最終章七話 胸の中が暖かい

文字数 4,473文字

 地上に通じる隙間がどんどんと小さくなっていく。
 あと少し、ナミもタカシも高速で近づきながら思う。もう少しだけ開いていてくれ、願うように思う。その小さな明るい光に集中する。思わず息も止まる。あと少し……
 間もなくその光に達する。しかしタカシもナミもマズイと思った。このまま岩戸が閉まって、このまま飛んでいったら、確実に身体のどこかが岩肌に衝突してしまうし、最悪外に出られない。出られてもけっして無事では済まない。しかしもう止まれない。それだけの速度で飛んでいたし、ここで速度を落とせば間違いなく現世(うつしよ)に帰れなくなる。他に手がないからナミは最高速度のまま飛び続ける。しかし、磐座(いわくら)は閉まっていく。このままでは、と見る間にほんの一瞬だけ、磐座の動きが止まった。同時に、タカシは無意識に身体中から白い光を発して自分とナミの身体を固く包み込んだ。少しでも衝撃を和らげるために。

 リサは頭上に空いたわずかな隙間に視線を向けた。同時に、岩を削り、その小さな欠片を飛ばしながら白い塊がその隙間を脱けて現世に現れた。
 その白い塊は岩戸と接触したために、速度を削られそのまま地面へと弧を描きながら落下していく。奥宮社殿の向こう側、負傷して戦闘ができない眷属たちと伊弉諾命(いざなぎのみこと)分御霊(わけみたま)を乗せた御神輿(おみこし)を越えて、その更に向こう、林の中に墜落していった。

 衝撃が収まるとタカシは閉じていた目を開いた。
 自分が発していた白い膜が晴れていく。樹々の枝葉の上に黄昏時のぼんやりとした空が見える。その空がふと暗くなった。夕刻と夜の境が目に見えた。
 遠くでガゴンと完全に磐座が閉じた音がした。
 樹々に覆われ、自分が今どこにいるのか分からない。徐々に濃さを増していく闇の中、思考もぼんやりとしている。ここがあの世なのか、現世なのか、リサのいる地上へと帰れたのか、どうなのか、分からない。タカシははっと目を見開いた。そうだリサは、どこに?そう思っていると隣から、ううん、と声がした。そしてぼんやりと周囲の闇が、ピアスが発する白い光に押しやられた。
「どうやら、戻ってくることができたみたいね」ナミが上体を起こしながら言う。
「ああ、本当に今回はダメかと思ったよ。君のお蔭だ。ありがとう」タカシもゆっくりと上体を起こす。
「まあ、いいけど。あなたのその不幸体質、いい加減どうにかしてくれない。あなたに出会ってからもうダメだと思うことしかないんだけど」
「そうだね、なるべく気をつけるよ」
「本当に、頼んだわよ」
 二人がそんな会話をしている間に、がさがさと集団が近づいてくる音、そして松明(たいまつ)の灯りがわらわらと近寄ってきた。二人のもとにたどり着いた眷属たちは、よくぞ戻られた、よくやってくれた、感謝する、と口々に称賛の辞を述べた。
 その間もタカシは周囲を見渡す。リサは?人間の女のコは?と口にすると、眷属たちは磐座の方へ顔を向ける。その辺りにも松明の灯りはあるが、薄暗くてよく分からない。タカシはとっさに立ち上がり、緩やかな坂道を草叢(くさむら)を掻き分けながら降りていく。眷属たちは数人、タカシが歩きやすいように先導し、他は周りを囲んで進んだ。

 その間、クロウとコズミは御神輿の前で自身の仕える大神に復命の奉告をしていた。もちろん黄泉大神(よみのおおかみ)である伊弉冉命(いざなみのみこと)からの伝言も伝えた。
 ――そうか、そう言っておったか。
 心なしか和んだ、それでいてどこか寂しそうな声が御神輿から聞こえる。
「それから、お供え物をもう少しいいものにせよ、との仰せでございました」とクロウが奉告する。御神輿からの雰囲気が更に和んだ気がした。
 ――うむ、よかろう。そちたちに任せる。あの者たちが喜びそうなものを供えてやれ。
 はっ、とクロウとコズミが平伏すると伊弉諾命が続けた。
 ――磐座の上の森に桃の木がある。それはケガレを感じると実をつける霊木だ。これだけケガレが出てきたからにはかなりな数の実をつけていることだろう。その実を採ってきて(まが)の者に傷つけられた者に与えよ。さすれば禍が消え、傷は癒える。
「御意のままに」クロウとコズミはすぐさま飛び立っていった。

 磐座が閉じて、ケガレの流出はやんだが、周辺には大量の魑魅魍魎(ちみもうりょう)が残っていた。倒される前に隠れようと慌てて四方八方に移動していく。それをクレハや清瀧(きよたき)たちが駆除していくが、数が多くて対処しきれない。それを眺めていた玉兎(ぎょくと)がこれを最後と一気に息吹(いぶ)きを放ち、小さな風に細分化するとそれぞれを鋭く高速で魑魅魍魎たちに吹きつけ次々に裁断していった。
 やがて魑魅魍魎のすべてを駆除し終えると、玉兎は息吹きを納めた。さすがに疲れ果てていた。しかし地主神(じぬししん)としてこの郷を守り切ることができた達成感に満たされていた。そんな彼の背後から声がした。
「マガ、干からびた。もう力出ない。しばらく寝る。おやすみ」
 玉兎はマガがいる幸福を噛み締めた。もう二人きりになってしまった家族。残ってくれたマガの存在へ感謝の気持ちで胸の中が暖かい。
 そんな彼の眼前から全身、暗色に染まった民草(たみくさ)の娘がふらりふらりと歩いてきた。
 ケガレは身に着けば、その者の気を奪う。生きる気力を奪い、枯れさせる。それは眷属よりも人間において更に顕著であった。リサは洞窟内から噴き出すケガレを浴び続けていた。だから意識も朦朧として、想念もはっきりと結べなかった。前向きな思考もできず、悪いことばかりを考えてしまう。
 タカシが戻ってきたのか分からない。戻ってきていないのかも。さっきの白い塊は何?あれがタカシなの?生きているの?もしかしたら、もう……
 負の感情ばかりが湧き出してくる。いてもたってもいられない。気が焦る、とても寂しく、不安。どうにかしたい。タカシに会いたい。でも、彼は生きているの?確かめないと、早く確かめないと……
 一歩、一歩が重い。まっすぐ歩いているつもりでも身体がふらつく。どこ?タカシはどこ?白い塊が飛んで行った方へと言うことを聞かない身体を引きずって歩いていく。

 林を抜け、奥宮社殿前の広場に出るとタカシもリサを捜した。元気な状態のリサに会わない限り何も終わりにならない。嬉しそうに笑う彼女を目にすることでこれまでのすべてが報われるのだ。それだけを目指してここまでやってきたのだ。
 そして見つけた。全身を暗色に染め、乱れた髪の下、首を傾け、泥に汚れ血が滲んでいる白足袋(しろたび)を地に着け、身体を前後左右に揺らしながら自分の方へと歩いてくるリサの姿を。
 とっさにタカシは駆け出した。
 もうリサしか見えない。
 もう何の音も聞こえない。
 だんだんと近づくリサの姿、こっちを見て微笑んだ。
 安心したような微笑み、同時にふらりと前に傾いた。
 受け止めないと、俺が彼女を。
 思わず両手が前に出た。
 彼女を受け止めることしか考えられない。
 そのために身体中のすべてが動く。
 思考も、身体も、すべて。
 そして、彼の両手が彼女の身体を包み込んだ。
 タカシの胸に(ほお)を埋める。汗と泥と草とその他のいろんなものが混ざったにおいがする。けっしていいにおいではない。でも、彼の鼓動が、体温が伝わってくる。とても暖かい。何より安心する。他に比べようもないくらいの心地良さ。
 リサの身体から負の感情が蒸発するように消えていく。もう、寂しさも、不安もない。今、あるのは和んだ穏やかな幸福感。
「タカシ……おかえり」
 彼女を抱きしめる腕に力が入る。最大限に大切なものと触れ合える喜びと、心の底から希求することを達成できた喜びに満たされる。
「ただいま」
 言い終わって彼は更に彼女を抱きしめ続けた。二人の間だけ時間が止まったかのように、じっと動かずに抱きしめていた。
 二人の周囲には眷属たちが集まっていた。いくつもの松明の灯りがゆらぎながら二人をいつまでも照らしていた。

 その後、主だった眷属たちが集まって、短く善後策を話し合った。郷の村々は豪雨や洪水や地揺れで壊滅的な被害が生じている。多くの民草も帰幽(きゆう)してしまっている。眷属の数も大幅に減った。前途多難なことこの上ない状況ではあったが、郷の最大の懸念は解消された。誰の胸にも悲愴感があったが、希望もあった。まだ大神様はもちろん、眷属も、民草も残っている。またやり直すことができる。大丈夫だ、そんな気がしていた。
 続けて各社の代表眷属たちはタカシとリサ、そしてナミの前に居並び、代表してマコモが前に進み出た。その肩には三匹のハツカネズミの姿があった。
 豆吉と豆蔵と豆助は、災厄のもとへ向かうヨリモとともに行動していたが、途中、ヨリモの激しい動きに振り落とされたり、危険を感じたりでヨリモの身体から離れ、三匹固まって隠れていた。そこを熊野神社の眷属に見つかった。熊野神社の眷属はカラス姿に変化(へんげ)するとネズミが何より好物だった。だから後でおやつにしようとその三匹を捕まえていた。そして地上に戻って、思い出して懐から取り出したところをマコモに見つかった。
 マコモもこれまではその三匹のことを下賤な者と(さげす)んでいたが、今回の三匹の活躍を見たことで、この者たちも確かに眷属なのだ、それも同じ境内を共有する仲間、として認識するにいたった。だからその旨、伝えてもらい受けた。熊野の眷属もマコモに言われたらイヤとは言えない。
 大黒社(だいこくしゃ)の眷属たちは最初、マコモに対して警戒心しかなかった。またいじめられるのではないかと八幡宮の眷属に対する不信感をそのままマコモに向けていた。しかしマコモからは敵愾心(てきがいしん)は感じられない。しかも他の眷属たちも、クレハでさえもマコモとともにいる三匹に対して手を出すことができない。更には身体の大きいマコモの肩に乗るとたいていの眷属は見下ろすことができた。ちょっと気分がいい。だから彼らはマコモの肩に乗ったままでいた。
「この度はこの郷をお救いいただいたこと、衷心より感謝申し上げる。何かお礼をしたいと思うのだが、何か望みのものはないだろうか」
 マコモ、秘鍵(ひけん)飛梅(とびうめ)、玉兎、カツミ、サホ、マサル、クロウがじっと彼を見ていた。少し考えた後、タカシは並び立つリサの肩をガシッと掴んで声を出した。
「俺はもうすぐこの世界を出ていかなければならない。だから、残ったリサを、リサのお婆さんや妹を守ってほしいんだ。それはこの郷にとってもとても大切なことだから」
「そんなことで良ろしいのか?」思わず秘鍵が口を挟んだ。眷属が民草を守るのは当然のことだから。
「ああ、それが俺にとっての唯一の願いだ」
「分かった」マコモが答えると、あっそういえば、とタカシは大切なことを思い出してポケットに入れていたものを取り出した。
「これ、君たちに渡しておいた方がいいよな。最後の最後まで俺を助けてくれた。二人がいなかったら俺たちはここに戻ってこられなかった。本当に感謝している」
 マコモの開いた手のひらにタカシはそれを置いた。みなの視線が集中している。タカシが手を引くとそこには小指の先ほどの小さな(ぎょく)勾玉(まがたま)。微かに白く輝いている。
 タマ、と思わず秘鍵が呟いた。ヨリモ、とマコモが呟いた。
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