第十章八話 水を従えた娘の侵攻

文字数 4,037文字

 周囲から人の気配が消えると、すぐさま睦月は駆け出した。落ち着かない。早く知らせないといけない。そんな焦りが身体中を駆けずり回っている。
 しばらく茂みを切り開きながら進むと、やがて御行幸道(みゆきみち)に出た。後は北に向けて走るだけ。雨足は衰える様子を見せないが、もう茂みに邪魔される心配はない。その頃には左腕も不自由なく動いてくれるようになっていた。なので、鹿姿に変化してみた。走りはじめても違和感がない。そのまま駆ける。あまりの雨の勢いに跳ねていくことはできないが、脚力に物を言わせて篠突(しのつ)く雨を切り裂くように駆けていく。次第に速く、一直線に。
 途中、所々に大きな(まが)い者がもそもそと動いていたが、彼らも雨の勢いに動きが制限されているようで素早く襲ってきはしなかった。睦月はそのまま禍い者たちにかかずらうことなく突き進む。身体が重い。道の所々が川や池になっている。跳んで越える。時々ぬかるみに足を取られる。それでも速度を落とさず突き進む。
 この郷を守らねばならない。大切な者たちを守らねばならない。宝珠(ほうじゅ)殿の思いを無駄にはしない、そう呟きながら、あまりの走りにくさに体力を削り取られながらも決して足を止めずに走り続けた。やがて稲荷村との境を越えた。 

 ――――――――――

 滑るように近寄ってくる民草(たみくさ)の女。その内からあふれ出ている気の強大さをカツミもナツミもミヅキも肌でヒシヒシと感じていた。普段から慎重なたちのミヅキはもちろん、あまり物事にこだわらず、(おく)することもほとんどない()の兄妹でさえ、無意識のうちに身がすくんでいた。
 間断なく降っている激しい雨に打たれている不快感も相まって、少しでも気を許すと、村も仲間もすべてを捨ててこの場から逃げ出したい衝動に駆られる、そんな恐怖をともなう威圧感が迫ってきている。やがて、彼らの身のすくむ思いが最高潮に達する頃合いに突如、声が聞こえてきた。
 ――()(しろ)の娘を差し出せ。間を置かず、引き連れ、我に供えよ。拒めば村ごと水泡に帰すことになる。おぬしたちでは我の相手はできん。早々に依り代の娘を連れてこい。
 民草の若い女の喉を通って声は発せられていた。だから民草の若い女の声だった。しかし、どことなく野太く重厚で(いちじる)しく威厳を備えた声だった。その声は雨音にも消されることなく、三人の耳朶(じだ)に確かに届いていた。
 ミヅキはその声を聞いた途端、悟った。ああ、敵わない、抗えない、冷静な自分がそう声を上げている。身体が自然に小刻みに震え出す。しかし、それを抑えつける。私だって神鹿隊(しんろくたい)の一員だ。こんなところで臆する訳にはいかない。ただ、ふざけるな、と言い放ちたいが声が出ない。
 きっと、この民草(たみくさ)の女は何かに操られている。その何者かは、この大量の雨を降らせるくらいに力が強大。たぶん、本気を出せばこの村など跡形もなく消し去ることさえできるのだろう。でも、それをしないのはこの村に依り代の娘がいるから。それは逆に言えば、依り代の娘を渡してしまってはどんな災禍が生じてしまうか分からないということ。それだけは避けなければならない。しかし、どうしたら。時間稼ぎでさえできる気がしない。そんなことをミヅキが考えていると、すっと横をカツミが通り過ぎていった。
 カツミは前に進み出ると民草の女に向かって、空を指さしながらあらん限りの声を上げた。
「そなたが何を言っているのか、この雨のせいで聞こえない。まずはこの雨をどうにかしてくれ」
 先ほどの声はカツミにも確かに届いていた。しかし、ダメもとで言ってみた。すると女は首を(かし)げ、空を見上げて、少しの間を置いた後、片手を上げた。
 その手の先から気が立ち昇る。色がある訳でもなく、はっきりと目に見えた訳でもなかったが、その道筋が歪み一筋の線を描きながら立ち昇っていく。その線が、渦巻いている雲の層に当たるとそこにぽっかりと穴が空いた。そして鈍重な体を引きずるようにして、巨大な渦自体が北側へと移動していった。
 空を見上げるその目に、夜空に(きら)めく星々の姿が映った。一瞬にして雨がやんだ。ものすごい解放感。間断なく降り注ぐ圧力から解き放たれてカツミとミヅキは自然と背筋を伸ばした。と、同時に女の有する桁違いな力に改めて驚愕の念を抱かざるを得なかった。あれほどの雨を降らしていた濃厚で重厚な雲の層を一瞬にして移動させてしまった。これは大神様でも敵わぬのではないか、ふとそんな想念さえ浮かんでくる。しかし、そんなことを考えてはいけない。神の力を疑うなどあってはならないことなのだ。その想念を二人が慌てて振り払った頃、再び威圧感満載の声が聞こえた。
 ――我の言うことが分かるか。
 女は立ち止まっていた。少し離れていたがそれでも聞こえるはずだと確信しているような口振りだった。少し間を置いてから、ああ、とカツミが答えた。
 ――この村にいる依り代の娘を連れてこい。少しだけ待ってやる。しかし、早くせぬとこの村には草木も残らぬぞ。
 そう言うと、女の足元から数多(あまた)の細長い形状の流れが方々に伸びていった。そしてたちまち龍の姿に変化して辺り一面埋め尽くすように林立した。そのうちの一体が参道の奥に建つ、掃除道具が入った小さな木造の倉庫に向かい、少し中の様子を窺った後、けたたましい破壊音を響かせながら、たちまちに木切れの山に変えた。
 自分がそんな姿になる様子を思い描いてカツミとミヅキは更に身が縮む思いを抱いた。歴然とした力の差が眼前にまごうことなき現実として示されている。しかし、それでも、逃げる訳にはいかない。とミヅキは自分を必死に奮い立たせる。こいつは睦月ちゃんの(かたき)なんだ。
 この民草の有する力はとてつもなく強い。しかし、その身体はただの民草のままのようだ。もしかしたら物理的打撃を加えればどうにかなるかもしれない、そう思いながらミヅキは、自分より一歩前に進み出ていたカツミの横に並んでその顔に視線を向けた。するとカツミも同じことを考えていたように横を向き視線を合わせて頷いた。
 その時、ミヅキは思い出したように腰に着けていた鎖鎌(くさりがま)を手に取り、カツミに渡した。東野村(とうのむら)で押収してそのまま身に着けていた。カツミも暗かったのでミヅキが持っているとは気がつかなかったが、兄が使っていた鎖鎌を受け取って、これで少しは対抗できる、そんな気がした。
 彼らの眼前には何体もの水の龍が立ち並んでいた。近いものは手を伸ばせば届きそうな所にいる。彼らの様子を、身体をくねらせながら、じっと一挙手一投足見逃すまいと睥睨(へいげい)している。そのあまりの多さにマコの姿が見えなくなっていた。もう、近づくのも難しそう。
 ――どうやら我に従う気はないようだな。たいして期待はしておらんかったが、眷属というものはどこまでも阿呆(あほう)愚鈍(ぐどん)なものだ。最後に機会を与えてやったのに、見す見す逃してしまうとは。これでこの郷はすべて無に帰することになる。甘んじて受け入れろ。
 マコの身体がそう声を発すると、すぐさま水龍の群れが一気に四方八方に伸びていき、周囲にある建物を片っ端から捜索しはじめた。そして中に誰もいないか誰かいても民草がいなければ、そのまま勢いよく襲い掛かって次々に破壊していった。
 まさに怒り心頭に達する思い。睦月ちゃんだけでは飽き足らず、我らの思いや思い出の詰まった境内(けいだい)を破壊していくとは、ミヅキがおもむろに手に持った剣を振りかぶり、一閃、眼前の水龍を叩き斬った。

 雨がやんだことを察すると、すぐにサホは社殿横の扉から外に出ていこうとする姿勢を見せた。その背に如月(きさらぎ)の声が投げ掛けられる。
「サホ、わっちはこれから降神(こうしん)の神事を斎行(さいこう)してくるでなあ。それが終わるまで邪魔が入らぬようにせんといけんでえ。隊員も無駄に失わないようになあ」
 鼓舞する声でも、心配する声でも、元気づける声でもなく、淡々と発せられた声。
「分かっております」言い終わると、そのままサホは外に出ていった。そこに弥生がいた。
「すぐに社殿前に全員を集めよ」
「了解」と言うとすぐに弥生は懐から小さな笛を取り出し、一吹き長く高い音を鳴らしながら駆けていった。サホもすぐさま社殿前に向かう。その目に無数の水龍の姿。境内の建物が次々に破壊されている。社殿前では、すでに誰かが戦闘をはじめているようだ。確認するまでもなく緊迫した状況が広がっている。すべての隊員の到着を待つゆとりはない。
「女どもは剣を持ち、男どもは鹿姿で突進させよ。これから降神の神事が行われる。邪魔をされぬように押し返せ」
 サホは弥生に言い放つと剣を抜き、そのまま水龍の群れに突っ込んでいった。

 一方、社殿内では、
「では、約束ですよ。これから我はこの男を助けにいきます。過酷だとは思いますが、そなたはこの郷を救うため、依り代としての勤めを(まっと)うしてくだされ」
 マサルはタカシを背負うとリサに向かって、そう声を掛けた。どうやら外では雨がやんだようだ。しかし、いつまた降り出すかもしれない。今のうちに出立するべきだと思い、急ぎ準備をしていた。
「はい、分かりました」
「それから、依り代となってどうしても恐れが勝ってしまった時には、一心に願いなさい。特定の神の名を呼び、そして願えばきっと神様は応えてくださいます」
 リサの目はじっと意識を失ったタカシの姿を見ていた。あからさまに心配そうだった。
「分かりました」
 そのリサの言葉を聞くと、マサルはいったん本殿に向かい深く一礼をした後、社殿内を横切って外に出た。頭上には星が(またた)いていた。月は見えなかったが星灯りさえあれば歩行には何ら支障がない。すぐさま駆け出した。社殿西側の参道を通り境内を出ると、すぐそこに御行幸道が伸びていた。捜す手間が省けて幸先の良さを感じた。そのまま一心に駆けていった。
 その後ろ姿を大木の枝にとまった一羽のカラスが見下ろしていた。そして、ようやく動き出したか、と言いたげに、おもむろに飛び立つとその後を追っていった。
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