第十四章八話 土気色の流れの先に

文字数 5,406文字

 リサは、土気色の流れの中にいた。
 自分の周囲に無数の(まが)い者が(うごめ)いている。自分には触れないように間を空けつつも周囲の全方位を流動している。その一体々々から痛みが伝わってくる。それぞれの個体の中心に溜まった痛み。空中ににじみ出て彼女の鼻孔から脳裏に忍び寄り、感情を揺さぶる。
 積み重なる痛み、溜まっていく痛み、抜け出せない痛み、動けない痛み、飢え、渇き、身体中がひりひりと痛む。何かの命を取り込めばその痛みが和らぐような気がする。無性に何かを取り込みたい。そんな希望が叶わない痛み。
「お前たち、とても長い間、苦しんできたのね。可哀そうに」
 そう周囲の禍い者に同情する彼女の脳裏に、辺りに立ち込める痛みに誘発されて、次第に自分を苦しめてきた記憶の断片が浮かび上がってきた。
 伯母さんが死んだ。私はそのお葬式の時、はっきりと自分がしたことを後悔した。
 伯母さんを責めたあの日、浅はかな私はそれがどんな結果に繋がるか考えもしなかった。
 ショウタ兄ちゃんに首を絞められた日、その顔に、その目に、その言動に、死を感じた。私に死をもたらす存在なのだと確信した。怖くて怖くて今でも時々夢に見る。
 今、私は生きている。だからショウタ兄ちゃんに殺されはしなかった。でも、その後の記憶がない。私は何をしたのだろう?何をされたのだろう?
 もう少しこの道を進めば、分かる気がする。
 頭は朦朧(もうろう)として、真っ暗闇の中、ただ呼ばれるままに足を進めていく。すぐそこに答えがある。そして禍い者たちの群れを出た。何も見えない。でも、感じる。その圧倒的な存在感。それがそこにいる。

 はっと我に返ってタカシはすぐさま禍い者たちの群れに突っ込んでいった。眼前に壁のように積み重なっている土気色たちを半狂乱な様子で破裂させていった。白い腕を出し、禍い者の中心にある黒い固まりを掴んでは握り潰した。俺は何をしてたんだ?見す見すリサを敵の渦中に行かせてしまった。絶対に行かせてはいけなかった、止めるべきだったのに。何やってんだ……。
 リサ―、と何度も叫ぶ。しかし返事はない。禍い者の悪臭混じりの体液を幾たびも浴びる。身体が重くなる、気力が奪われていく、気持ちがうつむいていく。それでもやめない。リサの姿を見つけるまで、救い出すまでやめられないと、ただただ禍い者を掃討し続けた。頭上に飛びながらナミも禍い者を圧縮能力で撃退していく。
 我に返った眷属たちも慌てて()(しろ)の民を取り戻すために禍い者の群れに突っ込んでいく。その時、いくつもの小さな空気の刃が飛んできて、一瞬にして何体もの禍い者が破裂した。タカシの後方にいる玉兎(ぎょくと)が、放った息吹(いぶき)を操って攻撃していた。
「玉兎殿、我の輝きを吹いてくれ」
 そう言うとタマは身体の前面に大量の白い粒子を浮かび上がらせた。お安い御用だ、と玉兎がその粒子を禍い者の群れに向けて息吹放った。
 宙を(きら)めきながら息吹に乗って粒子が禍い者たちのもとへ降り注ぐ。すると(またた)く間に、禍い者たちは溶け、縮み、破裂して消えていった。このまますべての禍い者を掃討するつもりで更にタマが粒子を放出する。玉兎が息吹放つ。
「ダメです。そんなに一気に力を使っては」とヨリモが心配そうに言う。
「そんなことは言っておられん。あいつらを一掃せねば、先には行けんだろう」と言いつつタマが更に粒子を出す。ヨリモは不満気に、もお、と一声発すると急に前方に向けて走り出した。一掃するまでやめないのなら、早々に一掃すればいいだけのこと、と跳び上がって息吹に乗り、粒子を踏み台にしてぴょんぴょんと跳ねながら更に先に行き、残存している禍い者たちを手に持った(やり)で次々に突き、破裂させ、消滅させた。
 タマの粒子とヨリモの繰り出す目にも止まらぬ槍術の攻撃に禍い者の群れは一気に崩壊し、行く先の道が開けた。すると突如その先から、どんと押し寄せてくる威圧感。
 それは(いか)めしい中にも慈愛を感じられる神々のものとはまったくの別物。ただひたすらに恐怖、困惑、不安を掻き立てる感覚。そこにいる誰もが一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。
 しかしそんな威圧感に屈することなくタカシは一歩々々進んでいく。タマの発した粒子を浴びたお蔭でそれまで浴び続けていた禍い者の体液の影響が薄まった。何とか残った気力を振り絞ってリサのいるだろう前方へ進み続ける。契約者が進むのでナミもすぐ近くを飛びながら続く。ナミが行くのでルイス・バーネットも続く。その姿を見て、威圧感に屈しかけた自分を恥じつつサホやクロウやマサルや蝸牛(かぎゅう)や玉兎が続く。そんな彼らの方へと道の先まで禍い者を掃討しに行っていたヨリモがタマのもとに駆け戻ってきた。
「大丈夫ですか?あんまり無茶しないでください。また(ぎょく)になったら次は元に戻れるかどうか分かりませんよ」
 大量の力を一気に放出したためにその場に座り込んでいたタマが、自分を覗き込んでいるヨリモに微笑み掛けた。
「ここ数日、そなたに心配されてばかりだな。それにしてもそなたは身軽だな。我の輝きの上で飛び跳ねるだなんて」
「それだけ大量に放出してたってことですよ。本当に加減ってものを知らないんだから。こんなんじゃ心配でおそばを離れられないですよ」
 タマはひとしお嬉しそうに笑った。
「じゃ、これからもそばで見張っててくれ。その方が、我も安心だ」
 ああ、また。顔が熱い。さぞ紅潮していることだろう。ナミやルイス・バーネットが先行していったので、辺りは暗くなっていて助かった。
「さあ、みんな先にいってしまった。我らも行こう」タマは立ち上がりながら言う。もう無理しないでくださいよ、と言いつつヨリモは従った。

 先行していった眷属たちに遅れじとナツミは先へと向かう。正直、前方から押し寄せてくる威圧感に足が震える。何が起こるのか分からない不安。一度、捕らえられて災厄の前に出たことはあるが、その時は水中だったし、ここまで強い威圧感は感じられなかった。やはり尾の(くさび)が消失してしまったせいなのだろうか。そんなことを考えていると横にいるカツミが唐突に言った。
「ナツミ、お前はここに残れ」
「は?何でうちが残るの?うちは兄様から直々(じきじき)に依り代の民を守るように命じられた。だから行かないといけないの」
「依り代の民のことはお兄ちゃんがどうにかする。だからそなたはここに残ってくれ」
 カツミの顔は珍しく真剣そのものだった。冗談を言うつもりも、茶化すつもりも毛頭ない、と言わんばかりの目の光を(たた)えていた。その目が、ここから死地に向かう。もしかしたら全滅してしまうかもしれない。せめてそなただけでも生き残ってほしい。もし我が戻ってこなかったらお社と村のことを頼む、と言っている気がした。
「いやよ。うちも一緒に行く」
 この数日のうちで、兄を二人とも亡くしたと思った。数少ない肉親を亡くして誰もいなくなったのだと思っていた。しかしカツミは戻ってきた。黄泉(よみ)から帰ってきた。正直、泣くほど嬉しかった。もう、二度とそんな思いはごめんだ。だからもし家族が死地に向かうのなら自分も一緒に行きたい。帰ってくるかどうか分からないのに、ただ待つだけなんてしたくない。
「ナツミ、聞き分けておくれ。タツミ兄さんがいても、たぶん同じことを言う。そなたなら分かるだろう?なあ、たまにはお兄ちゃんを信用してくれないか?大丈夫、きっと戻ってくるから」
 カツミがぽんと手をナツミの頭の上に乗せた。ナツミは三輪神社(みわじんじゃ)社殿内(しゃでんない)で消滅しかけたタツミが同じように頭に手を置いたことを思い出した。うん、タツミ兄さんでもたぶん同じことを言う、きっと。そう思うと反抗する気がしゅんと()えた。ただ、やっぱり面白くない気持ちは残る。ナツミの口がぶすうと不機嫌そうに尖った。
「あんたを信用なんてできる訳ないでしょ。いつもいつもろくに考えもせず、勘だけに頼って自分勝手に行動してばかりの兄なんて信用できない。でも、今回は、今回だけは待っててあげる。だから絶対に戻ってきて。戻ってこなかったら兄妹の縁切るからね。絶対だからね」
「分かったよ。そなたは未来永劫、お兄ちゃんの妹だ。縁なんて絶対に切らせない」
 カツミにもとのいたづらっぽい表情が戻ってきた。ナツミは思わず目を逸らした。
「早く行ったら。みんなもう先に行ったわよ」

 駆けていくカツミの背を見送って、ナツミが少し後方に残っていた秘鍵(ひけん)睦月(むつき)、ミヅキたちの方へと向かうと、そこでは睦月が首の左側を手で抑えてのたうち回っていた。
 秘鍵の周りに青く揺らぐ狐火がいくつか浮かんで、その情景をぼんやりと照らしていた。
 声を発することを我慢しているのだろう、睦月の低い呻き声が漏れ出ている。かたわらでミヅキが睦月ちゃん、睦月ちゃんと心配で堪らないという表情をして名を呼び続けている。
「睦月殿、その腕は宝珠(ほうじゅ)の力。しかしそこに意思はない。ただ力を増すことを指向しているにすぎん。その力を制御できるのはそなたのみ。自分をしっかり保ち、押し寄せてくる力を抑えつけるのだ。負けてはならん」
 そんなことを言われても、と微かに聞こえる秘鍵の声に思いつつ、押し寄せてくる力に自分が呑み込まれていく恐怖、自分が消えてしまうかもしれない不安に睦月は(さいな)まれていた。制御ってどうすればいいの?自分はただ、怖いだけ。早くどうにかしないと、でもどうしたらいいの?焦れば焦るほど自分が矮小(わいしょう)になっていく。力に呑み込まれていく。
「睦月ちゃん、睦月ちゃん……」
 ミヅキの声が(しゃく)(さわ)る。うるさいな、名を呼ぶばかりじゃなくてどうにかしなさいよ。ほんと、役立たずなんだから。その睦月の心中の声が聞こえたのか、
「秘鍵殿、どうにかしてください。睦月ちゃんを助けて、お願い」とミヅキが涙混じりの声を上げる。秘鍵はただ静かに首を横に振った。
 その様子にミヅキは歯を喰いしばり、そして眉間に皺を寄せながら、必死に考えを巡らせた。何とか睦月ちゃんを鼓舞しなければ。このまま大人しく睦月ちゃんを消させてなるものか。そして唐突に秘鍵に向かって声を発した。
「私と睦月ちゃんはほぼ同じ時期に生まれたんです。だから私は睦月ちゃんといつでも仲良くしていたかったんです。でも睦月ちゃんはいつも私を敵視して、いつも絶対、私にだけは負けたくないって頑張ってたんです。大した能力もないくせに」
 突然の内容に秘鍵はちょっと怪訝(けげん)な表情を見せた。
「私はそんなのめんどくさいからいつも負けてあげてたんですけど、睦月ちゃんったらいつも気づかずに勝った、勝ったって喜んでたんです」
 こんな時に何を言ってんだ、こいつ。と睦月は不快に思ったが、怒りたくても苦しくて無理だった。
「睦月ちゃんは地位と名誉に貪欲だから、私はいつも私の上に立てるようにしてあげてたんです。そうじゃないと不機嫌になってほんと、めんどくさいから。本人、ずっと気づいてなかったんですけど、全部私のお蔭なんです。おめでたい話ですよね」
 くっそ、ミヅキのやつ、我が弱っているのをいいことに、言いたい放題言いやがって。そんなはずはない。我は自分の力で、自分の実力で、そなたに勝ったんだ。副隊長にもなったんだ。それを、そんな風に言いやがって。くそ、くそ、ミヅキのやつ……
「でも、けっきょくこんなところで自分の腕に呑み込まれて消えるんですね。これで次の神鹿隊(しんろくたい)の隊長は私。最後の最後で私には勝てなかった。睦月ちゃんは、私に勝てなかった。ほんとに情けない。けっきょくそんなものなの?あなたは、その程度なの?睦月ちゃん、あなたはこのまま私に負けるの?」
 睦月の目がかっと見開かれた。同時に口を大きく開き、内に溜まった苦痛をすべて吐き出すかのように、獰猛な獣のような叫び声を上げた。我は負けない、負けたくない。こんなところで消えたくない……
「睦月ちゃん、あなた、強いんでしょ。負けないで、打ち勝ちなさい。睦月ちゃん、お願い」
 うるさい!あんたごときがあたしに指図するな!全身を硬直させた睦月の口から途切れ途切れに(かす)れた声が漏れる。歯を喰いしばる、憤怒の表情をていする。全身に自分の意志を(みなぎ)らせる。この身体は我の身体。我の意思で動かす、制御する。
 睦月は目を固く閉じ、全身を細かく震わせながら気を漲らせた。やがて左腕の輝きが首筋から肩へ、そして腕へと後退して、ふと消えた。そこにはもとの睦月の腕が残っていた。
 睦月ちゃん、とミヅキが呼び掛けた時には、睦月は意識を失って地に横倒しに伏した。驚きの表情でミヅキが再度呼び掛ける。秘鍵が睦月の様子を診て緊張感を緩めながら言う。
「気を失っている。恐らくもう大丈夫だろう。しかし驚いた。わざと怒らせて、押し寄せる力に対抗させるとは」
 感心したような表情の秘鍵にミヅキはニコリと笑いかけた。
「睦月ちゃんは人一倍負けず嫌いなんです。そこが可愛いくてたまんないんですけどね」

 真っ暗だった。しかし恐れはない。足を伝う感覚で不思議と情景を知ることができた。
「呼んだのは、あなた?」
 ぼんやりと夢を、悪い夢を見ているような感覚の中、リサは前方に感じる存在に訊いた。
 その声は、頭の中に直接響いてきた。とても優しく、穏やかで、和やかな声。
 ――依り代の民よ、よく来た。我がそなたを呼んだ。この世で、誰よりもそなたを必要とし、そなたを欲しておる我が、そなたを呼んだ。
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