第十三章四話 奥宮の子

文字数 5,579文字

「あんた、ほんとのろいわね。もっと急いでくれない?あたしはすぐに戻って戦闘に加わんないといけないの。分かる?こんな所でのんびりしている暇はないのよ」
 清瀧(きよたき)はぷりぷりと怒気を隠すこともなく、蝸牛(かぎゅう)に向かって文句を言い続けている。言われた蝸牛としては早くマガと離れてしまいたい、だから自分なりに急いではいるのだが、稲荷神社の眷属とはもとの走力が違うので、どうしても彼我(ひが)の間に差が出てしまう。これが長距離ならば持久力の(いちじる)しい彼の方に分があるかもしれなかったが、熊野村は稲荷村の隣、そうこうしているうちに村境に辿り着いた。
 村境を越えてから少し雰囲気が変わった。彼らの通っている御行幸道(みゆきみち)の周辺にはそれほど樹々が生い茂ってはいなかったが、端的に言えば、山深くなったように感じられる。もちろん彼らの村も山谷ばかりで平地などわずかしかないが、彼らの右手には急峻な山々が連なっており、すぐ近くまで原生林と言えそうな人の手の入っていない森が迫っている。魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)してそうな、容易く足を踏み入れることを拒んでいるかのような雰囲気がそこから漂っている。
 そんな中を清瀧は特に周囲を警戒するでもなく足早に進み続ける。秘鍵(ひけん)たちが向かった先に戦闘が待っていそうなのに自分が蚊帳(かや)の外にいるのがどうにも許せない。タマが生まれたために最年少であることは免れていたが、何せタマはその出自から特別視されていたので、群れの中では未だ彼女が最年少的な扱いだった。そして、稲荷神社の眷属が戦闘をする場合、いつも彼女は年少という理由で留守居役を命じられていた。それが彼女には納得がいかない。自分だってもう一人前だ。戦うことだって立派にできる。そういう思いがあった。
 そもそも稲荷神社の眷属は戦闘することがめったになかった。郷内での戦闘など、時々現れる禍い者を退治するくらいだったし、郷外から依頼される戦闘は、専門集団である春日神社の神鹿隊(しんろくたい)に任されることが多かった。たまに、郷外に鎮座する同じ天満天神を祭神とする神社から縁故で依頼してくることもあったが、それも数えるくらい。腕試ししたくてもする場がない。今回の貴重な機会をみすみす失いたくない。だから清瀧は焦っていた。このままこの道を直進すれば熊野神社里宮に着く。そこにこの男を置いていけばいいだけ。さっさと行く。
 そんな清瀧の頭上を一羽のカラスが飛び過ぎていった。
 その黒光りする羽を目一杯広げ、羽ばたかせながらエボシは里宮に向かっていた。秘鍵(ひけん)の奴め、思わぬ形で反抗されてしまった。あいつら、これから八幡宮の邪魔をしに行くだろう。そうさせぬよう、災厄を復活させることが正しいことだと、今一度、卜占(うらない)をしてその結果を持って郷の中心に行く。あと少し、もう少し混沌となれば母上様は地上に出ることができるはず。こんなところで諦める訳にいかない。母上様のために……

 彼のはじまりは山の奥深く、大きな岩の下だった。
 その注連縄を張った苔むした大岩の周囲は人を寄せ付けない森厳さをもった大木で埋め尽くされ、ちょこんと簡素な社殿が一棟建っているだけだった。
 ここは熊野神社奥宮、社殿は拝殿のみ。大岩を御神体(ごしんたい)としていたが、実際、ご祭神の黄泉大神(よみのおおかみ)である伊弉冉命(いざなみのみこと)は、その大岩が塞いでいる大きな穴の奥にいた。
 そんなことは、もちろん生まれたばかりのエボシは知り得なかった。そればかりか自分が誰か、何のためにここにいるのか分からなかった。ただ戸惑うばかりだった。
 そんな幼いエボシのもとに、異変に気づいた当時、第一眷属だったクロウが飛んでやってきた。
 黄泉の住民たちが着るような白衣を身にまとった幼児(おさなご)。その姿を見てクロウはたちまち状況を察した。そして(おび)えているその少年姿の眷属をひょいと抱えると里宮に向かって飛んでいった。
 熊野神社里宮のご祭神は伊弉冉命の夫神、伊弉諾命(いざなぎのみこと)。この二柱の神ははじめて夫婦(めおと)(ちぎ)りを交わした神であり、この国土をはじめ、ほぼすべてのものを産み育んだ万物創造の夫婦神だった。しかしこの二柱の神は伊弉冉命が隠れ、黄泉の住民となることで、住む世界を異にする。伊弉諾命は死の穢れが現世に及ぶことを恐れ、黄泉の国に通じる大穴を大岩で塞ぎ、言戸(ことど)を渡した(離縁した)。
 そんな夫婦神の子どものうちの一柱が中宮(なかみや)(まつ)られている素戔嗚尊(すさのおのみこと)だった。素戔嗚尊は父神の命を聞かず、母神に会えないことを嘆き、猛く荒振(あらぶ)った。そしてその結果、姉である最高神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩戸の中に隠れ、世界が闇に包まれてしまうという、いわゆる(あま)岩戸(いわと)事件が起こった。
 もちろん、これは神代(かみよ)の大昔、この国の原初の話。しかしそういう経緯があり、伊弉諾命は妻と子とに対し穢れを里に及ぼさないよう、荒振らないように鎮める必要があった。だからそれぞれ奥宮と中宮に鎮め、反抗勢力を形成させないように眷属を生み出すことを禁じていた。特に妻神に対しては結界を張り、黄泉の宮から出ることができないようにしていた。そんな状況の中、現れた幼い眷属。クロウが引き連れて伊弉諾命のもとへ連れていった際には、禁忌を破って生まれたこの幼き存在を消し去ることを伊弉諾命は志向した。しかし、自分の意志とは関係なく生み出された幼児を哀れと思ったクロウが説得した。このような幼き眷属一人で何ができましょう。我ら先達がちゃんと育てればよろしいのではないでしょうか。奥宮様が何を思われてこの者を生み出されたかは存じませぬが、この者に責めはございません。どうか寛容な大御神意(おおみごころ)もちて寛大なご裁可を、と平身低頭願い続けた。その懇願に他の眷属も同調したため、(ようや)く伊弉諾命も折れ、その幼い眷属をエボシと名付け眷属の末席に加えることにした。
 それ以来、クロウたちはエボシをよく育てた。熊野神社の眷属は基本的に三交代で里宮、中宮、奥宮の担当をしたが、エボシは奥宮の担当からは常に外された。まだ幼いから険しい山奥に向かわすのは危険である、という理由から、極力奥宮から遠ざけられた。そしてクロウから他の眷属に、決して奥宮とエボシとの関係は口外してはならないと厳しく言い渡されていた。
 そして数十年が過ぎ、エボシの容姿から幼さが抜け、立派に一人前の眷属と見なされるほどに成長しても変わることなくそれは続いた。エボシとしても自分だけが奥宮担当から外されていることに気がついたが、それは自分がまだいたらぬせいであると自戒して、更に修行や日常の社務に励んでいた。そんなある日、それは里宮で秋祭りが斎行される日、エボシは中宮の担当をしていた。通常四、五名で担当していたが、他の担当者が秋祭りの準備と斎行のために里に降りていたので、留守番として一人残されていた。
 それは、日没間近の夕拝(ゆうはい)の時だった。朝、供えた供物を祝詞(のりと)を奏上して徹する。その最中、平伏していると突然、本殿奥から声がした。
 ――おい、うぬはエボシとか言ったな。いったい何者だ?
 今まで中宮の祭神である素戔嗚尊から声を掛けられたことなどない。他の眷属も同様だった。これ以上ない珍しい出来事にエボシは声を失ってただ平伏していた。
 ――おい、聞こえんか?久しぶりに声を出したが、これじゃ通じんか?
 素戔嗚尊の声は社殿を震動させるほどに大きい。だから慌ててエボシは答えた。
「いえ、聞こえております。私には初めてのご宣下(せんげ)でしたので、(かしこ)みてお応えすることを失念してしまいました。申し訳ございません」
 ――問いに答えよ。うぬは何者だ?
「私は大神様たちに使える眷属の一人、エボシです。これまでも何度か大神様のお世話をさせていただいております」
 ――そんなことは知っておる。我が知りたいのは、なぜうぬから母上の匂いがするのか、ということだ。
 そんなことを言われてもエボシには心当たりがない。中宮様の母上と言えば奥宮様のこと。自分は生まれてこの方、そこに行ったこともない。答えようがない。
 ――うぬ、もしや母上に生み出されたのではないのか?
 熊野神社では彼が生まれて以来、数名の眷属が新たに生み出されていた。しかし、それはいつも里宮の境内でのことだった。中宮や奥宮では眷属は生み出されない。それは当然のこととして、彼は今まで疑問に思うことすらなかった。しかし素戔嗚尊の言葉によって、唐突にそれが謎として彼の脳裏に出現した。
「そんなはずは……。私だけ、奥宮様から……」独り言のように呟く。
 ――母上はずっと黄泉(よみ)の宮に幽閉され、外界に出ることができぬ。黄泉の宮への入り口である奥宮も民草(たみくさ)の通えぬ不便な山奥だ。もう民草は誰も行くことはないだろう。眷属とも意思を通じることができない現状、このままでは忘れ去られてしまう、そう(おぼ)()されたのではないだろうか。この世への恋慕の情があふれ、みなから忘れられないように、うぬを生み出されたのではないか。
 そう言うと素戔嗚尊はぐすっと鼻を鳴らした。どうやら涙ぐんでいるようだ。普段はまったく声を発せず、静かな中宮だったが、その実、かなり感情が(たかぶ)りやすいのかもしれない。
 ――母上に会いたいな。うぬも会いたかろう。我らは母を同じくする者。言わば兄弟も同然。何とか母上をこの世に戻せるよう、力を合わせようではないか。
 はっ、とエボシは額を床に押し付けた。思い起こせば心当たりは幾つかある。自分だけ奥宮から遠ざけられて、それに関して訊いてもいつも答えを濁される。これまで漫然と日々を過ごしてきたが、彼の頭の中で急に思考が動きはじめた。自分が成すべきことを見出した、そんな気が無性にした。
 それからもエボシはちょくちょく中宮で打ち合わせをした。他の眷属にはうまく用事を言い渡したり時には薬を盛ったりした。誰も彼のことを疑いはしなかった。それほど巧妙に彼は立ち回っていた。そして、少しずつ計画を練っていった。ある程度計画が立った頃、彼は素戔嗚尊に対しある策謀を打ち明けた。それは彼が第一眷属になるための企て。奥宮の呪縛を解くためには彼が第一眷属になることが何より円滑に事が進む。自分が権力を握ることも大事だがクロウを権力の座から引きずり降ろすことも重要だった。何せクロウは勘が鋭い。途中で勘繰られては計画自体を断念せざるを得なくなる。
 それを実行する日、その日はクロウが中宮の担当だった。穏やかないつも通りの日だった。その時までは。
 突然、昼日中に素戔嗚尊が姿を出現させ、暴れ回りながら里宮に向かった。もちろんクロウ他、その日、中宮を担当していた眷属たちは慌てた。必死に説得し、足を止めようと躍起になった。しかし、素戔嗚尊は聞く耳を持たず、周囲を荒らしていく、そこへ里宮担当だったエボシが現れ足止めを試みた。それにより素戔嗚尊は心を鎮め、中宮に戻っていった。と周囲の者の目には映った。
 そして、素戔嗚尊は最後に眷属たちに言い残した。
 ――我はその不遜な者が第一眷属であることを認めぬ。その者が第一眷属である限り、我は父上に上奏するため、何度でも姿を現し里宮に向かう。
 そう言われてもクロウは心当たりなどない。早々に事態は伊弉諾命の耳に届けられたが、クロウは、なぜそんなことを言われたのか分からないので、申し開きのしようもなかった。
 ただ、クロウはそれほど地位に執着する方ではなかった。みなからの信頼厚く、推挙されて第一眷属になったものの、自分が身を引けば事態が収拾されるのならばそれに越したことはない、と思うたちだった。だから、そう申し出て、伊弉諾命も渋々とそれを認めた。
 その後、次の第一眷属を選定する際、本来なら第二眷属のコズミが就任するべきであったが、彼は自分にその資質なしとして固辞し続けた。そのため他の者を探すが事態が事態だけに、誰もその地位に就きたがらず、最終的に若いが、素戔嗚尊を鎮めたエボシが選ばれることになった。
 確かにエボシは若かった。しかし才知抜きん出ており、卜占(うらない)を見る目も確かで、上隠山(かみかくしやま)での峰修行も終え、普段の社務も真面目にこなしており、資質的に問題がなかった。ただ、クロウには少し不安があった。エボシはあまり胸襟開いて話すことがない。いまいち心の底が見えない。何を考えているのか不明だった。だから自分がしっかりと見て、補助しないといけない、と思っていると何かと小言を言うようになってしまった。当然の如く、次第にその仲は険悪になっていく。それもよくないと最近、クロウはエボシの言動を不適当だと思っても極力口に出さないようにしていた。
 クロウの心配をよそに、エボシは過不足なく第一眷属の業務をこなしていった。他の者も才知豊かで細かいところまで目の届くエボシの指示に慣れてくると次第に快適さを感じはじめた。自分で考えて動かなくてもよいし、何よりその指示はどんな時も的確に思えた。だから徐々に信頼し、その指示を疑ったり不平を抱いたりしなくなった。
 そして誰にも悟られることなくエボシは計画を進めた。ただ、母神のために。

 里宮境内が見渡せる所まで飛んでくると眼下にクロウとコズミの姿が見えた。何か話し込んでいるようだ。そのクロウの姿にエボシは警戒心を抱いた。クロウはもともと強い威圧感をまとっていた。それが第一眷属を退(しりぞ)いてから、あまり気を放たなくなっていた。気がやせ衰えたのかと思われるほどに。しかし今、その気が充足している。辺りに威圧感となって発せられている。長い時間を掛けて自分と対抗しないように役を剥奪して、閑職に追いやり、気を減退させてきたが、昔のように気を満々と放っている。
 今、自分は秘鍵にやられてほうほうのていで逃げ帰ってきた。あの気力充実としたクロウ相手に対抗することができるか心許(こころもと)なかった。それなら対抗する者を動かすしかないだろう。彼は方向を変え、中宮に向かって飛び去っていった。
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