第三章五話 天満天神の大御力

文字数 3,691文字

 いつの間にか林の中は静寂に包まれていた。先ほどまで重層的に辺りを圧していた(せみ)の鳴き声や木立の間を貫くような鳥の甲高いさえずりも欠片さえ聞こえてこない。ナミは音を立てないように空中に浮かんだ状態で、来た方向へと慎重に、周囲に気を配りながらゆっくりと戻っていった。
 ついさっきまで、これ以上ないほどの威圧感を振りまいていた異形の者、彼女たちが林に飛び込むまでは確かに追ってきていた。その気配が濃厚に感じられていた。しかし林の中にはどこにもそれが感じられない。
 林の中の道のりを半分ほど戻った所で、ナミは一度振り返った。木の陰からマコが顔を出している。その心配そうな目に視線を合わせる。と、その時、何かの咆哮(ほうこう)が辺り一面を震わせるように響き渡った。
 何?ナミはとっさに湖の方向に視線を移した。その咆哮の主は恐らく先ほどの異形の者。ナミは更に慎重に、ゆっくりと湖へと向かって進んでいった。
 林の端に近づいたところで停止して、辺りで一番大きく高い木の陰に隠れながら湖の方向を探った。すぐに空中に浮かんでいる異形の者の姿を見つけた。それは、おもむろに口ばしを大きく開き、自らの前面に向かって再び咆哮を放った。
 すると異形の者の前面の空間が激しく、ぶあんと歪んだ。先ほどナミたちに放っていた衝撃波だろう。その歪みは湖面を越え、田園に差し掛かった所で急に弾けて砕け散った。その瞬間、ナミの双眸(そうぼう)に空中に張られた太い縄の姿が映った。その縄には等間隔に白い紙片が垂れ下がっており、ぐるりと湖を囲むように張られていた。
 あれは注連縄(しめなわ)だ。そうとう長い……。そうナミが思う間にその姿は消えた。先ほど通過した時には気づきもしなかった。もしかしたら、あの注連縄のお蔭であの鳥男はこっちに来られないのかしら?
 異形の者は再び吠えながら衝撃波をナミたちがいる林に向けて放ったが、しかし再び注連縄が現れてそれを瞬時に消し去った。
 やがてナミは気づいた。異形の者の頭上に暗雲が渦巻いていることを。
 グオオンゴロゴロ……ゴオオンゴロゴロゴロ……ゴロゴロ……
 不穏な音。異形の者の頭上に暗雲が集まり急速に膨らみ次第に色を濃くしていく。暗雲の所々が(またた)くように光り続けている。急速に辺りは暗くなっていく。ナミは嫌な予感を抱いた。ここにいてはいけない気がする……。
 突然、空中に閃光(せんこう)が走った。
 何本もの稲妻。その一本が異形の者を貫いた。
 異形の者は、ただの土くれのように力なく落下していき、激しい水音を立てて湖に着水すると、そのまま、ぶくぶくと沈んでいった。
 稲光が走った瞬間をナミは視認した。凄まじい光と音、何とか耐えて、異形の者の姿を探そうと思った。しかし、その次の瞬間、生じた真っ白い光を感知したと同時に彼女の意識が消えた。
 稲妻が彼女のすぐ近く、正確には彼女が身を隠していた木の梢に落ちていた。

 雷光一閃、たちまち天満宮の境内に満ちていた緊張感が最高潮に達した。
「落ちたぞ。臥龍川(がりゅうがわ)じゃ。すぐ様子を見てまいれ。白牛(はくぎゅう)、用意はいいか。太鼓を鳴らせ、これより大神様の鎮魂祭(ちんこんさい)を斎行する。先ずは祓いを(しゅう)す」
 典儀(てんぎ)役である飛梅(とびうめ)の一声によって祭典が開始された。そこは社殿(しゃでん)の前の広庭に設けられた臨時の斎場、眷属たちが祭員となり粛々と祭儀を進めていった。
 そんな様子を窺い知ることもできず、タカシたちは、飛梅たちの勧めの通り、社殿から離れた林の中でなるべく背の高い木の下で、先ほど受けたお札を頭の上に載せてじっと座っていた。
 空の雲は更に濃く厚く激しく流れていた。そしてやむことなくゴロゴロ、ゴロゴロと雷鳴が響いている。
「掛けまくも(かしこ)き天満宮の大神の大前に(かしこ)み恐みも(もう)さく……」やがて社殿前で、祝詞(のりと)を広げた状態で白牛が奏上(そうじょう)をはじめた。「……大神の御境内(みかきぬち)忌庭(ゆにわ)に立てたる御竿に大御力(おおみぢから)なる(いかづち)を放ち(たま)ひ下し給えと申すことを聞こし()せと……」
 祝詞を奏上しはじめてから境内の上に周囲から暗雲が流れ込んでくるように、渦になって集まり出していた。重い空、雲は低く垂れ込めている。雷鳴が近い。
「……荒御魂(あらみたま)鎮め給えと鹿自物(かじもの)膝折(ひざお)り伏せ鵜自物宇奈根(うじものうなね)突き抜けて恐しこみ恐しこみも乞ひ()み奉らくと白す」朗々と奏上する白牛の全身から緊張感が漂っている。声が震え出すが気力を振り絞って最後まで奏上し終えた。
 雷鳴の轟きが雲の中で響き続ける。黒い雲がその度にあちこちで光を発する。かなりの数の雷がそこで走り回っているようだった。
「よし、竿を上げい!」飛梅の掛け声に合わせて四名の眷属が、地に伏せてあった三尋(さんひろ)はあるだろう細く長い木の竿を立てた。竿が眷属たちによって真っ直ぐに立てられると、それに角牛(かくぎゅう)が近づいて両手で掴み、踏ん張った。そして、小声で、よしっ、と他の眷属たちに合図した。他の眷属たちはゆっくりと手を離した。
「角牛、頼んだぞ。者ども、退避。速やかに避難せい」そう言い終わるとスーッと音もなく老婆は後方へと退(しりぞ)いていった。同時に他の眷属たちも各々、角牛から離れていった。
 暗雲は渦巻き、稲光はその中を激しく走り、雷鳴が間断なく轟き続けた。
 その不穏な空の様子をタカシたちは眺めていた。
 突然、その視界に存在するすべてのものが光った。そしてドシャ―ン!ととてつもない圧力で叩きつけるような轟音がすべてを打ちつけ、地が揺れた。
 あまりのことにタカシたちはとっさに目を(つむ)り、その余韻が収まった後、雷が落ちた天満宮境内(けいだい)を呆然と眺めた。
 境内の広庭に先ほどまで立っていた長い竿の姿はもうなかった。そこにいたはずの角牛の姿も。そこには黒く丸い物体があるばかりだった。
 やがて周りからその黒い物体を囲うように眷属が集まってきて、そのうちの二名が担いできた(ひつ)の蓋を開け、その黒い物体を中に入れた。
「角牛、ようやったな。まあ、二、三年もすれば元の姿に戻れるじゃろう。ゆっくり蔵の中で休んでくれ」いつの間に来たのか櫃のかたわらに飛梅が立っていた。
「さあ、楽を鳴らせ。舞を舞え」櫃が二名の眷属に担がれ運ばれていくと飛梅が周囲に命じた。慌てて楽器を手にした眷属が篳篥(ひちりき)(しょう)龍笛(りゅうてき)の三管で雅楽(ががく)を奏で、その音曲にあわせて二名の眷属が舞いはじめた。
 その頃には、頭上にあった雲は渦を止め、光ることもなく、静かに佇んでいた。そして少しずつ、空に吹く風に乗って、彼方へと去っていった。やがて舞人たちに天から陽光が降ってきた。それは見る見るうちに広がって辺り全体に行き渡った。先ほどまであれほど厚く濃く渦巻いていた黒雲はいつの間にかその欠片も残さず消えていた。
「いったい何が起きたんだ?君の仲間たちはいったい何をしたんだい?」
 遠目に祭典の様子を窺っていたタカシが隣にいる蝸牛(かぎゅう)に訊いた。少しの間を開けてから蝸牛が答えた。
「大神様の余った大御力(おおみちから)を集めて、一か所に放ってもらうための祭典をしている。大神様の大御力はとてつもなく強大だから排除するべき者がその存在をなくした後も、そのお力がどうしても余ってしまう。やがてそれが民草(たみくさ)の身や家の近くに落ちるかもしれない。山に落ちて火事が起こるかもしれない。そういった災いを防ぐため、ああして祭典を行って残ったお力を一つ所に放っていただいている」
「あの音楽と踊りは?」遠目に音楽が聞こえ、眷属たちが舞っている姿が見える。
「あれは祭典の一部で、雅楽を奏で、舞い踊ることで大神様の大御心を慰め、荒ぶる御魂(みたま)を鎮めるために行っている」
「ふーん」タカシは立ち上がった。彼にあわせるように周囲の者たちも立ち上がった。タカシは蝸牛に向けて、手に持ったお札を返しながら声を掛けた。
「これは返すよ。じゃ、俺たちは行くよ。急いでるんだ」
 蝸牛は何か言いたそうだったが、少し待っても何も言わないので、そのままタカシは歩きかけた。するとすぐ横で声が聞こえた。
「まあ、そんなに急ぐことはないだろう。ここまで来て大神様に挨拶もなしではあまりにも不敬というもの。それになぜ、おぬしのような民草(たみくさ)御行幸道(みゆきみち)にいるのか、その訳も聴きたいしな」
 タカシがとっさに声のした方を向くと老婆がすぐ近くに立っていた。
「いつの間に。瞬間移動か?」
 ルイス・バーネットが驚きの表情を見せながら呟いた。
「飛梅様は、一晩で都から筑紫(ちくし)大宰府(だざいふ)まで飛んでいったという伝説をお持ちの方です。そのくらいのことはできるでしょう」
 横合いからヨリモが言う声に、ルイス・バーネットが、ああ、と声を発し、「それは、東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花、の伝説だよね?」と続けた。
「おぬし、なかなかよく知っているな」老婆が少し嬉しそうに笑っていた。
「いえ、有名なお話ですから」
 そう言うルイス・バーネットの目を少しの間、飛梅は凝視した。その深奥に潜むものまで見通そうとでもしているかのような視線だった。
「おぬし、なかなか智慧があるようだし、異能の持ち主でもあるようだ。ふむ。おぬしたち、なかなか見所がありそうだ」
 老婆は更にニヤリと笑うと蝸牛に向かって、「この者たちを社殿まで案内せい。丁重にな」と指示を出すと自分は先にスーッと音もなく移動していった。
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