第十二章五話 一陣の風となり

文字数 4,597文字

 離れた所で何人か人が集まっている気配を感じる。誰か男の声もした。
 長い時間、座り込んで思考を停止していたナツミがふと我に返った。そして首を巡らせ、声のした方を向いた。
 白いマントが見える。その向こうには湖畔で会った霊体の女。そして男が一人。更にその奥に、白衣に緋袴(ひばかま)姿の一人の若い民草(たみくさ)の女。あれは、()(しろ)の娘。そう思ったとたん、長兄であるタツミの声が脳裏に蘇ってきた。
“ナツミ、カツミとともにこの娘を守護せよ。また他の神々に協力を仰げ。この娘はこの郷に鎮座するすべての神々と眷属によって守られなければならない。よいな”
 ナツミは目を閉じたまま上を向き、大きく息を吸った。そうだ、うちにはまだしないといけないことがあった。兄様もカツミもいなくなっちゃたけど、だからこそ、うちがしないと。あの娘を守らないと、そして他の神々や眷属にも認めさせる。こんな所で呆けている場合じゃない。そしてカッと目を開いた。

「マコ?大丈夫?」と言いながらナミはばたりと地に倒れたマコに駆け寄った。そしておおい被さるようにしてその顔を見つめてはっとした。魂が抜けている。マコはもう……、グッと歯を喰いしばった。その様子を、如月(きさらぎ)を警戒しつつも肩越しに見て、ルイス・バーネットも事態を察した。来るのが遅かったか……。

 その時、リサは自分に流入してきた、様々な感情に抗っていた。
 欲望、羨望、卑屈、嫉妬、悲嘆、屈辱、憤慨……数限りない感情の粒。それぞれに動き回りながら次々に()を描いていく。
 奸計、没落、絞殺、刺殺、撲殺、斬殺、殺戮……誰かが誰かを(ねた)む、(うら)む、嫌う。誰かが胸の内に殺意を宿す。誰かが誰かを殺す。大勢が大勢を殺す。
 目を背けたくなる衝撃的な画。とてもリアルに描かれる。血は生々しく、傷は痛々しく、絵面(えづら)はどこまでも寒々しく、殺伐としている。
 感情が昂って発汗することにより生じた体臭や周囲を鮮烈に染める血の生温かい臭いが漂ってくる。
 興奮した人々の叫び、不気味な呻き声、悲鳴、慟哭……聞いているだけで悲痛に感じられる、人間の発する苦しみの音たち。
 自らの内で、彼女はどんどん後退(あとずさ)った。怖くて、不安で、目を背けたくて、周囲のすべてを嫌悪する。すぐにも遠ざかりたかった。でも、逃れられない。どこまで行っても、いくら目を閉じても、鼻をつまんでも、耳を塞いでも、それらはすぐそこにあった。
 たまらなく不快。自分の中が嫌悪すべき凄惨な画で埋め尽くされていく。もうすぐ自分よりも大きくなっていく。すぐにすべてがおおわれてしまう。だから、そうなる前に……

「ナミ……さん」
 悔恨(かいこん)の念に包まれているナミの頭上から声が聞こえた。とっさに顔を向けるとリサの視線と重なった。先ほどまで、呆然として焦点があってなかったが今はしっかりと彼女のことを見ている。
「いったい何があったの?どういうこと?マコが、もうマコは……」
 苦痛に(さいな)まれた顔つきをしているリサに、ナミが静かに言う。ただ、リサにはその問いに答える余裕はないようだった。自分の言うべきことを口にする、それだけに集中しているようだった。
「マコを、助けて……」
「もう、無理よ……マコは、もう、いない」ナミも沈鬱な表情をして言った。
「まだ、大丈夫……マコは……」
 ナミは怪訝(けげん)な表情を向けた。妹を亡くしたことを認めたくない、その気持ちはよく分かる。でも、事実としてここに魂の抜けた(むくろ)が一体ある。もう、どうしようもない。
「マコは……黄泉(よみ)の国にいる」
 そのことをリサも今、知った。大量に流れ込んでくる災厄の分御霊(わけみたま)、それにおおわれ次第に染められ、徐々に一体化していく中で、彼女は災厄のことを知った。
 数々の嫌悪すべき画は、人々の歴史の中で繰り返されてきた現実。その感情、その呻き声、その叫び声、その血を糧にして災厄は成長した。そんな嫌悪すべき歴史の集合体として存在したのだ。それは、長年、積み重ねられた記憶の山並み。そんな記憶の末端にマコがいた。災厄の分御霊により自らの身体から弾き出されたマコの魂、それは黄泉の国へと行く、そう災厄の記憶が言う。ただの現実に起こった出来事として。
「黄泉の国?何それ?詳しく話して」
 その時にはリサの目はまたあらぬ方向を向いていた。焦点もあっていない。次第にうつむき加減になり、やがてがくりとうなだれ、そのまま動かなくなった。

 その様子を見ながら如月は焦っていた。間もなく災厄の分御霊の遷霊(せんれい)が終わる。そうなれば、我ではもう対抗できぬだろう。今が最後の機会……
 如月の手が微かにピクリと動いた。えっ、もう?と警戒していたルイス・バーネットは驚いた。まだ数分しか経っていない。通常、いくら精神力の強い者でも十数分は命じの効力は持続するものだった。何て精神力だ。これは今一度、命じておいた方がよいな、と思いつつ、再び命じようとした。その瞬間、如月は剣の柄を握っている両手に全神経を集中して、力づくで何とか指を開いた。地に二本の剣が金属音を響かせながら落ちた。
「待て」口はまだ動きづらかったが、如月は何とか声を出した。
 もう、命じを破った。とルイス・バーネットは目を丸くした。しかし、徐々に相手の両手のひらがこちらに向いて開かれる。その無抵抗を示す意思表示に、彼は全身の警戒を少し緩めた。
 その隙を如月は見逃さない。正直、この男には驚いていた。まさか言霊(ことだま)を使えるとは思わなかった。何だ、こやつは、外津国(とつくに)の神か?正攻法で突破しようとしてもまた動けなくされるだけだろう、それなら。そう如月が思った瞬間、身体の前に開いた両手のひらが小さく光った。
 次の瞬間、バチンという衝撃音を立てながら閃光が、如月の手から発してルイス・バーネットの身体を貫いた。
 閃光は一瞬にしてやんだ。そして後にはゆっくりと後ろ向きに倒れるルイス・バーネットの姿があった。
「ヒフミ」と思わず叫ぶナミの視線の先で如月がゆっくりと動きはじめた。くっそー、なるべくこの力は使いたくなかったのよね、と思いつつ屈んで剣を手に取る。
 この力は春日神社(かすがじんじゃ)(まつ)られる三神のうちの一柱、雷神である建御雷神(たけみかづちのかみ)に由来する力だった。他の眷属にはない彼女特有の能力。そもそも殺傷能力は高くなかったが、難敵に遭遇した場合、相手を失神させたり、動けなくさせる程度の力はあった。それにより、無抵抗になった相手を剣で滅することができる。ただ、彼女はこの力をあまり多用したがらない。連続して使えないこともあったが、何より使用する力が大きい分、使う度に彼女の見た目の若さを維持している力が削られる。一度使えば十歳程度は一気に老けて見えてしまう。一度そうなってしまうと回復まで時間が掛かる。彼女としてはそれはなるべく避けたいことだった。
 しかし、今回はそんなことを言っていられない事態。何としても依り代の娘をこの場で倒さねばならない。もう、身体は大丈夫、動く。如月は一度、屈み込んで、そして一気に跳んでリサの上空に達して一気に斬り伏せる、つもりだった。しかし、跳ぼうとしたその矢先、足に違和感。動かない。と思ったとたんに、彼女の足元から螺旋状に身体に巻きつきながら何かが上がってきた。驚いた如月が下を向くとそこに朱色の大きな蛇の顔。鋭い牙を見せながら大口を開けている。(またた)く間に如月は、朱色の蛇体に全身すっかり拘束されてしまった。

 ――――――――――

 恵那彦命(えなひこのみこと)は自らの鎮まる社の境内(けいだい)でむくりと起き上がった。
 リサの身体に()ぎ奉られた分御霊が戻ってきて、やっと身体を動かすことができた。
 周囲を見渡す。結界を張っていたお蔭で(まが)い者もおらず、平穏そのもの。ただ、すぐそこには無残に破壊された社殿の残骸。ただ小さな本殿だけがちょこんと残っていた。
 少しずつ身体の感覚が戻り、頭がはっきりしてきた。
“あの娘に災厄の分御霊が憑依した。これより災厄本体のもとへ向かうだろう。そして、災厄のすべてをあの娘が宿すことになる。そうなったら、災厄はどうするだろう。八幡大神が画策するようにこの郷に災い成さず、他の地へと去っていくのだろうか?そんなこと有り得るのだろうか。災厄にとってみれば長年閉じ込められたこの郷の存在を許すだろうか。この郷は災厄を幽閉するには最適な地、そう卜占(うらない)で示されたそうだ。再び幽閉されることがないようにそんな地は跡形もなく消し去ってしまおうとするのではないか。とにかくそばにいて見届けないといけない。あの娘がどうなるかによっては、我の力が必要になるかもしれない”
 恵那彦命は決心した。自分は郷の中心に向かう。分御霊ではなく自分自身で行く。
 基本的に土地神は自分の管轄する地域から外へ出ることができない。もし、出る時は本体はそのままで分御霊を出す。しかし、それでは恐らく力不足だろう。この郷のために災厄と対峙することになるのなら、本体が出向くしかない。そのためには、この地との縁を切らねばならない。
 土地神は、その土地に深く根差し、その土地に強く影響を与える。その土地との縁を切るためにはその根を断ち切らねばならない。
 恵那彦命は本殿を見つめた。それが、この土地との縁であり、根であった。長い時の中で、培ってきた民草との繋がり、四季折々に色彩を変化させる山々や自然、恵那彦命の脳裏に次々に浮かび上がってきた。我はこの土地が好きだ、と改めて思う。のんびりとした時の流れる穏やかな土地。そこを離れる時がくるなど思いもしなかった。しかし、たぶん今、我が動かなければこの郷ともどもこの村も消滅する。
 祓いの神として、数多(あまた)の災い成す者たちを祓いやってきた。どの者も狡猾(こうかつ)で情け容赦なかった。きっと、災厄も我らに情けなど向けないだろう。我は行かねばならない。
 す―――っと長く、とても長く息を吸った。そしてそのすべてを一気に息吹(いぶ)き放った。
 本殿は一瞬にして破壊され、建材はばらばらに砕かれ、裏の森の中へと飛んでいった。そして、ふと眼前に胴鏡が浮いた。恵那彦命は断腸の思いを抱く。しかし、それを振り切るように更に息吹を放つ、銅鏡は瞬時に裁断され粉々に砕かれ、そして消えていった。
 東野村全体の空気が重くなった。淀んだような、陽は射しているのに、どこか濁っているような光が漂う。すべてのものの生命力が衰えたように感じられる、瑞々しさが少しずつどこかへ抜けていくような感覚。そんな中、恵那彦命は身体を変化させていた。もう、固体ではなかった。かろうじて人の姿には見えるが、ほぼ気体。ゆらりゆらりと空中を漂っていた。
 境内に張られた結界も社殿とともに消えた。そのため、徐々に周囲から禍い者が(うごめ)いている気配が感じられる。
 恵那彦命はさっと飛び、周囲にいた禍い者をたちまちのうちに寸断した。久しぶりの感覚だった。自分の身体がない感覚。自由ではあったが、拠り所のない心細さがそこはかとなく感じられる。しかしこれで依り代の娘を守護することができる。この郷を救える。
 恵那彦命は樹冠の上まで静かに飛び上がり、村全体を見回した。我とマガと玉兎(ぎょくと)が今まで育んできた土地。貧しくとも民草とともに穏やかに暮らしてきた土地。掛け替えのない我らの土地。もう、二度と戻ってくることはないかもしれない、そう思いつつしっかりとその目に焼きつけた。そして、一陣の風となり郷の中心に向かって飛び去っていった。
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