第五章六話 その目が怖くて

文字数 4,810文字

 タツミとナツミは、当初の予定通り、追尾を避けるために蛇行しながらも湖の中心に向けて進み、やがてその岸に到達した。
 タツミの腕の中で、よほど眠り玉が効いたのか、マコはまだぐっすりと寝入っている。タツミはその場で足をいったん止め、一息()いた。自分の膂力(りょりょく)に自信があるタツミでも、さすがに人一人抱えて全速で走ってきたために息が切れていた。茂みの中に身を隠してしばらく息を整えた。
 その間、ナツミは周囲を回って警戒した。
「追手はいないみたい。カガシたちが来たらすぐに兄様の所にいくわよ」
 ナツミが兄のもとに戻ると言った。その顔は、自分たちのしたことに対する自戒の念に(さいな)まれているのかやや曇りがちだった。
 あの家にいた者たちは、きっと(さら)われたこの女を捜していることだろう。カガシたちを引き連れていたし、鎖を使いもしたから、自分たちがしたことだとバレているだろう。一刻も早く兄様を助けたい一心だったから、これは仕方がないことだけど……。
 カツミとしては、心中葛藤を繰り返している様子のナツミに何か声を掛けてやりたい気がしたが、うまい言葉が見つからない。だから、ただ、「ナツミ、大丈夫だ。我がどうにかする。我に任せよ」と何ら確証はないが口にした。そんな兄の顔を不満そうにナツミが見つめていると周囲に放っていたカガシが数匹、二人のもとにやってきた。
 二人はカガシたちの報告に耳を傾けた。カガシは特に声を発する訳ではないし、二人にも何かが聞こえている訳でもなかった。それでも感覚的に二人にはカガシたちが何を言いたいのか分かる。逆にカガシたちも他の眷属や人間たちの言葉を解することはできなかったが、三輪(みわ)の眷属たちの言うことは理解しているようだった。
「三輪神社境内(けいだい)春日神社(かすがじんじゃ)の眷属たちが集まっている」「山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の眷属たちが春日村から村境を越え、三輪山に向け進行中」「東野村(とうのむら)に集っていた眷属たちが我が社に向け進行中、間もなく村境に到達」カガシたちはおおまかに以上のようなことを報告した。
 まずいな、カツミが呟いた。春日と山王日枝の眷属たちが“尾の(くさび)”警護のために入村することは想定済みだった。この郷内では、眷属たちが他村に入る場合は、礼儀としてそこの鎮守社に挨拶に参上することが慣例となっていたが、お社に詣でても大神様はおろか、眷属もいないために、かなり不審に思われることだろう。しかし、現状、それは仕方がない。心配なのは東野村にいた眷属たちの動きだった。思ったより移動が速い。どうやら自分たちを見失ったために三輪神社へと向かっているようだったが、その場合でも御行幸道(みゆきみち)もない東野村のこと、村境到達にはもう少し時間が掛かると予想していた。その間に、民草(たみくさ)の女とタツミを交換し終えるつもりだった。その後のことはまだ考慮することもできていなかったが、とりあえずそれだけ目指してここまで来ていた。しかし、東野村に集っていた眷属たちが早々に春日や山王日枝の眷属たちと合流し、自分たちの行状をばらしたとしたら、多数の人員で捜索され、早々に発見されたとしたら、禍津神(まがつかみ)との交渉に支障が出かねない。
 よしんば、他の社の眷属たちと合同で禍津神に対する、そんな思考もカツミの脳裏をよぎっていた。しかし、それで対抗しきることができるのか、はたまた兄者を助けることができるのか、そもそも他の社の眷属たちが自分たちの味方になってくれるのか、いずれも確信が持てなかった。他の社の眷属も禍津神の存在を知ればそれに対抗することになるだろう。しかし、それは我らの味方になるという意味ではない。やつらは状況によっては軽々と兄者を見捨てるだろう。我らのこともごく簡単に……。やはり邪魔が入る前にどうにかしないといけない。
「ナツミ」カツミは無意識にも真剣な表情を妹に向けた。「すぐに、東野村の眷属たちの所にいって足止めをしてくるのだ」
 ナツミとしては、攫ってきた人間の女を自分が直接、湖に連れて行きたかったし、そうするつもりだった。少しでも早く兄様の無事を確かめたかった。
「何言ってんの?イヤよ、うちも一緒に行く」
 カツミとしては最初っから禍津神のもとへは自分ひとりで行くつもりだった。どんな危険が待っているかも分からない、そんな所に妹を連れていく訳にはいかない、そう思っていたから断固としてこの地点からの同行を認めなかった。
 それでもナツミは自分が行くと言って聞かなかった。しばらくの間、必死に食い下がったが、そうこうするうちに一瞬、カツミが厳しい目を向けた。その目を見て、ナツミは渋々引き下がった。
 それは(へび)の目。人型に変化しているにも関わらず目だけが蛇のそれだった。
 その目をいつか見たことがある。
 まだ小蛇だった時、トンビに攫われそうになったあの日のこと。
 普段から、蛇姿の時は鳥に見つからないように極力、木の下にいないといけないと言われていた。もし見つかって捕まってもすぐに人型に変化(へんげ)するようにも言われていた。でも、その日は、日向ぼっこに最適な心地よい天気だった。その誘惑に抗えず、陽だまりの草の上に微睡(まどろ)んでいた。羽音に気づいた時にはもう鉤爪(かぎづめ)に掴まれていた。そして次の瞬間には民家の屋根を越えるくらいの高さを飛んでいた。どこに連れていかれるのか不安だった。でも、落ちることが怖くて変化もできなかった。するとすぐに鎖が飛んできた。重い分銅がトンビの喉にめり込むように当たった。カツミ兄ちゃんだった。飛ぶような速さで助けにきてくれたのだ。カツミは落ちていくうちを受け止めてくれた。そして同時に、落ちてきたトンビにとどめを刺した。その時の目が蛇のそれだった。
 いや、蛇姿になっている時の目、鋭い刺すような蛇眼よりも更に冷酷さの詰まっている目だった。憐憫(れんびん)の情の欠片も見出せない視線。うちを抱えたままカツミは、たぶんもう死んでいる、ピクリとも動かないトンビの頭を踏みつけた、何度も、何度も。
 その出来事で、トンビの鉤爪が喰い込んで、少し身体に傷が残った。でもその痛みより、捕らわれた不安や恐怖よりも、その目が怖いと思った。その時、カツミは、うちのことを怒りも、叱りもしなかった。だから尚更怖く感じた。
 恐らくカツミは、うちが再び禍津神に遭うことを危険だと思っているのだろう。当然、攫ってきた女の仲間と遭遇しても危険が伴うかもしれないが、禍津神に対するより消滅する危険は少ないだろうし、逃げることも容易(ようい)だろう。確かにうちが行っても足手まといになるだけかもしれない。行きたい気はするけれど、ここはカツミを信じて、待つしかない。
「東野村に集っていた眷属たちが春日や山王日枝の眷属と合流すると集団で我らを捜しにくるだろう。そうなると面倒だ。そなたは東野村の眷属たちが我がお社に近づかないように途中で足止めするんだ。お社に近づけなければそれでいい。戦う必要はない。危なくなったらすぐに逃げろ。いいな」
 めったに見ることができない真剣なカツミの表情に、ナツミはぶすっと不機嫌な顔を向けつつも、黙って頷いた。

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 タカシは、リサと恵美さんとともに座卓を囲んでいた。恵美さんが()れてくれた熱いお茶を(すす)る。夜明け寸前の清々しさに溶け込んで美味しく感じられた。少し気持ちが落ち着いた。
 座卓を挟んでリサと恵美さんが並んで座っている。二人ともずっと黙ったまま。愛しい孫と誰よりも身近な妹が攫われたのだ、無理もない。タカシも今の二人に掛ける言葉を持ち合わせておらず、仕方なく黙っていた。黙ってお茶を啜りながら、これから自分がすべきことがなんなのか考えた。
 自分の気持ちに従えば、リサの身近にいたい。こんなに幼く弱々しく、現実世界での記憶の多くをなくし、意思の疎通も難しい彼女が心配で、側を離れることなど考えることさえできなかった。しかし、彼としてはこの世界で一番重要視して行わなければならないことは、この世界の崩壊を防ぐことだった。それが、現実世界のリサを救うことに繋がるのだ。たとえ、今、目の前に座っている幼いリサがどれだけ苦痛や苦悩を味わおうと、この世界の崩壊さえ防げば彼の目的は達成される。しかし、例えそうだとしても、自分との記憶を忘れ、姿が変わっていたとしても、リサの苦しむ姿を黙って見過ごすことなどできない。結局、彼の取るべき選択肢はただ一つ、目の前のリサを危険から守りながら、この世界の崩壊を防ぐこと。ただ、それをどのように行えばいいのかが(はなは)だ不明瞭だった。
「あんたたち、よく似ているね。そうやってお茶を飲みながら、うつむいて考え事をしている姿がそっくりだよ」唐突に恵美さんが言った。
 タカシもリサも突然思いもしないことを言われて、どう反応していいか分からず、ただ、恵美さんを眺めていた。
「ほら、そのキョトンとしているところもそっくりだ」
 言われてタカシはリサの姿を見た。リサもこちらを見ていた。視線が重なる。タカシはなるべく優しく微笑んだ。リサはまたうつむいた。意思の疎通も、気持ちを通じ合うことも、まだなかなか難しそうだった。
「リサ、聞いてちょうだい」思い立ったように恵美さんが身体の向きを変え、リサに正対しながら、その顔に一種緊張感を漂わせながら口を開いた。「お婆ちゃんはあなたがマコを捜しに行くべきだと思っている。あなたは確かに子どもだし、人付き合いも苦手だし、どんな能力を持っているのかも分からない。でも、あの眷属たちや送り霊?の人たちが行くべきだと言うのなら、そうなのだと思う。あの人たちのような人じゃない者たちは、まっすぐに物事を見る目を持っている。だから、私たちより物事の本質を見ることができるの。だから、あなたは行くべきだと思う」
 リサは恵美さんの姿をじっと見て話を聴いていた。ただ、その顔には、どこに行けばいいのか、行って何をすればいいのか分からない、という表情を浮かべていた。
「いい、私たちの祖先は巫女としてこの八村に鎮座するお社の祭典に関わってきたの。変事があるたびに、大神様の言葉を聴いて、それをみんなに伝える役目を果たしてきた。でも長い間の平穏により、そういったことも行われなくなった。だから、いまだにその能力が私たちにあるのかは分からない。でもそういった血筋だからこそ、マコは攫われたんじゃないかしら。あなたにも何かできることがあるんじゃないかしら。分からないことは何もしなければ分からないまま。何かして失敗したとしても分からないことを少し分かることはできるんじゃないかしら。私ももう歳だし、あなたと一緒に行くことは無理。でもあなたのことを大切に思ってくれている人がここにいる。あなたはいつも何でも自分で解決しようとするけど、たまにはひとに手伝ってもらうのもいいんじゃない」
 リサはすがるような視線を恵美さんに向けていた。恵美さんは優しく微笑んでいた。そして微笑んだままタカシに視線を向けた。
凪瀬(なぎせ)さん、リサのことを守ってくださいますか?」
「え、も、もちろんです」タカシは予想外のことを言われて戸惑いながらも答えた。「でも、昨日今日会ったばかりの私のことを信用してくれるんですか」
 恵美さんは微笑んでいた。微笑んだまま答えた。
「あなたは嘘が吐けない。話す内容はよく分からないことばかりだけど、それだけはよく分かったよ。それにリサをすごく大切に思ってくれていることも。あなたに任せれば大丈夫、そうだろ?」
「はい、必ずリサさんを守ります」
 大袈裟ではなく、心の底からそう誓った。必ずリサを救う。彼女の魂の中に入ってから常にその一心でここまで来た。そのことを改めて思い出した。
 目を閉じる。数日前まで自分の横で優しく笑っていたリサ。思い出せ、彼女は今、瀕死の状態にあるんだ。忘れるな、彼女を救えるのは自分だけなんだ。
 必ず助ける、必ず救う、彼女を。必ず。
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