていた記憶が噴き出し、それにともなう想念や感情があふれんばかりに湧き起ってきた。一気に彼女を満たしていくタカシとの記憶。これは何にも染まっていない確かな自分。これを全部、取り戻す。本当の自分になって、助けないと、タカシを……
 とっさにナミが、サホが、カツミがタカシの救出に向かう。しかし更なる黒い槍の攻撃にたどり着けない。そして三人ともが、もう無理なのか、とタカシの存命を諦めかけたその時、急に水中から薙刀が現れた、かと思うと、頭に巻いていた頭巾を腹部の傷口にきつく巻いて縛ったマサルが一気に水面に浮上して、タカシの身体を貫いている黒い槍を一刀両断にした。
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