第八章五話 時よ止まれ

文字数 4,857文字

 北方から天満宮の眷属たちが(まが)い者の群れを追っていた。
 彼らは、自分たちの村に現れた禍い者を駆逐していく内に、次第にその群れが南方へと移動をはじめたので、そのままここまで追尾してきたのだった。どうせ湖南部で生じている禍津神(まがつかみ)との戦闘に援軍として向かうつもりだったので、道すがらにでも退治できれば、くらいの気持ちだった。
 その十名余りの眷属も、タマやヨリモや蝸牛(かぎゅう)も頭上に見た信じられない情景に思わず声を忘れた。
 この恵那郷に神々が鎮座してからというもの結界はそこにあるものだった。それがなくなることなど考えられなかった。ほとんどの眷属が生まれ出る前から結界はそこにあった。そして、それはいつまでもそこにあるはずのものだった。それが、今、弾けた。弾けて消えた。
 初めてのこと、予想もしていなかったこと、考えもしなかったことが眼前に起こった。あまりのことに、たちまち自分たちが何をしないといけないか、考えることも忘れていた。ただ、考えるよりも前に、禍い者の群れが怒濤(どとう)をなして結界があった場所から外に雪崩(なだ)れ込んでいく。すぐにでも対処しなければならない状況が眼前に繰り広げられていた。

 マガはすぐさま戻りかけていた容姿を憤怒の形態に変化(へんげ)させながら自分の縄張りに入り込んできた侵入者たちを駆逐しに向かう体勢になった。しかし、すぐに恵那彦命(えなひこのみこと)が押しとどめる。
「やめろ、マガやめるんだ。我を忘れてしまっては、玉兎(ぎょくと)を取り込んでしまうかもしれない。自分を保つんだ。落ち着くんだ」
 その声に、落ち着いている場合じゃないよ、と思ったが、玉兎を取り込むなんて考えただけでもぞっとすると思い直して、自分の感情を抑制し、変化しようとする身体を制御した。
「でも、神、どうする?禍い者、いっぱいこっちにやってくる。倒さないと」マガの声に厳しい表情の恵那彦命が答えた。
「大丈夫、ここは私が対処する」そう言うと、恵那彦命は自分の前の空間に意識を集中した。空気が渦巻きはじめた。次第に速く大きく回転していく。それは向かってくる禍い者たちにじわりじわりと近づき、先頭の者から次々に取り込んでいった。
 そのつむじ風の中に取り込まれた禍い者は、渦の中を回っていく内に次々に鋭い空気の刃によってその身体を裁断された。細切(こまぎ)れになりつつ空高く上がっていく、そのようにして何体もの禍い者が姿を消していった。
「さすが神。このまま全部やっつけて」そう嬉々としてマガが声を上げた途端、ふとつむじ風が消えた。上空から裁断された禍い者の身体がぼたぼたと地に落ちてきた。何事?と思いつつ振り向いたマガの視線の先で恵那彦命がぐったりと膝をついてうつむいていた。
 あまりにも一度に力を使い過ぎた。あまりにも多大な力の襲来に耐え続けていた。あまりにも不浄に触れ続けてきた。恵那彦命は自分でも気づかぬうちにいつの間にか気が枯れた状態に陥っていた。神々は周囲が清浄であればどれだけその大御力(おおみぢから)を発現させてもすぐに回復する。だから余程のことがない限り、気が枯れないように清浄の地である社の境内から外に出ることはない。どうしても出なければならない場合は、自分の分御霊(わけみたま)を差し向ける。しかし、分御霊を差し向けるためには()(しろ)()る。それに分御霊を招く者が要る。それを運ぶ者が要る。恵那彦命にはそういった者が足りなかった。だから自らがここまできて、激しく力を発現させた。そして気が枯れてしまった。
 マガは戸惑った。かつてない神の姿に。すぐそこまで怒濤の如く迫っている禍い者たちの姿に。そして自らの体内に宿る玉兎の存在に。
 神を助けたい、玉兎を救いたい、村を守りたい。マガはたちまちのうちに覚悟を決めた。この姿のままで禍い者たちを退ける。自らの荒魂(あらみたま)を封じ、この姿のままで神を、玉兎を、村を守る。その覚悟のままにマガは禍い者たちに向かって一声、轟くが如くに大きく吠えた。

 神鹿隊(しんろくたい)の眷属たちも、ナミも結界が弾ける瞬間を呆然として眺めていた。自分たちを守護していた頼みの綱が唐突に切れた。もう彼我(ひが)(さえぎ)るものは何もない。
 禍津神(まがつかみ)はもはや慌てなかった。状況から、もう眼前の眷属や正体不明の女には逃げる術さえ残されていないことを確信しているかのようにすーっと宙を飛んで彼女たちに近づいていく。右側に大きく傾いた首を大きく回す。ぐぎぎ、ぐぎぎ、と音がする。左腕を回す。背中が(ねじ)れてうまく動かない。右腕と尾は再生しかけているがまだ時間が掛かりそうだった。もう、お遊びはこの辺にしよう。せっかく何百年も地中に堆積した結果、地上に出ることができたのだ。こんな狭苦しい獄から外に出よう。広い世界を飛び回ろう。とりあえず邪魔者は消しておこう。
 すぐにでも衝撃波を見舞ってやろうかと思った。しかし、眷属たちには衝撃波では多大なダメージを与えることはできても消滅させることはできないとこれまでの戦いで悟っていた。それならば全員喰いちぎって取り込んでやろう。先ずは我の腕を斬り落とした奴の腕を引きちぎり、首を喰いちぎってから、ゆっくりと取り込んでやろう。

 サホはハッと我に返ると慌てて声を張り上げた。
「三番隊、四番隊、矢を、矢を放て」
 その声に誰一人として矢を放つ者はいなかった。どの隊員の心中にも諦念が色濃く立ち上っていた。これまでも無数に矢を放っている。しかしいくら的中しても大した損傷を与えてはいないようだ。相手は神々の張った結界を破るような存在。歯向かってはならない存在なのではないか。恐れ(かしこ)むべき存在なのではないか。
 力なく立ち尽くしている隊員たちを見回してサホも諦め、そして覚悟を決めた。
「退避。神鹿隊、総員退避せよ」
 そして剣を抜き放ち、構えた。自分は逃げる訳にはいかない。せめてもうひと太刀、命を賭してでも、刺し違えてでも……

 神鹿隊々員の後方でナミは地に座り込んでいた。予想の遥か上をいく、この状況にどう対処するべきか、必死に考えていた。
 その後方、誰もいないはずの空間に、唐突に何の前触れもなく人影が現れた。
 その影の主は、辺りをさっと見回し、手のひらに浮かんだデータ資料を眺めておおよその状況を把握しながらナミのすぐ背後に立ち、声を掛けた。
「あなたの抱える現状の問題点はその空中にいる異形の生き物によって生じている。間違いない?」
 ナミは目を見開いて瞬時に振り返った。そこにはダークスーツに身を包んだ年の頃はナミと変わらない程度に見える中肉中背の女性の姿。黒いスニーカーを履き、大きな丸いレンズがはまった黒ぶちの眼鏡と無造作に黒髪を後頭部で束ねた機能性重視といった趣の身なりで立っていた。
「アナ!」ナミは思わず無遠慮に声を上げていた。「何であなたがここに?」
「あなたの情動指数が長時間、危険水域を超えている。原因の究明と問題の除去の必要があったのだけれど、あなたに連絡しても応答がない。(いちじる)しく緊急の問題だから誰かを派遣しなければならなかったんだけど、ちょうど他に適当な人がいなかったから仕方なく私が来た」
 ナミは、あまりのことに言葉が継げず、かろうじて、そう、とだけ言った。
「あの異形の生き物を倒せば、問題は解決する。間違いない?」
「ええ、そうね」と答えながらナミは極力、事務所を出たがらないアナが現場に出向している現実に状況の深刻さを初めて自覚した。本部としては自分の情動が看過できないほどに激しく動いていたということだ。アナが出向してくるほどに。
 ナミの返答を聞くが早いか、アナはそのまま禍津神に向かってためらいもなく歩を進めた。緩やかに下り坂になっている。神鹿隊が負傷者を引きずって後退した跡がかろうじて通りやすくなっていたのでその上を足早に進む。じわりじわりと後退していく神鹿隊々員たちとすれ違いながら、間もなくサホの横に辿り着いた。そしてその手に持っている剣に視線を向けた。
 サホは禍津神にすべての集中力を注いでいた。それでも自分の横に誰かが並び立ったことには気がついた。きっと神鹿隊の誰かだろう。まだ自分とともに戦おうという殊勝な誰かが並び立っているのだろう、と思った。が、唐突に思いもしないことを言われた。
「それ、借りますね」
 え、何て?と(いぶか)しんで自分の横に首を回そうとした瞬間、禍津神が急速に自分に近寄ってくる気配を感じて、また慌ててそちらに視線を向けた。一直線に赤い目をこちらに向けて飛んでくる。くそ、と独り()ちながら横っ飛びに回避しようとした。まさにその時、耳朶(じだ)に流れてくる呟くような声。
 “時よ止まれ”
 一瞬、大気が揺れた気がした。そして自分の手から剣が消えた。
 サホは跳躍しながら、その声の主を捜した。姿が見えない。消えた?と思うと同時にパッと姿が現れた。もの凄い速さで小刻みに動いている。その手にはまごうことなき自分の剣。なぜ、いつの間に?その間にも前方から急速に禍津神が近づいてくる。きっと自分が腕を斬り落としたことを覚えている。その恨みを晴らしにやってきている。徒手空拳の身でどうやって禍津神に対処せよというのか。なぜ自分の剣をかの者は持っている?あいつは誰だ?これはいったいどういう状況だ?
 サホの困惑を気にもとめずにアナはゆっくり歩きながら手に持った剣を肩に担いだ。思ったより重い。片手では扱えないほどに。まあ、一振り何とか振り下ろすことができれば問題は解決する。相手がこの剣の持ち主目掛けて今、地上すれすれまで降下してきている。何とか手を伸ばせば届きそうだ。少し急ごう。
 足早に歩くアナの視線の先には空中をゆっくりと移動する禍津神の姿。彼女の目には醜悪にしか見えない、身体中に傷を負い、無数に矢を突き立てた異形の生き物。そのすぐ横まで辿り着くと両手で剣を持ち、大きく振りかぶった。そして自らの背面から身体全体を使って剣を振り下ろした。
 禍津神は突然、何の予兆もなく自らのかたわらに何かが出現したことに驚き、とっさにその赤い目を向けた。そこには剣を頭上高く振りかぶっている女の姿。慌てて目に力を込めて衝撃波を放とうとした。しかし次の瞬間、その目に宿る力がふっと抜けた。目に映っていた場景がぐるりと回る。
 木々の幹が見える。高木に茂る枝葉が見える。その合間に見える(まぶ)しいほどに明るい空の青。先ほどまで我に矢を放っていた眷属ども。自分の腕を斬り落とした眷属。突然現れた剣を持った何者か。その剣を振り下ろしている姿。そして自分の胴体。
 禍津神は今、この場にいる誰よりも自分は強い存在だと思っていた。当然、自分がやられることなど思いもしなかった。だから状況がうまく掴めなかった。我は結界を破った。これからは自由に外の世界を飛び回る。災厄を地中から助け出し、更に力をもらってこの世の誰よりも強い存在になる。そして自分の好きに生きてやる。これまで何百年も地中に埋まっていたのだ。それくらいは当然してもよいだろう。これから、すべてがはじまる。もう、暗闇も、狭い場所もたくさんだ。これからは広く明るい空の下で……
 アナは禍津神の頭が地に落ちた様子を見届けて、張っていた気をおもむろに緩めた。とたんに周囲にあるすべての動く速度が、まるで泥土から清水に場所を移したかのように抵抗を減じてスムーズに動き出した。
 これはアナ特有の送り霊としての能力。実際、彼女にも自分の動きが速くなっているのか、自分を除く周囲の時間経過が緩慢(かんまん)になっているのか分からなかったが、おおよそ五倍から十倍程度経過が遅くなった時間の中で、彼女だけ通常に動くことができた。ただ、霊力の消耗の激しい能力だったので、一度に使える時間がそれほど長くなく、繰り返し使えないのが欠点だった。
 地に倒れ伏した胴体から少し離れた場所に禍津神の頭部が落ち、何度か跳ねて止まった。赤い目はゆっくりと光を失い、突出した口が微かに動く。何かを訴えかけているかのように。そして胴体も頭部もごくゆっくりと溶けていき、黒いシミを残しながら地面に染み込んでいった。
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