第一章二話 オオカミ様とキツネの群れ

文字数 4,144文字

 彼は恐怖から思わず叫び声を上げた。目を見開いた先の、大きく開かれたどろりとした空洞を凝視したまま。すると、視界の端に光が見えた、と思う間もなく眼前に(おお)(かぶ)さるように屹立(きつりつ)していたカエルの体内にその光がすっと入った。とたんに土気色の身体は液状化し、溶解して、たっぷりと水を(はら)んだ風船が突如割れたかのようにどしゃっと地に崩れ落ちた。そして、その身を構成していた液体は、そのまま吸い込まれるようにすうっと地面に染み込んでいった。タカシは前にいた世界から引きつづき全身真っ白い服を着ており、その服にも幾分か土気色の液体が掛かったものの、何ら湿り気もシミも残すことなく流れ落ち、地中へと消えていった。
 今の今まで眼前に確かに存在していた大きな生物の姿が跡形もなく消えた。小さな光が一つ、その体内に入り込んだことで消滅した。あまりのことに唖然と土気色が消えた空間を眺めていた彼の耳朶(じだ)にぼそぼそと(つぶや)くような声が流れてきた。
 ……祓へ(はらえ)(たま)へ 清め給へ 守り給へ 幸へ(さきわえ)給へ……
 彼は声の聞こえる自らの右横を向いた。そこにはぼうっと(たたず)む白い光。その光から手が伸び、何度か異形の生き物が消えていった地の上に差し出された。その度に、白く(きら)めく粉状の光が、きらきらと宙に舞い、地に着くと淡雪のように溶けて消えた。
 彼の傍らにいた大きな光は遠慮なく照りつける陽光の中でも白色をまとうように輝いていたが、次第に少しずつその色を落としていった。するとそこにぼんやりと浮かんでくる人の姿。それはえんじ色の装束(しょうぞく)を着、烏帽子(えぼし)を被り、浅黄色(あさぎいろ)(はかま)をはいた少年のように見えた。
「こんな大きなものまで……」
 袴姿の少年は、そう(つぶや)くと彼に一瞥(いちべつ)を向けた。そして(きびす)を返すと、そのままそそくさと歩いて去っていった。タカシは慌てて立ち上がり少年が向かった先に視線を向けた。そのとたん、鼻先に一粒の水滴。
 雨?陽光は変わらずぎらついている。しかし、割り込んでくるように雨粒がざあっと音を立てて一斉に降りはじめた。それほど強い降り方ではなかったが、傘は必要だなと思われる程度には降っていた。もちろん、傘の持ち合わせなどない彼は仕方なくそのまま少年が向かった方へと駆けていった。
 少年はそれまでタカシが歩いてきた道のすぐ横に(あぜ)を挟んで沿うように伸びている道に移動した。タカシはそんな道があったことにそれまでまったく気づいていなかった。あまりの暑さに意識が朦朧(もうろう)としていたとしてもこんなに近くにある道に気づかないなんて、と(いぶかし)りながらもタカシも後につづこうとしたが、そちらの道が雨のためかはっきりと見えない。どこから渡って行けばいいのか分からなかった。だから、今いる道の上を、それまで来た道を戻るように駆けて少年の背を追った。少年は、しばらく足早に進んでから足を止めた。周りにはまだ雨が降り続いていたが、少年が立ち止まった場所に雨は降っていない。
大神(おおかみ)様の大前(おおまえ)(かし)こみ恐こみて(もう)さく。この道の先に民草(たみくさ)に災いなさんとする背の高き(まが)い者あり。(かれ)、祓い白し、清め白して汚き事なくして、(すが)し清しと白す」
 少年が向かった先には、烏帽子白丁(はくちょう)姿の細面の男たちが集っていた。その男たちの群れの上には一基の大きな御輿(みこし)。そして周囲には白毛を陽に輝かせている何匹かのすらりとした体躯の動物が護衛をするように取り囲んでいた。見るからに尋常ではない怪しげな雰囲気が漂っている。しかし、斜め後方から、少年が御輿の前でうやうやしく奏上する様を見届けると意を決してタカシは声を掛けた。
「あの、先ほどは助けていただいて、ありがとうございました。不躾(ぶしつけ)とは思いますが、いろいろと訊きたいことがありまして、少しお時間をいただけませんか」
 相手はもちろん人ではないだろう。ただ、先ほどの少年が、意味不明ではあるが、言葉を発しているようなので、話ができる可能性はありそうだと思いながらの声掛けだった。
 タカシの声が行列に達したとたん、それまで御輿を中心に漂っていた厳粛な雰囲気が一気に揺れ動いて亀裂を発した。
「我らの姿が見えるのか?」少年がとっさに振り返り、驚きの声を上げた。同時に行列の周囲にいた獣たちが一斉に態勢を低くしてすぐにでも飛び掛かれるような姿勢で威嚇(いかく)をはじめた。その顔は鼻梁(びりょう)部分から前面に大きく細長く張り出し、大きな口と大きな耳が付随していた。そして後ろ足の間には豊かな毛に(おお)われた大きな尾、まごうことなきキツネに見える。
「ええ、見えます。はっきりと」そうタカシが答えたとたん、御輿行列の一団がざわついた。
「見えるのならば、大神様の御前(おんまえ)である。頭を低くせよ」御神輿(おみこし)の脇から行列の中の一人が少年の横まで移動しながら言った。その身にまとっている装束は他とは違い、白地ではなく光沢のある黒地に染められており、履いている袴は紫色だった。威厳の漂う立ち姿、確認しなくてもこの集団を取りまとめる地位の者だと分かる。
 タカシは言われるままに少し頭を下げて、上目づかいに御神輿の前面を見つめた。オオカミ様?狼様?
 御神輿の前面には御簾(みす)が下りており、中の様子はうかがえない。たた、内部に灯りがあるようで、うっすらと中にいる人の輪郭(りんかく)だけが透けて見えていた。
(なんじ)、どこの村の何奴だ。(つつし)みて白せ」
 浅黄袴の少年が背筋を伸ばしながら口を開いていた。幼さの残る色白な面差(おもざ)しに努めて威厳を保とうという意志が見て取れ、少し滑稽に思えた。
「私は、外の世界から来ました凪瀬(なぎせ)タカシです」
「外の世界?この辺りの者ではないという意味か?()つ国から来たと言うことか?」
「はい、こことはまったく別の世界からきました」
「何をなすためにこの村にきた?なぜ我々の姿が見える?」
「ちょっと待ってください。私は名乗りました。質問をする前に、皆さんが何者か教えてもらえませんか」
 行列の一団がざわついた。即座に黒色の装束を着た男が口を開いた。静かな声音だっったが、周囲に緊張感を走らせる重量を伴った口調だった。
「大神様の御前だ。僭越(せんえつ)であるぞ。謹しみ恐こめ」
 タカシは思わず威圧された。しかし、この世界に関してまだ何にも分かっていない現状、少しずつでも理解していくためには、些細(ささい)な情報でも得られれば、という思いもあった。
「オオカミ様?オオカミって、あのイヌ科の動物の?皆さんの周りにいるのは狐に見えますが、狼なんですか?」
 一瞬、その御神輿に随行していたすべての者たちの動きが止まった。タカシは自分が場違いな発言をしてしまったことを察した。慌てて自分の言葉を打ち消そうとしたそのとたん、輿の中の灯りが微かに明るくなり、そして遥か遠くから響いてくるような声が聞こえた。
 ――宝珠(ほうじゅ)
 その声が耳に届いた瞬間、黒装束の男が、はっ、と声を発して、すぐさま御神輿の前に進み出て平伏(へいふく)した。
 それから少しの間、輿の中の人物と宝珠と呼ばれた男は何か会話をしていた。ただ、周囲に聞こえるのは宝珠の短く答える声ばかりで、輿の中から発せられる声は聞こえず、話の内容は分からなかった。
 やがて宝珠が、(かしこ)まりました、と言い終わり、少し頭を下げたまま後ずさったかと思うと、次の瞬間には、タカシの目の前に直立していた。
「大神様がそなたの拝謁(はいえつ)を許されるそうだ。我らに随行(ずいこう)せよ。奏上(そうじょう)せしことがあるならお(やしろ)で受け給う、との(おお)せである」
 そう言い終わると、宝珠はタカシの返答も聞かずに踵を返して御神輿の脇まで戻っていった。戻りながら、少年に視線を向けて告げた。
「タマ。汝、その民草に付き添い、道すがら大神様のことを教え(さと)せ。その民草には我らの言の葉は難しかろうから、若い汝が分かるように教え示せ、よいな」
 はっ、と少し頭を下げつつ返答すると、少年はタカシに視線を向けた。何だか不満そうな顔をしている。そんな視線を浴びつつも、タカシは宝珠が通った後をついて行き、彼らのいる道に移動した。その道は舗装されてはいなかったが、整地はちゃんとされているようで、少しの凹凸さえも足裏に感じることはなかった。
 少年以外の随行員たちは、行列を組み直し、平行式エスカレーターに乗っているかのように、一切の上下の揺れもなく滑るように、粛々(しゅくしゅく)と進行をはじめた。ついてこい、という少年の言葉でタカシは、列の最後尾に少年と並んでついた。
「君はタマって名前なんだね」歩きはじめてタカシがすぐ少年に声を掛ける。タマと呼ばれた少年はそれには答えずに別のことを話しはじめた。
「オオカミ様とは、大いなる神様という意味だ。けっして獣の狼ではない」
 タマはかろうじてタカシにだけ聞こえるくらいの小声を発していた。タカシもつられて小声で話す。
「あ、そうなんだ。というか神様?あの御神輿に乗っている方が?もしかしてお稲荷様?」
「ああ、そうだ。稲荷大明神様だ。よく分かったな」
「いや、周りに狐がいたから。お稲荷様って狐の神様なんだよね」
 タマは、はあ?と言いたげな、怒ったような(あき)れたような表情を見せたが、(つと)めて冷静に返答した。
「大神様は狐ではない。稲の御霊(みたま)の神様であり、五穀豊穣の神様だ」
「稲の御霊?」
「ああ、それにご尊名(そんめい)も稲荷ではない。それはお社の名であり、大神様の通称だ。本当の御名(みな)は“宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)”であらせられる。これからはそう申し(たた)えるがよい」
「ウカノ・・・」
「ウカノミタマノオオカミ」
「ウカノミタマノオオカミ・・・うん、分かったよ」
「それから、我らも狐ではない。狐風な姿にもなれる大神様の使いだと思ってくれ。そなたたち民草が我らと狐を結びつけてしまったから、長い年月の間で我らもそれに順応してしまったのだ。我ら神の使いたる眷属は大神様と民草の間にいる者。民草からも多少影響を受けるのだ」
「たみくさ?」
「そなたたち人間のことだ。青人草(あおひとくさ)とか国民(くにたみ)などとも言う。この郷では民草とみんな呼ぶ」
「へえ、そうなんだ。それで、この行列はどこに向かっているんだい?」
「あそこだ。大神様のお社である宇賀稲荷神社(うがいなりじんじゃ)だ」
 そう言いながら少年が指さした先に視線を向けた。彼らが進んでいる道の先にある山の(ふもと)、民家が並んでいるその奥に大きな朱色の建造物の一部が見えた。それが鳥居なのだろうことは、あまり神社に馴染みのないタカシでも当然のように分かった。
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