第八章十話 足手まといの奮迅

文字数 5,236文字

 タカシたち、三輪神社(みわじんじゃ)を出発した一行は、しばらくの後、東野村(とうのむら)との境を越えた。
 それまでの道のりは、タカシには思った以上に苦心惨憺(くしんさんたん)なものだった。目的地まで迅速に移動しようと蛇道を遠慮なく突き進むナツミにマサルや、リサを背に乗せた鹿姿のロクメイは難なく続く。足元の悪い林の中、タカシは(またた)く間に眷属たちから遅れていった。
 ナツミとしてはリサを守らねばならない、という使命感もあり、後方をまったく気にしなかった訳ではなかったが、ふと気を許すと、敬愛する兄を亡くしたという哀惜(あいせき)が込み上げてくる。それを何とか振り払おうと心中葛藤(かっとう)するうちに思わず早足になっていた。
 更にタカシと眷属たちの間が離れていく。蛇道は基本、林の中か草むらの中。大抵、地面が見えない。だから一歩々々慎重に足を踏み出さないといけない。石や折れた木の枝や浮き出た根が、いたる所で多少なりとも傾斜を足裏に与えていた。加えて足首につる草が絡まってくる。足を出すたび転びかけ、何度かは実際に転んだし、度々、足首を(ひね)っていた。すでに両足首ともに痛みを抱えている。肌を露出している手や首筋は気づかないうちに生傷だらけになっている。あらかた日陰を進んではいたが、陽が中天に差し掛かっている現状、容赦のない湿度と気温は(いちじる)しく彼の体力を奪っていく。
 一方、リサは、思ったより遥かに揺れる乗鹿体験にただ耐えていた。
 雄鹿の背は乗馬ほどの高さはない。それでも幼いリサにとっては思ったより高く、動き出すともう怖さしかなかった。更にロクメイが足元の障害物を避けようと軽く跳ねる度に、耐え切れずに思わず叫び声を上げていた。
 ロクメイの背負う(くら)には革製のあぶみが着いていたが手綱(たづな)はなく、鞍の先端に突起があり、それを掴んで身体を安定させるつくりだった。恐らく片手でその突起を掴み片手で剣を振るえるように、そんな作りにしたのだろう。その突起をリサは両手でしっかりと握りしめていた。あまりに両手に力を入れ過ぎて、だんだんと腕の感覚がなくなっていく。
 そんな状態でも後方にいるはずのタカシの様子が気になっていた。リサとしては正直、まだ自分と行動をともにすることになったこの眷属たちのことは信用しきれていない。悪い人たちではないのかしらとは思いつつも、得体が知れないし、何より自分の性格のせいでまだ、まったく打ち解けられてはいなかった。ただ、タカシに対してだけは、それほど打ち解けた訳ではないが、ともにいると安堵感がある。一緒にいたいという気持ちが胸の中に確かにある。この訳が分からない状況の中で唯一の身を寄せるべき存在、寄る辺もない大海を飛ぶ渡り鳥が見つけた、青々と木々を茂らせた小島のような存在に思える。だから、ロクメイのひとしきりの跳躍が終わると、ふと後ろを振り返った。あれ?そこにはタカシの姿はなかった。よくよく見渡してみると遠く後方の草むらの中からひょこっと立ち上がる姿が見えた。どうやら転んでいたみたい。
「ちょっと、待って。凪瀬(なぎせ)さんがまだ来てない。ここで待ってあげて」リサは思わず大きく声を張り上げていた。
 正直、眷属たちにとってタカシの存在は考慮の外だった。所詮(しょせん)()(しろ)となり()る娘の付属、お付きの者だ。ついてくるならそれでいい。ついてこれないなら置いていくのもしょうがない、くらいに思っていた。だからリサが声を上げても、眷属たちは率先(そっせん)して足を止めようとはしなかった。
「ついてこれないひとを待ってたら日が暮れる。うちらは先に行くわよ」ナツミが億劫(おっくう)そうに言い放つ。近くにいたマサルも特に声を上げないことで同意を示す。
「それはダメ。あたしはここで待つから。先に行くならあなたたちだけで行って」とっさにそう言いつつリサはロクメイの背中から降りようとした。しかし、ロクメイは足を止めてくれない。なかなか降りようとしても降りられなかった。
「おっと、危ないですよ」と言いつつマサルが後ろから手を貸そうとした。その様子を見ながら仕方なさげに再度ナツミが声を発した。
「分かったわよ。あなたが行かないなら、うちらも行けない。ここであの男を待つわ」
 そうしてリサたちはタカシの到着を待った。そんなみんなの姿を目にしてタカシは一人置いてけぼりにされずに済んだという少しの安堵感と、自分がリサたちの行動に支障を与えている、ただの足手まといでしかないことを自覚して、暗澹(あんたん)たる思いを抱いていた。
 それから一行は臥龍川(がりゅうがわ)を渡った。
 ナツミは川面を滑るように渡った。マサルは薙刀(なぎなた)を片手に持ったまま器用に泳ぎ渡り、ロクメイはリサを背負った鹿姿のまま対岸に渡った。リサは両足を上げて水を避けたが、それでも全身かなり濡れてしまった。
 続いて、タカシも何とか遅れまいと服を着たまま泳ぎはじめたがこれが思った以上に泳ぎづらい。服が肌に貼りつき手足の動きを抑制し、水の抵抗も大きくなり少しも前に進まない、何とか浮かんでいるだけで精一杯だった。しばらくどうにかもがいていたが、対岸でその様子を眺めていたナツミが仕方なく川面を駆け寄り、タカシの手を掴んでそのまま対岸へと引っ張っていった。
 暑気が辺りを包んでいるためにリサの服はすぐに乾いたが、タカシの服はあまりにもずぶ濡れで、いつまでも乾かずに水がしたたり落ちている。しかし一行はそんなことには感知せずすぐに先を急いでいく。
 足を伝う水滴が靴の中に溜まり、何度脱いで排出しても歩くたびに、がっぽがっぽと音を立てる。その音を聞きながらタカシは自分自身に対して嫌気(いやけ)がさしていた。
 情けない。みんなに迷惑をかけてばっかりだ。ただ、移動しているだけ、それなのに。もっと考えろ。ちゃんとこれからどう状況が展開していくのか考えて事前に対処しろ。それに、怖がるな。慎重に足を踏み出してばかりではいつまで経っても追いつけない。恐れを忘れろ。痛みを忘れろ。ただ、リサとともにいることだけを考えろ。
 タカシの脳裏に今に至る五年間の記憶の断片が浮かんでくる。
 五年間、ただ、もう一度会うことだけを願い続けた。
 そして、やっと出会えた。やっと一緒にいる条件が整った。だから、もう離れられない。離れる訳にはいかない。
 リサたちからまた遅れ出していた。タカシは意を決した。そして走り出した。
 濡れた服が重い。水を含んだ靴では走りづらい。何かを踏みつける。足首が激しく曲がる。そのまま倒れ込む。身体を打ちつける。低木の枝葉や枯れ枝が肌を引っかき、突いてくる。草の陰に隠れていた大きな石に脇腹を打ちつける。身体中に衝撃が走る。すぐに痛みが全身を駆け巡るだろう、しかしタカシはすぐに起き上がり、感じる前に走り出した。
 足元は見ない。
 ただ前を向いて。
 その先にいるリサを追いかける。
 どこまで行っても障害物だらけ。足元には彼を転倒させるには充分なほどの起伏や傾斜。絶妙に走りづらさを演出する枝葉の群れ。リサはちょくちょくとこちらを気にして眷属たちにも声を掛け、その度に少し速度が落ちるが、しばらくするとまた先に遠ざかっていく。歯を喰いしばって後を追う。
 何度も転倒し、その度にすぐ立ち上がり、再び走りはじめる。痛覚を抑制し、怖れを封印し、前だけ向いてただ、走る。
 何度目かに転倒した時、地に横顔を打ちつけた。衝撃に備えて固く閉じた目を開くと、そこには自分の頭と変わらぬ大きさの土気色の塊。どろんと存在してぬらりと動いていた。そして突然、彼に襲い掛かった。とっさに半身を起こしながら左腕を上げて受け止める。大口を開けた禍い者は彼のヒジの下に食らいつき、そのまま少しずつ腕の上下に広がっていく。彼は激しく腕を振り、右手で押しやり払おうとしたが、(まが)い者は動こうとしない。それどころか少しずつ食らいつく範囲を広げようともぞもぞ動いている。
 そんな状態でも痛みはない。しかし、何かを吸い取られているかのように、段々と腕の感覚が鈍っていく。どうしたものかと悩んだが、そうしている間にも先にいるリサたちの姿が見る間に遠ざかっていく。仕方なく彼は禍い者をそのままに再び走りだした。足をくじき、何度も転倒しながら。
 ロクメイの背に揺られることにもだいぶ慣れてきたリサは度々、背後に視線を向けていた。彼女の目に映るタカシの姿は小さかった。でも、激しく揺れ、見え隠れしながらもどこまでもついてくる。そんな姿を見たことがある。リサは、はっきりとした記憶がないままに、そう感じた。あの人は前にもきっと、こうして自分に向かって、一心不乱に駆けてきた。あたしはそのことを知っている。思い出せないけど知っている。リサは胸の中が妙に暖かくなる感覚を抱いた。そのぬくもりが込み上げてきて目から滲み出てくる。
「止まって、待って。お願い、止まって」思わず声が漏れてくる。次第に大きくなりながら。
「あの男が気になりますか。でも人間が眷属の足に追いつくのはどだい無理な話です。諦めた方が彼のためですよ。これ以上、ついてきても怪我するだけでしょう」
 リサの横についていたマサルは彼女の訴えに、そう応じた。そしてどうせ、あの民草(たみくさ)はもう見えないくらいに離れてしまっているだろう、と予想しつつ振り返った。
 案外と近くにいた。しっかりとその姿が視認できるくらいに近い。少し見ていると、ついてくるどころか少しずつ追いついているようだった。マサルは思わず立ち止まった。
 もとは白かったワイシャツが汗で肌に貼りつき、泥や葉の汁や雑多なものの色素で形容しがたい薄汚れた色に染まっている。シャツもズボンも所々破けて、身体中、擦りむいて血が滲んでいる。足取りは重く、気持ちだけで身体を進めているように見える。それでも気力を振り絞って走り出す。そして転倒する。前方に傾斜していたためそのまま転がり落ちていく。そしてまた立ち上がり、歩きはじめる。驚いた、とマサルは思わず心中で呟いた。何たる執念だろう。何が彼をそうまでさせているのだろうか。そして思わずタカシのもとまで駆け寄っていった。
「我が大神様は山の神。我らはこんな林の中など比べものにならぬ山中の悪路を日々通っています。そなた、我の後に続いて我と同じように歩きなさい。少しは歩きやすいでしょう」
 タカシの腕の禍い者を薙刀の柄で叩き落してからそう言うと、マサルは先導して歩きはじめた。
 言われた通りにマサルの歩いた後を同じようにタカシは歩いてみた。確かに先ほどまでより格段に歩きやすい。何より確実に足裏が地を踏みしめることができるのは助かった。
 彼が何とかマサルに遅れないように歩いている間、前方ではリサたちがその到着を待っていた。リサは心配そうな顔つきをしてタカシの姿を眺めている。ナツミは、ほう、という顔つきをして静かにその様子に目を向けていたが、タカシたちがたどり着くと口を開いた。
「よく、うちらに追いついたな。目的地はもうすぐだ。ただ、前方に眷属たちの集団がいる。恐らく春日明神(かすがみょうじん)の眷属だ」
 先を見つめるが、何も見えない。ただ、林が延々と続いているだけだった。
「春日の眷属は、我らの邪魔をする。たぶんこのまま行ってもまた邪魔をされるだろう。しかし、あいつらの近くに我が兄がいる。そして禍津神(まがつかみ)もいるはず。そこに娘の妹もいるだろう。どうする?このまま行くか」
 ナツミはこれから一行がどう行動するか、それぞれの考えと覚悟を問うように声を出した。
 ロクメイは鹿姿なので声が出せなかったがナツミにじっと顔を向けてから頷いた。
「春日の眷属も禍津神も難敵ですが、そなたたちが行くなら我はためらうことはありません。一度失いかけたこの身です。好きなように使ってください」とマサルは生真面目さが滲み出るような表情をして言った。
「娘、そなたはどうする?うちらはそなたを守らないといけない。そなたが行くならみんな行く。どうするか決めて」
 そのナツミの声にリサは躊躇(ちゅうちょ)した。これから何が起こるのか、予想もできないのに判断のしようがない。彼女としては、ひとの行動に影響を与えるような決断を軽々しくできない性分だったから、どうする、と訊かれても困惑するしかなかった。すると、(なご)んだ声が聞こえた。乱れた髪の下に、汗と泥にまみれて薄汚れていたが、(ほが)らかに微笑む顔があった。
「リサ、君がしたいと思うことを言ってよ。それをどうしたら実現できるかみんなで考えよう。難しく考えないで。今、したいことを聞かせて」
 そのタカシの声を聞くとリサはふと(しゃべ)りたい気分になった。自分の思いを、気持ちを話したい。そんな欲求が湧いてくる。とても不思議な感覚。
「あたしは、マコを助けないといけない。だからマコのいる所にいきたい」
 そこにいる眷属たちは心中に緊張感を抱いた。同時に、自らの行くべき道筋が示されたことで覚悟が腹中に収まり、逆に清々しささえ感じていた。どんな状況になろうと、精一杯やるべきことを行うだけ、そんな(なお)き思いに染まっていた。
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