第五章一話 巳の三兄妹

文字数 5,027文字

 そこは、とても深い水の底。
 目を覚ます。無数の情念、大量の情動、激動する欲情が奔流のように一気に頭の中を駆け巡る。自分の脳裏にこんなに大量の感情、想念が一度に存在し得たのだと、驚嘆するほどに。
 自分の身体の中心から末端に向けて、意識がじわりじわりと浸透していく。やがて身体中すべてを認識した、と突然、力が湧き起ってきた。自分自身その力を制御することなど不可能に感じられるほどの強大な力。収まりきらずに身体を破壊しつつ外部に飛び出してしまいかねない、すべてを超越するかのような力。
 眉間(みけん)(しわ)を寄せ、声を上げる。
 口から(ほとばし)咆哮(ほうこう)、身体をくねらせ、のたうち回る。
 頭から尾までの距離が異様に遠く波打つように動いている……尾?
 今までとはまったく身体の感覚が違う。動きも姿形さえも。
 ――やっと目覚めたようだな。どうだ感覚は。力が(みなぎ)っておるだろう。これでおぬしは我と同体となった。我の安寧が、おぬしの安寧。我の繁栄が、おぬしの繁栄だと知れ。
 その声に周囲を見渡す。漆黒の暗闇。ただ頭の中に声が響く。
 ――その力は我のほんの一部だ。しかしおぬしにとっては強大な力であろう。その力を使い我との誓約(うけい)を果たせ。
 誓約……。
 ――忘れるでない。ここを出て、我の尾に打たれておる(くさび)を破壊して、我を解き放つのだ。
 そう言われて禍津神(まがつかみ)の脳裏に“災厄”と交わした会話がじんわりと思い出された。解き放たれたらそなたはどうするのだ?
 ――もちろん、ここから脱け出す。もうこんな地下深くに幽閉されるのは飽き飽きした。
 ここから出たらどうする。どこかに行ってしまうのか?
 ――いいや、結界を張られているからな。その外には出られぬ。
 結界の外にはどうやったら出られる?
 ――そうだな。まずは朽ち果ててしまった我が身の代わりを見つけねばならぬ。身体があれば、地上に出て、力を使い、結界を破ることができるかもしれん。
 身体か、何でもいいのか。
 ――いや、我の霊魂が入るほどの器は我の身体しかない。
 では、我らは結界の外に出ることはできぬのか。
 ――我は長い年月この地中深くに閉じ込められ、その間、大地と接し、繋がり、溶け合い、一体となっておった。その大地から我は感じ取った。神降ろしの存在を。それは一人の民草(たみくさ)の女。その者なら我の霊魂を入れる器になれるかもしれん。
 民草の女をここに連れてくればいいのか。
 ――我は感じる。その女は今、ここから真東にいる。どうにかしてその女をここまで連れてこれれば我の器にして我は真の力を顕現することができるかもしれん。
 そうなのか。まあ、とりあえず、誓約を果たしてこよう。ここを出て、そなたの(いまし)めとなっている楔を破壊してくる。それでいいか?
 ――よかろう、頼んだぞ。

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 細流が臥龍川(がりゅうがわ)に合流する場所まで達するとその(へび)は岸に上がって姿を変えた。
 月明かりに長い黒髪を後ろで一つに束ねた少女の姿が浮かび上がる。古代の兵士が着用していたような、小さな鉄板をうろこ状に連ねた甲冑(かっちゅう)を身に着けている。
 目の前に流れる、ほんの数日前まではちょっとした小川でしかなかった臥龍川が、今では一級河川なみの水量を湛えている。
 それは突然だった。数日前、この郷の中心からいきなり大量の水が噴出して、一気に点在していた家々と田畑と小川を呑み込んで小さな湖となった。更に水は湧き出し続け、臥龍川は一気に川幅を増して今に至るまで衰える様子も見せず流れ続けている。
 少女は辺りを見渡し、手頃な丸石を捜し出すと、両手に持って水の中に浸けた。そして水中で拍子を変えながら八度打ち鳴らした。
 上体を上げると少女はその場でそのまましばらく待った。やがて、水面を二匹の大きな蛇がどこからか泳ぎ寄ってきた。そのうちの一匹は全身が一点の曇りもない白色に包まれていた。
 二匹の大蛇は岸に到着すると、少女と同じように甲冑を着た古代兵士の姿に変化(へんげ)した。
「ナツミ」と少女の姿を見るなりひとりの兵士が声を上げた。
 少女は、そう自分のことを呼んだ兵士には目もくれず、もう一人の前に立ち、軽く頭を下げた。
「兄様、ただいま戻りました」
「ふむ、ご苦労だった。それでどうだった、(くだん)の群れの動きは」
 背筋を正した姿でその白蛇だった兵士が言う声に、ナツミと呼ばれた少女は少し前のめりになって大きく開いた目を輝かせながら返答した。
「はい、カガシどもの報告通り、民草二名と稲荷と八幡と天神の眷属、加えて正体不明な者が二体おりました。東野神社(とうのじんじゃ)に立ち寄った後、そこの眷属も加えて祝山(いわいやま)に向けて移動して行きました。途中、正体不明な女に見つかり、八幡の眷属に攻撃され、やむなく退散したので、そやつらのその後の足取りは不明ですが、恐らくまだ祝山付近におるものと思います」
「何?あの八幡とこの豆鳩(まめばと)が?俺の妹に危害を加えようとするとは、許せぬ。ナツミ、安心しろ。あんな雛鳥(ひなどり)など我が丸ごと一呑みにしてやる」先ほど、少女の名を呼んでいた兵士が再び脇から声を上げた。ナツミは、またその兵士の言葉を無視して続けた。
「でも、兄様、ご安心ください。うち、どんなに攻撃されても蛇の姿のままでしたから。うちらの隠密を悟られてはいないと思います」
 兄様と呼ばれた兵士が少し厳しい視線をナツミに向けた。
「そなた、また勤めの間に寝ていたな。今回は消されなかっただけ、運が良かったと思うのだな。とにかく、今のように幼いつもりのままで甘えてばかりおっては、いつまで経っても一人前の眷属にはなれぬぞ」
 ナツミはうつむいて黙り込んだ。実際、その東野村での諜報活動の最中に、彼女は蛇の姿で人間と眷属たちの一行を見張りながら、少し先回りして、田んぼ脇の流れに半身を浸けてまどろんでいたのだから反論のしようもなかった。まどろんでいて、急に人間たちが方向を変え、自分の方へと向かってきたことにとっさに気がつかなかった。気づいて慌てて逃げようとしたときにはもう遅かった。八幡の眷属の槍に掛けられて遠く彼方まで投げ飛ばされたのだ。こんなこと情けなくって兄様に言える訳がない。
「兄者、ナツミに向かって何てことを言いやがんだ。いくら兄者でも言っていいことと悪いことがある。ナツミは言いつけ通りに一人でちゃんと探って、こうして無事に戻ってきているじゃないか。それで充分だろ。途中、居眠りしたり、相手に見つかってしまったとしても無事戻ってくれば、そんなの大したことじゃない」
「カツミ、そちがそんな風に甘やかすからナツミも甘えるのだ。そちも反省せい」
「反省するのは兄者の方だ。兄者はナツミに厳しすぎる」
「妹が立派な眷属になるためだ。厳しくもせねばなるまい」
「兄者の厳しさには愛がない、優しさがない。だからナツミは兄者のことを怖がっておる。我とともにおるときは和んだ気の置けない様子だが、兄者がおると途端に気を張って小さくなってしまう。見ていて痛々しい」
 その言葉にナツミが慌てて割り込んだ。
「カツミ、勝手なこと言わないで。うちは、タツミ兄様を怖がっていないわよ。尊き存在だと敬っているだけ」
 この三人は東野村の隣村である美和村(みわむら)に鎮座する三輪神社(みわじんじゃ)の眷属だった。三人きりの眷属であり、三人きりの兄妹だった。 
「それよりカツミ、村内に現れた禍い者はいかがした?」いついかなる時でも落ち着いたタツミの声。
「それならもう粗方(あらかた)退治しておる。まだ小さな者が残っておるかもしれんが、村中カガシたちに見張らせているからヤバそうなのが現れたら、すぐに分かる」無遠慮に溌溂(はつらつ)としたカツミの声。
「地が揺れてからこの方、禍い者が蠅聲(さばえ)なして現れておるな。主様(ぬしさま)が姿を現されぬ今、一層、警戒を怠らぬようにせねばならぬ」
「兄様、主様はいつになったら山を降りられるのです?」長兄であるタツミに向かって、ごく無邪気に発せられるナツミの声。
「分からぬ。山におられるのは間違いないのだが。とにかく今は、主様が姿を現されるまで、村と楔を守護(まも)らねばならぬ。そなたらも知っての通り、災厄の頭の楔は先の地揺れで地中深くに呑み込まれてしまった。残るは我が村の楔だけだ。どんなことがあっても守護らねばならぬ。我はこれから楔の様子を見てくる。そなたらは交代で村内の警戒にあたれ」そう言ってタツミはまた白蛇に変化して川に入ると、身体をくねらせながら滑るように水面を上流に向けて移動した。
「兄様が行くなら、うちも行く」ナツミも姿を変えてタツミの後をついていった。
「おい、ナツミ待てよ。お兄ちゃんを置いていくなよ」そう言ってカツミも蛇の姿でその後を追った。
 湖に近づくほど川幅が増し、流れが緩やかになっていく。どれだけの水が湧き出しているのだろうか。こんな事態はこの村、この郷はじまって以来かつてないことだった。やがて川の流れが消え、湖の中に入った。煌々と光る月と(またた)く星々に照らされた水面はとても静かだった。このような異変が起きていなければ心地よい夏の夜のひと時が過ごせそうな穏やかさが漂っている。
 タツミは少し前のことを思い出していた。

 村にクレハという八幡神の眷属が訪ねてきた。その眷属は鳩の姿で脇目もふらず村の鎮守社である三輪神社に飛んできた。気づいたタツミが境内入り口まで出迎えた。
「総社の宮であります八幡宮の第二眷属であられるクレハ殿がわざわざお越しになられるとは、いかがされました?」
 目の前に品の良さを振りまきながら佇んでいる、(かんむり)を被り、紫袴(むらさきばかま)に黒色の装束を身に着けた細身の男に言った。
「タツミ殿、ご無沙汰しておりますが、お元気そうでなによりです。本日は我が大神の仰せによりまかり越しました。三輪明神様にお目通り願いたい」
 口調は丁寧でもけっして頭は下げない。胸を張り、少し尊大にも見える。それは自分の仕えている八幡神の威光を笠に着ている、というより、その威光に傷をつけないために意図的にそうしているのだった。多かれ少なかれ眷属にはそういった面があった。自分は大神様と大神様を崇める民たちとの間に位置する者。自分たちの地位が上がれば、民たちはますます高所を崇め見ることになる。逆なら民の意識の中にある大神様の御神威(ごしんい)を下げることにもなりかねない。タツミも同様に口調は丁寧ながらもまっすぐ正対して答えた。
「我が大神は今、故あって山中でお(こも)()されております。申し訳ございませんが御拝謁は叶いませぬ。御用の向きは我が承り、後ほど大神様にお伝えいたします」
 クレハは顔には出さなかったが、ここの神はいつ来ても籠っておる。まったくもって和を乱すばかりで(はなは)だ困る。なぜにこの重要な地にこの社が鎮座することになったのか理解に苦しむ、と心中、苦虫を噛み潰したような気分だった。
「では、お言伝(ことづ)てをお願いします。先日の地揺れの際、災厄の頭の楔が地底深くに落ちてしまい、縛めが解かれました。残る楔はこの村にある尾の楔のみ。何をもってしても死守せねばなりません。つきましては、先頃の神議(かむはか)りで、我が八幡宮はじめ各社から守護の者たちをこの村に差し向けることに定まりました」
 お前たちには任せられん、と言われているようで、タツミは内心むっとした。確かに自分たちは数の上では少ない。恵那郷八社の中で東野神社の次に眷属の数が少ない。それはけっしてこの村に鎮まる神の力が劣っている訳でも、崇敬者が極端に少ないからでもない。しかしこの村に鎮まる三輪明神は、三人の眷属を生み出すと、その後は眷属を生み出そうとせず、代わりに大量のカガシと呼ばれる蛇たちを生むばかりだった。それがなぜなのか、タツミにも不明だった。
「先ずは大神様にお伺いを立ててみます。それまでこの村は我々にお任せいただきたい」
 勝手なことをされないように、柔らかい声ではあったが、断固とした口調で言った。しかし、クレハはごく冷たく、更に断固とした口調で応じた。
「これは神議りで決まったこと。我が大神様の御神意(みこころ)に応じず、神集(かむつど)えに集え給ふ神議りに参り列しなかった三輪明神様におかれましては異を唱える立場にはございません。どうか、ご承知ください」
 タツミの心中には歯噛みする思いが込み上げていたが、かろうじて冷静を装ってクレハを見送った。

 それ以降もまだお目通りは叶っていない。もう、明朝には他の社の眷属たちがこの村に入り込んでくる。甘んじて受け入れるしかないのだろう、そう考えているうちに、三人は尾の楔に辿り着いた。
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