第十二章十話 完全なる一人の道のり

文字数 4,953文字

「やはり、やはりな」エボシがマコモのかたわらに降り立ちながら言う。「言ったでしょう?あの(まが)の者はこの村に徒成(あだな)す存在だと。即刻、討ち取りましょう。これ以上、禍根を残すことはありません。あの者を討ち取り、亡骸(なきがら)白牛(はくぎゅう)殿とともに天神村に送り返せばいい。悪いのはすべてあの禍の者です」
 蝸牛(かぎゅう)は目の前の情景に実感を得られなかった。自分は何を見せられているのだろう?幾本ものマガの針が兄の身体を貫き、兄は驚愕の表情を浮かべ、そしてすぐに苦悶の呻き声を上げた。
 その時、睦月(むつき)の身体は空中にあった。意識の奥から跳べと言われて即座に従っていた。そしてマガを背負う蝸牛の頭上に達すると、左腕が突然、伸び広がって、周囲を更に攻撃しようとするマガの針の進行を抑え、そして一気に蝸牛の上半身ごとマガの全体を覆った。同時に「秘鍵(ひけん)」と睦月の口から声が出た。その声に秘鍵は反応し、背に複数の尾を現出させた。その声がまるで長年連れ添った仲間の口調に似ていたから。
 やむを得ん、マコモは覚悟した。事ここに至ればもう穏便に済ませることなどできない。あの禍津神(まがつかみ)は討ち取らざるを得ない。そうしないと事態が収拾できない。
「その禍の者を討ち取れい。他の者は捕らえろ。抵抗するなら滅してもよい」
 一斉に八幡宮の眷属たちが蝸牛やマガに襲い掛かる。睦月は右手に剣を持っているが、左腕で覆っているマガが暴れるのでちゃんとした迎撃態勢が取れないでいる。
 秘鍵はそんな彼らを助けるべく、自分を取り囲んでいる熊野神社の眷属たちを尾で次々に倒していった。なるべく滅さないようにという理性は働いたが、ある程度、傷つけるのは仕方がないと覚悟してのことだった。そうしないと、けっして包囲は解けないだろう相手だった。
 蝸牛たちに向かって槍が繰り出される。数が多い。左腕がマガを包んだままで身動きが取れない睦月は、避けきれないと覚悟した。その時、マガの針で身体を貫かれて膝を折っていた白牛が立ち上がった。(またた)く間に八幡宮の眷属たちの群れに突っ込んだ。何本もの槍先を身体に受けながら。
「兄者、やめてください」
 睦月の左腕に上半身は包まれていたが、蝸牛の顔は外に出ていた。だから、長兄の戦う姿、傷ついていく姿がよく見えていた。蝸牛はあらん限りの声を出す。いつも自分を甘やかす、いつも自分たちのことを考えて、世話してくれる長兄に、最大限の願いを込めて声を出した。
 白牛殿、と声を掛けながら秘鍵が近寄る。熊野の眷属の中で地上にいた者はあらかた倒し終えた。そのあまりの勢いに数名が空中に逃避して残っていたが、とりあえず白牛の助太刀に駆けつけた。
「秘鍵殿、こんなことに巻き込んでしまって申し訳ない。迷惑ついでにもう一つ。蝸牛を連れて逃げてくだされ。そのくらいの時間は稼いでみせる」
「何を仰います。二人で敵を倒して白牛殿も一緒にこの村を出ましょう」
 そう言われて白牛はふと視線を秘鍵に向けた。それはとても穏やかな表情で。
「それは稲荷の大神様の大御意(おおみごころ)であるか?こんなところで禍根を残せば稲荷の大神様にご迷惑が掛かる。これは我ら天満宮の問題。そなたはどうかみんなを逃がしてやってくだされ」
 確かに秘鍵はここに、災厄が(いまし)めから解き放たれたことへの善後策を打ち合わせるために来ているのだ。この郷中八社の和を以て災厄に対抗する、そうするために来ているのだ。ここで更に争えばそれを望む稲荷神の意に背くことになる。
「分かりました。蝸牛殿のことは我にお任せください。白牛殿も頃合いを見てお逃げください」
 秘鍵はしっかりと白牛の覚悟の定まった目を見つめた。ああ、と答えつつ白牛は八幡宮の眷属たちに向き直った。
「蝸牛、そなたは旅を続けよ。自分の信じた道なら、振り向かずに前へ進め。そなたがその旅で得られるものがあるのなら、そう信じられるなら、振り向かずに進め」
 白牛は相手から分捕った槍をやたらめったら振り回しながら、振り向きもせずに声を張り上げた。その後ろ姿、分厚い背中、大切な者たちを何があろうと守る、その信念が具現化した頼りがいの固まりのような背中。すべての災いから自分を守り続けてくれた背中に向かって蝸牛は更に叫んだ。
「兄者!」

 ―――――――――――

「次は無音の行じゃ」静謐(せいひつ)とした堂の中に猿山(えんざん)の声が響く。
 タカシは、山頂にいたった後、引き続きマサルやクロウの手助けを得ながら何とかここまで戻ってきた。正直、体力も気力も限界を超えていた。手のひらをはじめ身体中が痛みに悲鳴を上げている。しかし、猿山は特に褒めも(ねぎら)いもせず、ただ瞑想することを要求した。そして時間を掛けてタカシの気分が落ち着き、深い瞑想の中に沈んでいくと、その頭の上に手を置き、言った。
「これからすべての行を終えるまで、すべての音が無くなる。そなたは耳に頼らず目に頼ることになる。見ることによって己を知るのだ。己の内にあるものを外の世界に見て、そこから真理を見出すのだ。いいか、見えるすべてが正しい真実なのではない。その中から真なるものを正しく見出すのだ。しっかりとすべてを見て、真理を見出せ」
 その声がやむとすべての音が消えた。外を吹く風の音も、虫の鳴き声も、すべてが消えた。無音の世界。それは経験したことのないほどの不安を掻き立てる世界。
 多聞峰(たもんほう)思惟峰(しゆいほう)修行峰(しゅぎょうほう)と先ほど通った道をたどっていく。もう、マサルもクロウもそばにいない。自分の力で登らねばならない。判断一つ(たが)えば窮地に陥ってしまう危険がある。慎重に思い出しながら登っていく。しかし、何も聞こえなければ予兆を感じづらい。常に周囲に視線を向け、気を張っていなければ、風に飛ばされ、落ちてきた岩に身を打たれてしまう。これまで耳に頼っていた部分がいかに多かったのか実感させられる。
 そうこうしている内に、自分がいかに周囲に目を向けていなかったのか、気づかされた。多聞峰では一つひとつの岩、そして岩と岩との配置を見ている内におおよそどこに足を置き、体重を掛ければいいのか分かりはじめた。思惟峰では手を掛けられる窪みや突起の存在を新たに発見した。それは手もとだけではなく頭上だったり、足もとだったりそれまで視線を向けていなかった場所、それでも見ようと思えばよく見える場所にあった。また修行峰では、よく見るとこれまでの修験者たちが登っていった道筋のようなものが薄っすらと浮かんで見えた。
 そして彼は、山頂に達した。もちろんマサルやクロウがおらず、体力的にも回復していなかったため、時間は長く掛かったが、それでも何とか一人で(いただき)に立った。
 周囲を見渡す。不思議と朝陽はまだ東の空にある。恐らくかなりの時間を要したはずだが、と思いつつタカシは下山をはじめた。

「次は無明(むみょう)の行じゃ」
 再びお堂まで下りてきて、命じられるままにタカシは瞑想をはじめた。憔悴しきったような顔、浄衣も所々破け、汚れている。あともう一往復を残すのみ。マサルもクロウも微かな希望を抱いているが、それでも最後の無明の行はこれまでと比べものにならないくらい危険であり、過酷だった。眷属でも音を上げるほどの難しい行だった。それを思い出すと微かな希望は急にしぼみ、やはり無理かな、という思いに(さいな)まれる。しかし、瞑想するタカシにはそんなことは分からない。ただ集中して瞑想している。この民草(たみくさ)の諦めの悪さ、それだけが希望だった。
「残るはこの行のみ。そなたはこの行の間、視覚を失う。声も出せず、音は聞こえず、何も見えない状態で頂に達しないといけない。そなたはこの行の間に幾千幾万の声を自らの内に聞くだろう。その中から真理を見出し、それを自らの声となすのだ。それが唯一の光明となる」
 タカシはいまだ聴覚がないままだったが、猿山の言葉は念となり脳裏に染み込んで、その意味が自然と理解できた。
「くれぐれも自らに負けぬように。この行が満願できるかどうかは、ただそれだけに掛かっている。さあ、行け。峰の入り口まで先達が案内する。そこからはそなた一人だ」
 そして視界がなくなった。予想していたこと、それでも目を開いても漆黒しか見えない状態にこれ以上ないくらいに戸惑いを感じる。そんな彼は、すぐさま有無を言わさず、手を引かれていった。その歩調からして恐らく手を引いているのはマサルだろう。そしてしばらく歩いた先で、ふとその手が離れた。恐らくそこが峰の入り口、正面から道がはじまっているのだろう。
 恐ろしく怖い。マサルがまだ近くにいるのか、もう遠ざかってしまったのかも分からない。完全なる一人。しかし行かなければならない。一歩々々、恐る恐る前に出す。そこに何があるのか確かめながら進む。二往復した道のりを細部まで詳細に思い出しながら進んでいく。ただ、恐々と足を出しているせいか、あるはずの岩がない、ないはずの岩がある。記憶と手や足に触れる感触をすり合わせながら、わずかずつ進む。岩の間を這うように、なるべく岩肌に身体を密着させるようにして進む。そうして幾つもの岩を越え、幾つもの岩から下りる。その間、何度も落ちた。足を滑らせたり、踏み外したり、バランスを崩してもとっさに対応ができないために岩の下まで落ちる。その度に身体を打ち付け、悪い時には途中で止まらず、かなり下まで落ちていった。何度も気を失い。激痛を味わった。ただ、意識を取り戻すと激痛は次第に和らいでいく。しばらくするとまた登れるようになる。ただし、一度落ちると自分がどの方向に向かうべきか分からなくなる。ただ、記憶と風の向きや周囲の岩々の傾斜、ぼんやりと感じられる陽のぬくもりから、あらかた見当をつけて進む。
 恐る恐る迷いながら進み、何度も滑落したせいで、多聞峰を登攀(とうはん)し終える頃にはもう、精も根も尽き果てていた。恐らく時間もかなり掛かっている。もしかしたら丸一日くらい経過しているのではないだろうか。
 焦りはない。それ以上に、苦痛や恐怖が彼を苛んでいる。そんな自分の内から上がる悲鳴を極力無視するように努めた。ただ、淡々と進むことだけに集中する。
 そして探し続けてやっと思惟峰の入り口らしき細道にたどり着いた。そこが本当に入り口なのかまったく自信はなかったが、他に向かう道もないようなので間違いないだろうと見当つけていく。
 この道上でも風に落とされないように這うように進む。一本道なので迷う心配はなかったが、予想できない風に吹き飛ばされないように少しも気を抜けない。進むよりも道にしがみついている時間の方が遥かに長い。風が吹くたびに道に腹ばいになる。少しでも身体を浮かせるとたちまち奈落の底へ吹き飛ばされる。こんなことで本当に登りきることができるのだろうか、そう思わないでもなかったが、そんなことより滑落してしまうことへの恐怖が勝っていた。
 怖い、怖い、怖い、という自分の声。行くこともできず、戻ることもできない。これまでの行が何の意味もなかったかのように、彼はその場で動けなくなった。
 何でこんなことになったのだろう?何で俺はこんなことをしているのだろう?次々に自分の声が聞こえてくる。もう、こんなことうんざりだ。こんなこともうやめにしよう。きっと何の意味もない……
 ひとしきり自分の声を聞いた。そして彼は顔を上げた。声が湧出する脳裏にまだ、これをすると決めたのは自分だ、最後までやり遂げたい、こんなところで諦められない、そんな思いが残っていたから。
 這ったまま、少しずつ前に進む。途中、何度か落ちかけた。その度に踏ん張り、何とか踏みとどまった。そしていつしか道は下り坂に変わっていた。
 緩やかに蛇行しながら伸びる下り坂に差し掛かった途端、風は下から吹き上げてきた。その風を全身で受けながら進む。途中、傾斜がきつい場所もあり、這っていくのは難しかったので、中腰になって少しずつ先にいく。風の強弱を感じながら、道の曲がり具合を手探りで確認しながらも少しずつ速度を上げて進む。この具合なら思惟峰を登攀(とうはん)し終えるのはそれほど困難ではないだろう、そう彼が思った矢先、その足場がなくなった。道が崩れたのか、足を踏み外したのか、彼の両手は宙を掻き、足は地を探した。しかし、そのまま彼の身体は急な斜面を滑落していった。
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