第五章三話 捕らわれの蛇娘

文字数 3,948文字

 木の幹にぶつかった後、タツミは気を失いそのまま水中に没していった。
 ナツミは我を忘れて水面を走り、途中から水中に潜って兄を捜した。
 いつもより水が重い。彼女たち三輪(みわ)の眷属は、普段から村に流れる小川や水路などのちょっとした流れを移動手段としてよく使う。そのため他の社の眷属と比べて、水には慣れ親しんでいる方だった。しかし今、湖水から抵抗を感じる。普段は感じない泳ぎづらさが全身に絡みつく。
 月明かりの届かない濁った水の中で、ここら辺に沈んだはず、と勘を頼りに兄を捜す。眷属である彼らはそのまま水中にいても溺れて死ぬことはない。ただ、怪我を負っているかもしれないと心配だった。
 水底に向かって伸ばした指の先に固い感触。それが兄の着ている甲冑(かっちゅう)だとナツミにはすぐに分かった。慌てて掴んで水面に向かう。身体中にまとわりついてくる水の抵抗をかき分けて水中を脱した。しばらく水面を走って岸に辿り着くとそこに立っている木の根元に兄の身体をもたせ掛けた。
「兄様、兄様、ねえ、大丈夫?兄様、目を覚まして」
 ナツミは必死に叫んだ。タツミはなかなか目を覚まさない。眷属が気を失うなど余程なことだった。心配で胸がはちきれんばかりだった。そんな彼女の背後に迫る気配。とっさに逃げないといけない、そう察したと同時に降りかかる野太い声。
「おい、尾の(くさび)はどこにある」
 振り返るとそこには経験したことのない威圧感。赤い目に圧倒される。すぐに逃げないと、でも兄を置いて逃げる訳にはいかない。それなら、うちが兄様を守らないと。ナツミは(くさり)を手に身構えた。
 その姿を眺めていると、ふと禍津神(まがつかみ)は思い出した。女、女を連れて戻れば水底にいた大きなものは動くことができる。そうしたらこの狭い領域から脱することができる……
 禍津神の頭の中には自身のものではない記憶があった。恐らく災厄の一部を取り込んだ時にその記憶も一緒に取り込んだのだろう。その記憶が目の前の存在が女であると彼に知らせていた。
「お前、もしかして女か?」
 その言葉にナツミはかちんときた。どこからどう見ても女でしょうが。あまりの恐怖にもうやけくそにもなっていた。だからとっさに答えた、語気荒く。
「女だけど、それがどうしたの。女だったらどうするっていうのよ」
 声が震える。泣き出してしまいたい。でも、それを必死に耐える。
「そうか、女か。なら我と一緒に来てもらおう」
 くそ、あたしを連れ去るって言うの。そんなことさせない。命懸けで抵抗してやる。
「やれるもんなら、やってみなさいよ。うちは大人しく連れていかれないから。覚悟してかかってきなさい」
 ナツミは鎖をすぐに振れるように脇に構えた。さすがに殺傷能力は低いが、当たれば痛い。その程度の重量はあった。でも目の前の存在がはたして痛みを感じてくれるかどうか。彼女は無意識に生唾を呑み込んだ。
 禍津神は無表情なままだったが、仕方がないという雰囲気を漂わせながら軽く指先を振った。途端に岸に近い湖面から水が幾筋も飛び出して、ナツミの腕、足、胴体に絡みつき、拘束した。そしてそのまま湖面へと引きずっていく。
「いやーっ、離せー、やめろ」
 辺りに響く叫び声。その声のする方へカツミは全速で向かっていた。視線の先にもがきながらも湖の中へと引きずり込まれていくナツミの姿が小さく見える。カツミは鎖鎌を手に構えていた。分銅のついた側を長めに持って、走りながら頭の上でひゅんひゅんと音を立てながら回している。次第に回転数が上がっていく。やがて射程距離に入った。その瞬間、放たれる鎖。カツミはタツミ同様、鎖を意のままに扱うことができる。狙った場所に確実に投じて、軌道を曲げたり、相手に絡ませたり、まるで自分の身体の一部かのように自由自在に。
 状況からカツミは、妹の救出を第一とした。鎖をナツミの身体に巻きつけて湖面から引っ張り出す。しかし、鎖が届く寸前、湖面にわずかに残っていたナツミの手が水中に没した。カツミは鎖を引いて戻しながら盛り上がった水の上に立つ禍津神を睨みつけた。
「おのれ、我が妹を返せ」憤怒の表情をていして駆け寄る。再び頭上で鎖を回転させ、今にも分銅を憎悪の対象に投げつける、とその刹那、彼の胴体に鎖が巻きついた。そして背後に急速に引っ張られた。遠ざかっていく禍津神が微かに見下すように笑った気がした。そしてそのまま土気色は、激しく波を立てながら平面に戻っていく湖水の中へと消えていった。

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 その存在のいる場所に戻ることを指向した。すると周囲の水が動いて彼らを移動させた。
 どこに連れていかれるのか、ナツミの心中は不安に満ち満ちていた。どんな苦痛、屈辱が待ち受けているのか、身震いするほどの怖れが身体中を駆け巡っている。
 やがてナツミの予想を遥かに超えるほど水中深くまで沈んでから動きが止まった。
「おい、どこにいる」水中にも関わらず禍津神の声が辺り構わず鳴り響いた。
 ――ここにおる。老いてはおるがまだ耳は聞こえる。そんなに声を張り上げんでもよい。
 少し不機嫌な声が頭の中に聞こえた。それは暗闇の中、ナツミにも不気味に聞こえていた。不機嫌な声が続いた。
 ――なぜ戻ってきた。まだ楔はしっかりと我が尾を貫いておるぞ。
 その声に禍津神が少し嬉しそうな声で答えた。
「楔は後回しだ。女を見つけてきたから連れてきたぞ」
 禍津神は災厄が歓喜の声を上げるものと思っていた。無意識にもそれを期待していた。しかし、頭の中に届いた声はいかにも気が抜けたような調子だった。
 ――女だと。
「ああ、この者だ」禍津神は水底に横たわるナツミを指さした。ナツミは自分のことを話題にされていると思い更なる恐怖を抱いた。ただ、次に頭の中に飛び込んできた言葉を聞いた瞬間、恐怖を忘れた。
 ――違う。
 災厄から発せられた断固とした強い口調の言葉。うちのこと、女……違う?どういうこと?うちはれっきとした女ですが、と思わず喉まで声が出かかったが、すんでのところで呑み込んだ。ただ、表情はあからさまに不機嫌を表していた。それを察したのか災厄の声が続いた。
 ――幼き者よ。いいか、我が望んだのは人間の女だ。その者は女だが人間ではない。そこらの社の眷属だ。
 表情から垣間見ることはできなかったが、禍津神からは少し落胆した気配が感じられた。
「この女と違うのか……」そしてナツミに視線を向けて続けた。「お前、いらないらしい。消えろ」
 禍津神の赤い目がぐんと強く光った。その瞬間、ナツミを取り巻いていた水が彼女を押し潰さんばかりに強い圧力を持って押し寄せてきた。
「キャー」と思わずナツミは声を上げた。自分の消滅の予感を生まれてはじめて実感した。
 ――しばし待て。
 頭の中に災厄の声が響いた。
 ――その者に訊いてみたいことがある。消すのはその後にせい。
 途端にナツミに迫っていた水の圧力が弱まった。一瞬、あまりの痛みに気が遠くなりかけたが徐々に戻ってきた。その意識に声が問い掛ける。
 ――女。ここから真東の方向に人間の若い女がおるであろう。知っておるか。
 真東?東野村(とうのむら)のことかしら。ぼんやりとナツミは思った。
 ――もう一度だけ訊く。東の方の若い人間の女のことを話せ。
 その声はとても威厳があり、強く、重厚な趣だった。抵抗してはいけないと内心思わずにはいられない声。
「東の方って、東野村のこと?あそこに若い民草(たみくさ)なんていないわよ」
 ――隠しても自らのためにならぬぞ。
「何言ってんのよ。過疎高齢化の進んだこの郷の中でも、東野村は際立って高齢化が進んでいる所よ。若い民草なんている訳ないじゃない」そう言い終えて、あ、とナツミは思い出した。心当たりがあった。
 ――知っていることがあれば話せ。話さなければお前は消える。
 抗いがたい声。自分の知っていることをさらけ出さないといけないと思わせる声。しかし(さら)われて、話せと言われて思い通りに答えるのも(しゃく)(さわ)る。でも、答えなければ本当に消されてしまうかも。ナツミの胸中に一瞬、葛藤が起こったが、ふと自分を空中高く放り投げたヨリモの姿が浮かんだ。あんな奴らに義理立てする筋合いはない。
「東野村の奥にある祝山(いわいやま)が、その(ふもと)に若い民草の女が向かっていた。たぶんまだそこにいるはずよ」
 ――そうか。
 と言ったきり、災厄の声はしばらくやんだ。何か考え事でもしているのだろうか。やがて再び声が聞こえた。
 ――幼き者よ。おぬしの方針に従おう。尾の楔を先に破壊してしまっては神々が警戒して依り代の女を見出すことは難しくなってしまうだろう。警戒の薄い今のうちにその人間の女をここまで連れてきてくれぬか。
「しかし、結界がある。我はその外にはいけぬ」
 ――やり方は自分で考えろ。おぬしには我の一部を与えておる。長きに渡ってこの国を動かしてきた権謀術数の詰まった智慧もあわせてな。よく考えれば必ず手はあるはずだ。
 禍津神はしばらくの間、熟考する様子を見せた。そして赤く光る目をナツミに向けてじっと見た。その後、災厄に向けて声を上げた。
「一つ訊く。その女を連れてきて、楔が抜けて、自由にどこにでも行けるようになったら、おぬし、どうするのか」
 ――それはもちろん、またこの国に騒乱を起こし、我を崇拝する者を最高の地位に据えることで我がこの国に君臨するのだ。我が捕らえられて以来、この国にも人が増え過ぎてしまっておる。ぼちぼち戦が必要な時期なのだ。
「我はそなたとともに、一緒に行けるのか」
 ――もちろんだ。おぬしにはまだまだしてもらわねばならぬことがある。ともに行こうぞ。
 禍津神が喜んでいるような気配を全身から発した。そしてすぐさま水面に向かって移動をはじめた。ナツミを引き連れて。
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