第十章二話 そっと手を重ねる

文字数 4,971文字

 弥生(やよい)の、疑問を差し挟む余地なく従うことが当然だと言わんばかりの命令口調に、リサの頭の中をおおっていたもやのような眠気がさっと払われた。ハイッ、と声を上げ、進み出た。タカシやマサルたちもともについていくべく前に進み出ようとした。
「そなたたちはここで待っていろ。来る必要はない」弥生は、タカシたちを一瞥(いちべつ)して言い放つ。異論は許さないと言った口調。当然、リサと一緒に行動するつもりだったタカシは一瞬、戸惑ったがすぐに気を取り直して応じた。
「そういう訳にはいかない。彼女が行くなら俺も行く」
 そう言われて弥生は、視線の先の民草(たみくさ)への視線を更に冷たくさせた。このくそ忙しい時に面倒なことを言う奴だ。民草の分際で。
「そなたが行ってどうする?そなたに何ができる?無力な民草が大神様の大前に進み出ようなど恐れ多いとは思わぬのか?」
 タカシの頭の中には神様、得体の知れないものに対する、恐れがあるにはあった。それに自分がこの世界では無力でしかないことも分かっている。それでもリサと離れてはいけない。何があっても彼女と一緒にいる、その決意だけが彼の全身を貫く行動原理となっていた。リサもその決意を感じ取ったのか、一歩退いてタカシと並び立った。
「我らもともに参ります。止めても無駄です」そう言いながらマサルが一歩前に進み出た。カツミとナツミも同じく進み出た。弥生の背後で他の女眷属たちが剣の柄に手を掛けた。弥生はすぐに片手を横に軽く上げてその動きを制した。
「仕方がない。事は急を要する。三輪(みわ)の眷属の他は我らについてくるがいい」
「なぜ、我らは行ってはならぬのだ?」とっさにカツミが責める口調で訊いた。
「そなたたち、忌中(きちゅう)ではないのか?そのような者を大神様の御前(おんまえ)に進める訳にはいかぬ。ここで待っておれ」
 カツミもナツミも返す言葉がなかった。予断を許さない状況の中で意識の隅に追いやっていたが、確かに二人はタツミを(うしな)って忌中である。そんな状態で神前に進み出る訳にはいかないし、ここで無視してついていくのは、タツミに対してあまりに薄情な気もしてはばかられた。
 そのまま春日(かすが)の眷属たちは、タカシとリサとマサルを連れて屋外に出ていった。他の眷属たちの走り回る足音に混ざって、激しく水の流れるような音が聞こえている。
「あれは何だ?」外に出た途端、タカシが声を上げた。
 北の空、月明かりの下、水でできた一本のごく太い柱が立ち上っているのが見える。上空へと昇る湖水は、一定の高さまで上昇すると気圧の低下にともなって水蒸気となり、雲を形成しはじめていた。渦巻きながら時の経過とともに巨大化している。まだ月を隠すまでには至っていなかったが、それも時間の問題のように見えた。
「どうやら尾の(くさび)が破壊され、災厄の力が発現しているようだ」弥生の発する沈鬱な声。
「何ですって?」純粋に驚いたという声をマサルが上げた。
 タカシとリサにとっては、それまで災厄の恐ろしさを、さほど理解できていなかった。しかし、こんな力があるのなら、神々や眷属たちが始終気にしているのも(うなず)ける。ごく分かりやすく人智を超えた存在であることを認識した。
「だから、急いでいる。その娘を大神様の大前に引き連れなくては」
 弥生は先導して足早に社殿へと向かった。タカシたちも他の女眷属たちに促されてその後を追った。

 ――――――――――

 タマが激しい水流音と小刻みな地揺れを感じて開いた目に、(ほの)かに揺れるロウソクの灯りが映った。
「あ、起こしてしまいましたか?申し訳ありません」
 声が聞こえた。そちらに顔を向けると旅支度をし終え、今にも出立しようとしているヨリモの姿があった。
「何をしている?もう、夜明けか?」狐姿だったタマが人型に変化(へんげ)してから言った。
「いえ、まだ夜明けまでは時間があります。もう少しお休みください」(やり)を手に取りヨリモは立ち上がった。
「どこに行く?何かあったのか?」
「いえ、何も」そう言うヨリモの脳裏には先ほど見た不吉な夢の残像が色濃く居座っていた。もやもやとした不安が渦巻いている。だから一刻も早く旅立ち、八幡神とその眷属たちと会って、夢がただの夢だと確認して安心したかった。
 もとから眷属たちは“夢”というものを大変重視していた。普段、どの眷属も夢を見ることが少なかったために、なおさら重要視されていた。吉凶の予兆(よちょう)としてその夢の内容を仲間に明らかにしてその対処を検討し合った。外出する予定があっても不吉と思われる夢を見れば取りやめたし、一眷属の見た夢のために神議(かむはか)りが中止になったこともあった。それだけ夢をないがしろにしない彼ら眷属だったから、ヨリモとしてもジッとしていられなかった。
「ちょっと私は用事を思い出しましたので先に八幡宮に参ります。皆様は夜が明けてからごゆるりとお越しください」
 そう言うヨリモの姿をタマはじっと見つめた。何か違和感を感じていた。ヨリモは淀みなく言葉を発していたが、決してタマに視線を向けようとしない。外から聞こえる水流音や小刻みな地揺れも気にはなったが、それよりも尚、そんなヨリモの様子が気になってしょうがない。
「いや、待て。そなたは夜目が利かぬだろう。夜が明けてからでは遅いのか」
 ヨリモは一度、(まばた)きをした。そして静かに口を開いた。
「ええ、急ぎますので。それに夜道でも行燈(あんどん)がありますので大丈夫ですよ」
「それなら、我もともに行こう。その方が安心だろう」そう言いながら立ち上がるタマに向かってヨリモが首を(めぐ)らせた。
 タマの目にヨリモの瞳が見えた。潤んでいた。何か込み上げるものを抑えている、そんな表情をしていた。
「そなた、どうした?」タマは狼狽(ろうばい)した。そんなヨリモの表情など今まで見たことがない。他の眷属と比べても感情を面に出すことが少ないヨリモがこんな顔をするとは、これは何かあったのだろう、と思う方が自然に思えた。
「いえ、何も。私一人で行きます。ここで待っていてください」慌てて顔を(そむ)けながらヨリモは呟くように言い、そのまま玄関の扉を開いて外に出ていった。その頃には牛姿の蝸牛(かぎゅう)も起き、寝ぼけたような目で周囲を見渡していた。
 タマの心中は落ち着かなかった。昨夜からヨリモの様子はおかしかった。その原因が何なのか分からない。分からないが自分に対して妙によそよそしくなっていた。自分を避けるような素振りも見せていた。たぶん、自分がヨリモのことを特別に意識してしまったから、それを鋭敏に察して不快に思ったのだろう。そう思うと、後を追うことをためらった。たぶん、自分が追っていくことをヨリモは望んではいないだろう。
「タマ殿、いかがした?ヨリモ殿はどこに?」
 人型に変化した蝸牛の問いにタマは答えようと思ったが、言葉が出てこなかった。何か落ち着かない気持ちと空しい気持ちがない交ぜになって自分を包んでいた。どうしたらいいのか、自分でも分からない。こんなことは初めてだった。深く溜め息を吐く。すると、出ていったはずのヨリモが再び玄関から中に走り込んできた。
「みんな、起きて。外に来てください、早く」
 その慌てた様子に、とっさにタマは走り出し、蝸牛も続いた。
 屋外に出るとヨリモが夜空を見上げていた。タマと蝸牛もその視線を追った。その先に、湖面から伸びる太く長い一本の水の柱、そしてその先にどんよりと渦巻く、黒く巨大な雲の姿。
「何だ、あれは?」蝸牛は思わず呟いていた。こんなもの、見たこともなければ、聞いたこともない。異変などという生易しいものではない気がする。この郷に襲い掛かる凶事の予感、そのイメージが大きく膨らんでくる。これは自分たちではもう、どうしようもできない、太刀打ちなどできない、そんなことでしかない気がする。
「もしや、災厄が、解き放たれた……のか」タマも思わず呟いていた。三人とも呆然としてただ空を見つめていた。
 見ている間に、雲がどんどん大きくなっていく。渦が一回転する毎にますます成長していく。西の地平線へ傾いてく月もやがておおいつくされてしまいそうだった。ふと我に返ってタマが言う。
「今すぐ八幡宮に向かおう。何か大きな事態が起こる前にみんなと合流して善後策を練った方がいい」
 その言葉にヨリモはためらった。夢の光景がどうしても気になっていた。
「ダメです。みなさんは天満宮に戻ってください」
 タマを八幡宮の眷属と争わせたくない。自分が先に行って安全を確認してからでないとタマたちを行かせる訳にいかない。
「どうして?せっかくここまで来たのに。天満宮に戻るより、八幡宮に向かった方が早い」
 タマの当然の疑問にどう答えるか一瞬、ヨリモは悩んだ。が、観念した。分かってもらうには、もう、はっきり言うしかない。
「昨夜、夢を見ました。八幡宮の眷属とあなた方が争っている夢です。その原因も結果も分かりませんでしたが、みなさんの姿は消えていました。何か不吉な気がする夢でした。だから……私は八幡宮に戻ります。安全が確認できたら呼びにきます。それまで天満宮でお待ちください」ヨリモは、どうか分かって、と心中呟きながら言った。
 ヨリモはそのまま一人で出立しようとする。その背中を見ながら、タマは自分に問い掛けた。ヨリモの見た夢が正夢ではないとは言い切れない。それを理解した上で、自分がいったいどうしたいのか……
「ヨリモ、待ってくれ。我も行く」
 そう声を掛けられて、ヨリモは少し嬉しく、少し戸惑った。頭の中では更にその申し出を断るべきだと思った。しかし、心の中ではそれを甘んじて受けたいという気がしていた。そんな自らの気持ちを抑えつけながらヨリモは答えた。
「いけません。どうか、お戻りください」
 タマは走り寄ってヨリモの正面に回り込むと正対して言った。
「心配などいらぬ。昨夜、天満宮の眷属も先行してくれているし、我も八幡宮の眷属たちと争うつもりはない。もし万が一、そんな状況に(おちい)ったとしても、そなたの大切な仲間を傷つけるようなことはしない。約束する。我を信用してくれ」
 ヨリモは少しうつむいた。そして少し言うかどうか迷った末に、上目遣(うわめづか)いに視線を向けた。
「私は、あなたのことが、心配なのです」
 タマの身体が一瞬、カチンと固まった。ヨリモの視線、声の調子、その言葉、それらすべてを含めた全体の雰囲気が彼の瞳から入り全身に浸透して、一瞬にして、ただ目の前の存在を見つめること以外、すべての行動も思考も忘れさせた。
 視線を重ねたまま、二人は時が止まったかのような空間に身を置いている。相手の自分を思う気持ちが暖かく胸の中に染み込んでくる。このままいつまでも見つめ合っていたかった。そうすることだけが唯一の願いであるかのように。
 しかし、そんな二人の耳朶(じだ)に湖上から流れてくる不穏な音が迫ってくる。これから先、決して楽観視できるような状況は待っていないだろう。それならなおさら、離れたくない。
「我は」気分が高揚しているのがはっきりと分かる。どこかふわふわと浮遊しているようにも感じられる。周囲のすべてが視界に入らない。ただヨリモの姿だけが見える。
「我は、そなたと一緒にいたい」

 蝸牛は離れた場所に立って、そっと二人のことを微笑ましい思いで見守っていた。二人を包んでいる雰囲気がごく柔らかくなっていた。しばらくして二人が連れ立って彼の方に向かってきた。蝸牛の前に並び立つとタマが事情を説明した。蝸牛がどうするかは彼の判断に任せるつもりだった。
「無論、我もともに行く。何より、どう説得してもマガ殿が戻ろうとはせぬだろう。あの者の世話は人手がいるからな」
 分かった、とタマが答えてそのまま三人は、まだ眠っているのだろうマガのもとに向かった。予想通りマガは眠ったままだった。その姿は更に丸みを帯びているように見える。蝸牛とタマが起こしにかかったが、うん、うんと(うな)るばかりで少しも起きる様子を見せない。仕方がないので蝸牛が背負っていくと言って、タマの手を借りその背にマガを乗せて移動をはじめた。
 再び外に出るとタマはヨリモに向かって手を差し出した。
「ほら、引いてやる。今度は手を出せよ」
 少しドギマギしながらタマが言った。ヨリモは(ほお)がかつて経験したことがないほど上気していると感じた。
 そして、そっと自分の手を、タマの手に乗せた。
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