第八章二話 死闘の末に力尽き

文字数 3,929文字

 足下には渦巻く湖面。そして、それに巻き込まれていく雄鹿たち。女眷属たちは雄鹿たちの背を蹴り逃れようとするが、不安定な足元に何人も渦中に落ちる。
 そんな女眷属たちの悲鳴を聞きながら、カツミは自分が乗っていた雄鹿の角を掴んで必死に水をかいていた。自分の持つ水を動かす能力を精一杯発動させて渦の流れに逆らって進む。それまでさほど意識したことがなかったが、自分の持つ能力があまり大したものではないことを自覚する。何とか流されないようにする、それだけで精一杯。
「おい、変化(へんげ)しろ。その姿だと重すぎて引けない。早く」角を引っ張られて頭を傾けながら、ぶふぉ、ぶふぉ、と荒い息を発している雄鹿に強く声を掛けた。言われてすぐさま変化をはじめた雄鹿はたちまち筋骨(たくま)しい大柄な人型になった。(よろい)はまとっていなかったがその体脂肪の少ない身体では、泳がないと水に浮いているのは難しかった。だから人型になると同時に手足をバタつかせて流れに逆らった。その片方の手首をカツミがガシッと掴んだ。
「力まずともよい。水の流れを感じてその隙間に入り込むのだ。大丈夫、我に任せれば脱することができる。信用して、ついてこい」
 とにかく自力では渦から抜け出ることはまず無理にしか思えなかった。だから(わら)にもすがる思いで雄鹿だった男眷属はカツミの言葉に従うことにした。周囲から女眷属の悲鳴や部下である雄鹿たちのもがく声が聞こえる。しかしどうしようもない。自分ひとりでは自分の身さえ満足に処すことができない。断腸の思いでその耳朶(じだ)にまとわりついてくる声の層をやり過ごすしかなかった。
 その声の中には、睦月(むつき)とミヅキのものもあった。
「睦月ちゃん、助けて、睦月ちゃん」
 二人とも前後になりながら渦に流されている。
「何やってんの、早く泳ぎなさい。休まないで、早く」そう言いながら睦月は、やっぱりこいつと一緒にいるとろくなことがないわ、と苦々しく思っていた。「こっちに来て、手を伸ばして。ほら、早く」
 そんな彼女たちを尻目に多くの女眷属が岸へと向かって逃れようと跳躍していく。サホは一人でも多くの部下を逃そうとあらん限りの声を掛け、手を貸していた。
 我の腕を斬った者か、とすぐに禍津神(まがつかみ)は察した。それと、と首を巡らすと同じように一人でも多くの眷属を逃そうと指令を発している弥生(やよい)の姿。あやつは我が尾を斬った者。先ずはあいつらを(ほふ)ってやろう、そう思考した瞬間だった。禍津神は脳天に突き刺さるような衝撃を感じた。とっさに頭上を見上げ、周囲を見渡した。しかし、何もない。何かが空から落ちてきたのかとも思ったが、それが湖面に落ちていった様子もない。禍津神は(いぶか)しく思いながらも、災厄の力を得て、大きく力が増幅した自らの体内の問題なのだろう、と推測し、気を取り直して眼前の敵にあたろうと思った、がその瞬間、突如、視線の先に、先ほどまで自分に攻撃を加え続けていた空中を飛ぶ女の姿が現れた。まだ、あいついたのか、と思いつつ、すぐ叩きのめしてやる、と攻撃に向かおうとしたとたん、その姿がぱっと消えた。これにはさすがの禍津神も驚き、周囲を見渡しその姿を捜すもどこにもいない。と、いきなり首筋に渦巻くような強い力が襲い掛かってきた。
 禍津神の背後でナミが左手を差し出して、全集中力をその首筋に向けていた。
 それまでナミは、人の自我世界に自由に出入りできるという、全送り霊に共通する能力を使って、攻撃を加えようとしていた。突然、現れては攻撃を繰り出し、一瞬にして姿を消して相手の攻撃を防ぐつもりだった。ただ、一回目は相手に近すぎ、おまけに頭上に出現してしまったので、靴のヒールで踏みつけるとすぐに消え、次には少し離れた場所、しかも相手の正面に出てしまって慌てて姿を消した。そして三回目、狙い通りの相手の背後、絶好の機会。これを逃したら次、いつうまく背後を取れるか分からない。そういう思いを左手に込めていた。
 禍津神の頭が徐々に右側に傾き、うなじ部分が渦を巻きはじめた。それにつれて湖面の渦がその勢いを弱めていく。禍津神の顔面に突出する口が大きく開かれドロリとした土気色の液体が勢いよく噴き出した。
 あと一息、一気にいく。左手に相手の抵抗を感じる。他の物体に比べて渦を巻く速度が遅い。しかし遅くても巻き続けている。このまま、最後までいける手応えを感じる。このまま、最後まで……
 視線の先が急にぼやけた。ふと、意識が遠ざかった。
 それがどういう意味を持っているのか、ナミは知っている。霊力が尽きかけている……。
 確かに昨日から力を使いまくっている。空中を自分の限界ギリギリの速さで飛び回り、圧縮能力も、何度も使っている。それにこの暑さ、気づかないうちに霊力を削がれていたのかもしれない。それにアナが言うように情動が激しく揺すぶられた。それも関係しているのかも。
 意識がその深層に向けて崩れ落ちていくような気がする。だめだ、しっかりしないと。妹を助けるために。
 歯を喰いしばって意識を呼び戻した。視界が復旧した。心中に焦りが噴き出す。逃げる?逃げて、回復を待つ?いや、もう一息だ、このままいける。最後まで……。
 禍津神が突然、開いた口を更に大きく広げて、そんなナミの一瞬の逡巡を打ち破るような咆哮(ほうこう)を上げた。
 大気を激しく震動させつつその咆哮が湖面に達すると同時に、無数の水の槍が突先を鋭く尖らせてナミに向けて湖面から瞬間的に伸びてきた。
 考えるよりも先に身体が動く。背後に飛び退(すさ)る。しかし更に湖面から水の槍が伸びてくる。尚も飛び退る。更に数を増やしながら伸びてくる。仕方なく再度、飛び退る。もう、離れすぎている。これ以上、圧縮能力で攻撃するのは無理、そう諦めざるを得なかった。
 険しい表情をして、とりあえずはこの攻撃から身をかわすことに集中しようとナミが思った瞬間、禍津神がこちらを向いて、そして急速に接近してきた。
 片腕を失くし、尾を失くし、首を大きく右に傾け、うなじに大きく渦を背負った、どう見ても満身創痍にしか見えない様子だったが、その動きの速さから、その目の眼光からは何ら弱っている様子が見て取れなかった。逆に殺気が(みなぎ)り、眼光はより鋭くなっているように見える。ナミは思わず戦慄(せんりつ)を覚えた。もしかしたら考えなしに敵に回してはいけないたちの相手だったのかしら?情け容赦のない、人智を越えた存在、そういった(たぐい)の相手。関わらないようにするのが最善の対処法、そういった存在と対峙している気が無性にする。
 更に後方へ飛び退るが、相手の方が速い。このままではすぐに追いつかれてしまう。そんな焦燥感を認識した。ナミの目が大きく見開かれた。その目に向けて禍津神の射るような視線が突き刺さる。まずい、衝撃波がくる。今の自分では耐えられない。この距離では逃れられない、そうナミが思うと同時に禍津神の背後がパッと光った。白い光がこちらに向かって飛びながら輝きを放っていた。そしてその光の中からルイス・バーネットが飛び出した。
「動くな!」
 ルイス・バーネットと禍津神との間にはかなりの距離。だから彼は声を張り上げた。あらん限りの声を発した。微かにでも届け、と念じながら。
 ナミはルイス・バーネットが命じの声を発する瞬間に両手で耳を塞いでいた。彼が自分に視線を向けていることを、距離こそ離れていたが明確に察していた。この状況から、そして彼の普段の言動から、今、彼がどんな言葉を発するか、彼女にははっきりと判別できた。だから彼が声を発するのと同時に、その声を遮断した。
 彼女は知っていた。言霊(ことだま)の封じ方を。それはとても簡単。要は聞かなければいい。あくまで聞くことで効力を発揮する能力だから。言霊を掛けられそうになったら、大声でも発してその内容を聞かないようにすればいい。耳を閉ざして遮断すればいい。
 一瞬にして禍津神の身体が空中で止まり、そのまま落下していった。同時に湖面から伸びていた無数の水槍が急に倒れるように崩れ落ちて水しぶきを上げながら水に戻っていった。
 ナミは再度、禍津神の背後に回り、ともに落下しながら左手を上げた。もう、残りの霊力はほとんどない。どこまでダメージを与えられるか分からない。しかしここまで痛めつけられて引き下がるほど彼女も大人しい方ではなかった。とことんまでやってやる。やってダメならその時、考える。再び、全集中力を視線の先の土気色に向けた。
 禍津神の背中が再び渦巻きはじめた。しかし、それもほんの(つか)の間だった。左手が急に軽くなったような気がした。左手を取り巻いていた空気が急に軽薄になったような気がした。え、もう?予想より速く霊力が途切れそう、慌てて彼女は岸に移動しはじめた。どこかに隠れて霊力の回復を待つしかない、口惜(くや)しいが仕方がなかった。このままなら湖水の中に落ちて、そのまま水底で長い時間を回復に費やさなくてはならなくなる。とりあえず今は退避して、と考えているナミの視線の先に、少しずつ身体を動かしている禍津神の姿が見えた。もう、命じの(しば)りを解いたの?
 禍津神は湖面のすぐ上に浮かんで、残った腕を身体の前で大きく振り、自分を縛りつけている霊力を振り払った。もう怒りしかない。五月蠅(さばえ)のように周りを飛び回り、蚊のようにちくちくと刺してくるこの女を塵芥(ちりあくた)にせずには気が済まない。そういう思いが全身に満ちていた。そして、振り返り、赤く輝く瞳をぴたりとナミに向けた。
 とっさにナミは空高く飛んだ。今、可能な限り速く、どこまでも高く、禍津神の視線を感じられなくなるまで飛び上がった。そして、足下に湖を小さく俯瞰(ふかん)できるようになるまで上昇した頃、ふっと意識を失った。
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