第十一章五話 憤怒の白牛は八幡村へ

文字数 5,023文字

「タマのこの状態を八幡大神様がご覧になられたら、どう(おぼ)()されるか分からない。そなたたちは誓約(うけい)(あかし)として大神様たちが互いに譲り渡されたもの。その証のタマがこのような状態になってしまっている。もしかしたら八幡大神様はそれを我らの不敬と受け取られるかもしれない。我は、我が大神様の名代として八幡大神様に、一心に(いや)び奉る。それで八幡様の勘気(かんき)が鎮まればいいのだが、そうでない場合、そなたまで巻き添えになるかもしれない。そうならないため、我が稲荷大明神様のもとに万が一の難を逃れるために向かうのだ」
 秘鍵(ひけん)の穏やかな言葉を聞きながら、ヨリモは小さく何度も首を振っていた。
「いやです。私も八幡宮の眷属です。大神様のもとに帰ります。もし大神様の勘気を鎮める必要があるのなら、私も一緒にお鎮めいたします」
 けっして大きな声ではなかったが、芯のあるしっかりとした声だった。引くつもりは微塵もなさそうな。
「タマを民草(たみくさ)の男とともに旅立たせたのは我らが落ち度。このような事態を見通せず、楽観視していた我らの落ち度でしかない。きっと、タマがいるがために八幡宮の方々もそなたを旅立たせたのだろう。同じような扱いとするために。我らの手落ちのためにそなたたちをこれ以上、損なう訳にはいかない。どうか、分かっておくれ」
 ヨリモは再び首を小さく振っていた。
「お気遣い痛み入ります。しかし、私のことは私が決めます。きっと、私がお願いすれば、()()み願えば大神様も仲間たちも、きっと聞き入れてくれます。だから、私もともに……。お願いします」
 自分を見上げるヨリモの視線。懇願している瞳。その中に光る決意と覚悟を宿した意志の(あか)し。秘鍵は短く一息吐いた。 
 この郷を包み込んでいる異変。災厄の(いまし)めが解き放たれた。尾の(くさび)を守護しに行った宝珠(ほうじゅ)をはじめ仲間たちが消息を断った。更には稲荷神と八幡神との誓約の証までこんな状態だ。事態は楽観視する要素の欠片もない。対応を間違えれば、いったいどうなってしまうのか分からない。しかし、それでも宝珠の意を酌み、できることをするしかない……もしかしたら、このコの決意が状況を好転させるきっかけになるかもしれない。秘鍵は、すっと歩を進めヨリモの脇を通りすぎて横たわるタマのかたわらに屈み込んだ。そしてその身体を軽々と抱えるとまたすっと立ち上がった。
「では、睦月(むつき)殿、ヨリモ殿、参ろうか。道中急ぐが遅れないように」
 は、はい、と言うヨリモの視界の中心には、秘鍵の腕に抱えられたタマの姿。やつれた感じではあったが、苦しんでいる様子ではない。どうにかして、私が助けないと。ヨリモは意を新たにした。そして改めてこれからの道中、連れになるのだろう睦月の前に進み出た。
「睦月殿、先ほどは取り乱してしまい、誠に申し訳ございませんでした」冷静になってみると先刻は、はしたない、馬鹿な行いをしたものだ、という思いが心中にあふれてきていた。嫌でも謝らないといけない。
 睦月としてはまだ腹立ちは納まっていなかったので、皮肉の一つでも言ってやりたい気分だったが、脳裏にサホの姿がちらりちらりと顔を出してくる。人の上に立つ者は寛容さも大切だぞ、と言われているような気がする。
 サホは、睦月のことはよく叱りつけていたが、よほどのことがない限り、他の部下を叱責することはまずなかった。いつも落ち着いて、冷静で、堂々としている。睦月は常々からそんな態度を見習いたいと思っていた。だから睦月はちょっと間を空けて、気を落ち着かせてから答えた。
「もうよい。好きな男のためだったのだろ?気にするな」
 え?好きな男?思わずヨリモは大きく見開かれた目を睦月に向けて、その言葉を否定しようとした。が、先に睦月が(さと)すような声を発した。
「しかし、言っておくが、男など身体が頑丈なだけの役立たずだからな。女がちゃんと考えて、うまく乗りこなして、ちゃんと働かせないといけんぞ」
 睦月は言い終わるとさっさと秘鍵に続いて八幡宮への道のりを歩みはじめた。ヨリモは二の句が継げないまま、その後を追った。

 ――――――――――

 天満宮の第一眷属である白牛(はくぎゅう)は、天神村から八幡村へと伸びる御行幸道(みゆきみち)を一人、走っていた。
 道中、雨は上がったが、どんよりとした重苦しい空気に包まれている。白牛は天満宮からずっと走り通しで、荒い息を繰り返していたが、休む気にはまったくなれない。立ち止まってしまうと途端に、悔恨(かいこん)の念に呑み込まれてしまいそうだった。

 まだ激雨が降り続いていた頃、一人の傷だらけの眷属が境内に帰り着いた。
 牛姿でふらふらになりながら境内に入った所でばったりと倒れるとすぐに人型に戻ったその仲間に、気づいた白牛が駆け寄った。その眷属は、尾の楔の警護に向かった仲間たちが、民草の娘に宿った何ものかの力によって、恐らく全滅したことを告げ、そのまま息絶えた。
 その眷属をはじめ警護に向かわせた多くの弟たちが消えてしまった事実に白牛は愕然とした。そして自分が率いて行かなかったことを後悔した。こんなに事が早々に動き出すとは思いもしなかった。まったく読みが浅かったと言わざるを得ない。
 しかし、白牛は努めて冷静に残った仲間たちに指示を出し続けた。激雨によって村中に損害が出ている。救わねばならない民草も多くいる。雨とともに大柄な禍い者も降ってきている。その対応もしなければならない。やがて指示を出し終えると、すぐさま白牛は飛梅(とびうめ)のいる社殿内に向かった。そして報告した。飛梅は沈痛な表情をして聴いていた。そしてぼそりと言った。
「尾の楔が消えたようだ。先ほど大神様がそう感得された」
 白牛はあまりのことに厳しい表情をしたまま、ただ黙っているしかなかった。
「これだけのことがこのように急速に進んでしまうとはな。白牛、おぬし八幡村に行って八幡大神様のご意向を伺ってこい。ただし、おぬしらの身は大神様の大切な宝じゃ。おぬしらを含め大神様に害が及ばぬようにせねばならん。八幡宮はまだ一兵も損なっておらんのではないか?これ以上、我らは犠牲になる訳にはいかん。それが我が大神様のご意向じゃ。分かったな」
 飛梅の声が微かに震えていた。そこに仲間を失った悲痛と怒りが読み取れた。白牛は努めて冷静に、分かりました、と答えるとすぐに雨の中、出立した。

 白牛は走り続けていた。もうすぐ八幡村との境に達する。
 次第に雨が小降りになっていく。少しの間、地が揺れ、南の方から轟音が響いてきた。何かが起きている。けっして良い出来事ではないだろう。白牛の気は自然と(はや)る。
 彼の脳裏には尾の楔の警護に派遣した弟たちの姿や思い出が、延々と繰り返し映し出されていた。彼の両目は白目が見えないほどに充血していた。その赤い目に映る、二つの人影。
 あれは、間違いない。白牛は、八幡宮に向かう蝸牛(かぎゅう)たちの先触れとして遣わしていた、二人の弟たちに駆け寄った。
 近寄るほどに二人ともに憔悴(しょうすい)しきっているように見えた。寄り添い合い、今にも倒れそうな様子でよたよたと歩いている。
「そなたたち大丈夫か。いったいその様はどうしたのだ」
 二人は長兄に会って安心したのだろう、がくりとその場で座り込んだ。そして事情を説明した。
「八幡宮に向かう途中、その林の中で何者かに襲われました。そやつらは空を飛んできたため気づかず、不覚にも気を失い、今の今まで木に縛られておったのですが、何とか縛めを解いて逃れてきました」
 二人ともに衣服は乱れ、身体の各所に血がにじんでいた。彼らは変化すると身体が膨張する。だから、恐らく我が身を縛っている縄が身体に喰い込む痛みに耐えつつ変化し、縛めを解いてきたのだろう。
 白牛は二人の肩に手を置き、穏やかに言った。
「二人とも、ご苦労であった。お宮まで自分で帰れるか?」
 二人が大丈夫です、と答えると、白牛はにっこり笑って、
「そうか。我は用事があるから先に帰っていなさい。ゆっくり休むんだぞ」と言い残して、そのまま八幡宮に向かってずんずんと歩いていった。その顔には、けっして弟たちには見せない憤怒の表情が貼りついていた。
 いったいぜんたい何が起こっているのか訳が分からん。分からんが、弟たちを苦しめるやつを我は許さん。空を飛ぶ者、鳥の眷属か……いくら総社の眷属だとて、我が弟を痛めつけた報い、返さずにはおくものか。

 ――――――――――

 その頃、春日宮の境内の外れに立つ、一本の大きなイチョウの木から朱色の蛇が一匹、幹を伝って根元まで降りてきた。そして人型に変化した。

 ナツミは怒濤が迫ってきた時、もうどうやっても逃れられそうにないと思った。いくら水に慣れていると言っても、迫りくる桁違いの怒濤に抗う(すべ)など考えられなかった。それに足がすくんで動けなかった。
 そんな妹の手を取り、カツミは何とか逃げようと駆け出した。しかし、怒濤の迫る速さは容赦なく、すぐに追いつかれるのは明白だった。何とかならないか、何か良い手立てはないのか、必死にカツミは考える。すると地が揺れた。社殿奥の林の地がぱっくりと割れていくのが遠目に分かった。その向こうに天を衝くように伸びている一本のイチョウ。カツミはとっさに妹に変化しろ、と叫んだ。訳が分からぬままにナツミが変化すると、その尾を掴んで、鎖を振り回すように頭上で回した。ナツミは蛇姿だったので声は上げられなかったが、一瞬にして気が遠のきかけた。そして、いきなり投げ飛ばされた。カツミは鎖を目標に投げる要領で、ナツミの身体をイチョウの木に投げつけた。かなりの距離があったが、届け!と心中叫びながら、同時に怒濤に呑み込まれながら。

 ナツミは、泥土の中に倒木や岩が点在するばかりの荒れ果てた眼前の場景をただ眺めていた。すぐそこに大きな地割れ。その地割れに近づき崖の手前で手を着き、中を覗き込んだ。闇夜に慣れた目にも、黒々と大地の口中は果てしなく、こんな所に落ちてしまえば間違いなく助からないと確信させるには充分すぎるほどの深淵さをたたえている。カツミが落ちていく瞬間を見た訳ではない。しかし兄を呑み込んだ怒濤はほぼすべてこの地割れの中に落ちていったのだ。助かる術などあるはずもない。
“兄者!”もう、何の意味もないことは分かっている。もう、応えが返ってこないことも分かっている。しかしナツミは叫ばずにはいられなかった。
 わんわんと響きながらその高い声は暗色に溶けていった。
 ナツミはその場に座り込んだ。もう、何も考えられない。この短時間のうちに二人の兄を、掛け替えのない家族を立て続けに(うしな)ってしまった。その事実から目を背けたくて思考を停止した。ただ、その場で呆然と座り込んでいた。

 ナツミから少し離れた所で、ミヅキも呆然と場景を眺めながら座り込んでいた。その腕には雲形の木製台に乗った青銅製の鏡を抱えていた。

 怒濤が迫った時、周囲の隊員たちの数人は逃げようとどこかに走っていった。しかし、その迫りくる勢いに逃げても無駄だと、不思議にも冷静にミヅキは状況を分析していた。それに側にいる弥生もへたりこんで、逃げる様子がない。自分だけ逃げる訳にはいかない。ただ、静かにそう思っていると、いきなり背後から声が聞こえた。頭の中に直接響いてくる透き通るような声。
 ――ミヅキ、座を遷す。我の(ぎょ)を担げ。
 とっさに振り返ると社殿が見えた。無意識にミヅキは駆け出した。跳ねながら全速力で社殿に向かった。しかし、すぐに尋常でない圧力をともなった水流に襲われた。一瞬にして水の中。ただ、流されるしかない。この中では木の葉も眷属も大差ない、何ら抵抗もできず流されるだけ。
 すぐさま眼前に社殿が迫る。そしてあっという間に粉々に破壊された。ほんの一刻前には想像もできなかった場景。自分たちの存在の根源である大神様が鎮座する社殿が破壊されることがあるなんて、ミヅキはただ見つめることしかできない。
 そんな彼女の周りは柱や軒など、社殿に使われていた朱色に塗られた建材が漂っていた。すると唐突に、眼前に鏡が現れた。それは大神様の御霊が籠められた御神体。本殿奥に鎮まっているためにミヅキも初めて目にしたが、それが御神体だとすぐに分かった。だから手を伸ばし、台ごと懐に抱きしめた。
 そして次の瞬間には、宙を飛んでいた。足元で怒濤が瀑布のように地割れに落ちていく。そしてミヅキは裂け目の向こう側に降り立った。
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