第十四章七話 とても深い泉のような

文字数 5,270文字

 道の先から漂ってくる悪臭と威圧感に一行の足取りは自然と重くなっていった。突然、襲撃されるかもしれないし、何かの罠が待ち構えているかもしれない。誰もが全身の神経を(たかぶ)らせ、周囲を警戒しながら一歩々々慎重に進んでいく。
 松明を持っていた先行の者たちは負傷した者たちのもとに残してきた。だからルイス・バーネットが後方に、ナミが前方にいて身に着けた白い玉で辺りを照らしていた。
 そんな一行の後方で、リサは頭の中に響く声に悩まされていた。地下深くに進めば進むほどその声が強くなる。音量が増す訳でも調子が変わる訳でもないが、その声に込められた力が増しているような気がする。自分の正常な思考が後退して、すべてを捨ててもその声に従わなければならない気がしてしょうがなくなってくる。だから周囲の眷属たちの進行の速度が落ちてもふらふらと前に進み続けていく。
「ちょっと待ってください。もう災厄が近い。これからは慎重に進まなければいけません。無闇に前に出ないようにしてください」と言いつつ自分たちの前に出ようとするリサをヨリモが制する。しかしリサはまったく聞いていないようで、そのまま変わらず進んでいく。その様子に近くにいたナツミが、
「ちょっと、うちらはあんたを守ろうとしてんのよ。勝手に動いたら困る。あんたは後方からついてきなさいよ」と厳しい口調で言う。しかしそれでもリサは止まろうとしない。ったく、何がしたいのかしら。これ以上、うちらの言うことを無視するんなら縛っておくしかないかしら、とナツミが思っていると、群れの前方から、
「何かくる。全員、迎撃態勢を取れ」というサホの声が唐突に聞こえた。
 ナミが空中に浮かんだままで前方を照らすために少し前に出ていく。すると道の先にもぞもぞと(うごめ)く土気色の物体の群れ。急速にこちらに近づいてくる。
 慌てて神鹿隊(しんろくたい)の三人が迎撃態勢を取る。先頭の巨大な(まが)い者が自分の方へ襲い掛かってくるのをミヅキが剣で斬り払った。
 とたんに斬り口から土気色の体液が辺りに飛び散る、と同時に周囲に更なる濃厚な悪臭が拡散した。その体液の一部がミヅキの腕に掛かり、ミヅキとそれに気づいた睦月(むつき)が、思わず顔をしかめた。こんな悪臭を放つ液体がついたら臭いが取れなくなっちゃう、とミヅキが困惑していると、急にその腕から力が抜けた。あれ?と思っていると続いて気分が悪くなってきて、思わずその場にヒザを着いた。
 斬ってはいけない、とっさにそう察して睦月が左腕を突進してくる禍い者たちの前面に広げた。
 どどーん、とその防御壁に禍い者の群れが衝突した。睦月は当然のごとく後方に飛ばされる、そこをサホやすぐ後ろにいたマサルやクロウが押さえてとどめる。すごい重圧、すさまじい力で押される。気を許すとすぐに防御壁を破られそうだったので、更に集中して左腕を強く輝かす。するとじりじりと光が睦月の首筋を登っていく。(あご)を過ぎ、(ほお)に達する。
「睦月殿、退()がりなさい」
 後方にいた秘鍵(ひけん)がとっさに駆け寄り、睦月の左腕を上から抑えつけた。睦月が驚いて集中を途切らせると防御壁は急速に縮んでもとの左腕に戻っていった。それに連れて禍い者の群れが彼女たちに襲い掛かってくる。すぐさま秘鍵が尾を繰り出し、何体もの禍い者を串刺しにして撃退した。
 更に後から後から襲いくる禍い者たちを次々に尾で突き刺し倒していくが、その度に禍い者の身体が破裂して、体液が辺り一面飛び散り、悪臭が濃度を増していく。
 左の首筋を苦しそうに押さえている睦月と腕を押さえて苦しんでいるミヅキを引き連れてサホは後方へ退いた。入れ違いに前に出た玉兎(ぎょくと)息吹(いぶき)を放ち続ける。しかし秘鍵の攻撃は早く強く確実に禍い者を撃退していく。次々に破裂していく禍い者の体液が辺り一面拡散して、息吹放つ先から悪臭は濃さを増していくばかり。
 言い知れぬ不快をその場にいる誰もが感じていた。ただ一人、リサを除いて。
 リサは朦朧(もうろう)とした様子でふらふらと歩を進めていく。タカシも手を、腕を掴んで止めようとするが、その都度、うっとうしそうに払い除けられる。リサが進むためにタマやヨリモや蝸牛(かぎゅう)たちも前に進まざるを得ず、前方は禍い者たちの群れに足止めされているので、すぐに一団はひと固まりに集まっていく。ルイス・バーネットがリサの耳元で囁くように、止まれ、と命ずるが、その声はリサに届かない。それよりも頭にこだまする自分を呼ぶ声の方がはっきりと大きく聞こえていた。
 彼らの近くでタカシは不快な感覚に(さいな)まれていた。悪臭はもちろんだったが、胸の中でムカムカと不快な感覚が勢いよく湧いてくる。一刻も早くここを立ち去りたい。ただ、リサを置いていく訳にもいかず、(ぎょう)の間、肉体の痛みや足を止めさせようと執拗に説得してきた自らの心の声を無視して、意識の表層に上らせないようにしたのと同じように、その不快な感覚を無視して、必死にリサを追った。そして追いつき肩を両手で掴む。もう離さない。もうこれ以上、先に行かせられない。すると、ふとリサが振り返った。
 彼の双眸(そうぼう)にリサの限りなく澄んだ瞳が映る。すべてを忘れさせるような、すべてを呑み込んでしまいそうな瞳。それが映ったとたん、彼の脳裏から想念が消えた。そして思わず彼女の肩から手が離れた。リサはまた前を向き、ふらふらと歩いていく。
「もう、何なのよ、あんた。兄者、もうこいつ(くさり)で縛って、身動き取れないようにしてよ」
 ナツミがたまらずに言うが、カツミは退いてきたサホたち神鹿隊のもとに向かっていた。
「そなたたち、大丈夫か?」とカツミが声を掛ける。
「我は大丈夫なのだが、この者たちはあまり大丈夫ではない」とサホ。
 カツミが目をやると睦月は左首筋を手で押さえて必死に何かを耐えている様子で、ミヅキは片腕を押さえて(うめ)いている。
「これは早く手当せねばならないな」と言うカツミの声に、治癒能力を持つ者に心当たりがあるサホの視線が後方より近づいてくるタマの姿に向かった。
「そなた、悪いがこの者たちを治療してもらえぬか」
 そう言われたタマはすぐさまサホたちのもとへ駆け寄り、ミヅキと睦月の様子を診て、すぐに自らの身体を粒子に変えて注いでやった。その間、カツミがサホに疑問に思っていたことを訊いた。
「我らが黄泉の宮から災厄のもとへ行った時は、こんなに抵抗はなかった。不快には思ったがここまでではなかった。なぜか分かるか?」
「いや、分からん」とサホが答える。その二人の短い会話を後方から近づいて小耳に挟んだ、仕えるご祭神の一柱が黄泉大神(よみのおおかみ)であるクロウが口を挟む。
「それは、そなたたちが亡者の国、ケガレの集積されている黄泉の国から向かったせいだろう。災厄もケガレの固まりみたいなものだ。そなたたちがいったんケガレに染まっておったから災厄もそれほど過敏に反応せなんだのだろう。しかし元々、我々神々の眷属はケガレとは対極にある存在だ。近づけば拒否反応も起こるだろう。少しでも我々をケガレに近づけようと、恐怖、猜疑心(さいぎしん)汚辱(おじょく)にまみれさせようとしておる。これは我慢比べみたいなものだ。我々がケガレに染まるのが先か、それとも清浄を保ったまま災厄のもとへたどり着けるのが先か」
 そのうちタマの治療が終わり、座り込んでいたミヅキが立ち上がりタマにお礼を告げていた。
「すまぬな。手間を掛けた」とサホも礼を述べる。
「いや、造作ない。ただ、そちらの者は、宝珠殿(ほうじゅどの)の力の抑えがきかなくなっているようだ。我ではどうしようもない。もうその左腕は使わぬ方がいい。それ以上、使えばすぐに呑み込まれてしまう」
 タマの治療のお蔭か痛みは減ったようだが、ぐったりと座り込んでいる睦月をサホが見下ろす。この者たちはここまでだな。これ以上、無理をさせられない。
「そなたたちはここで転進しろ。マコモ殿たちと合流して地上に迎え」
 その言葉に瞬時に睦月が反応する。
「大丈夫です。我はまだ戦えます。ともに災厄のもとへ参ります」
 こんな中途半端なところで見限られてなるものか、と睦月は思っていた。自分はまだ、できる。こんなところで置いて行かないで、という思いを乗せて自分を見る睦月にサホは厳しい口調で返した。
「バカ。状況を把握しろ。そなたたちが来ては足手まといだから戻れと言っておる。自分の状態も把握できない者に何を信頼して任せられようか」
 いや、しかし、と反論しようとする睦月にサホの鋭い視線が刺さった。睦月は続く言葉をぐっと呑み込むしかなかった。
 そんな話を聞くでもなく聞きながらタマは先ほどのクロウの語った話を思い浮かべていた。
 ケガレ。災厄自身も、こうして我々を襲わせている災い事もケガレ、それなら我の力でどうにかなるはず。我の力はケガレを消し去る。みんなのために我の力を使う、そう決意を全身に(みなぎ)らせているタマのかたわらにヨリモがそっと並び立った。またタマが無茶をしないか、胸の中に不安が募る。どうにか自分の力でそれを払拭したい、そんな思いで。
 その間、秘鍵はずっと怒濤の如く襲いくる禍い者の群れを足を止めて撃退し続けていた。彼の郷内随一の攻撃能力により、向かってきた禍い者は漏らさず破裂させていたが、次第々々に動きが上下左右に変化してきた。時折、一撃で倒せない者も出てきた。今まで見てきたどんな禍い者よりも強靭で獰猛だった。恐らく、これまで現れたどの禍い者よりも災厄の身の近くでその身体を喰らってきた者たちなのだろう、秘鍵はそう思いつつ、禍い者の体液をすでに大量に浴びていたがために急速に自分の体力が奪われていることを感じていた。もう、自分が悪臭の固まりのような気がする。次第に嗅覚がマヒしてくる。尾がやせ細っていく。数も減っていく。あとどれだけもつのだろう?こんな時に宝珠がいたら、こんなことにはなっていないのだろうが。
「秘鍵殿、我が代わります。後はお任せいただきお退がりください」と先ほどからマサルやクロウが口々に言う。しかし禍い者の体液をみなが浴びてしまうとみなが動けなくなってしまう。これから先まだ何があるか分からない。ここで全滅する訳にはいかない。そう思うとできるところまで自分だけで迎撃する、そういうつもりで、他の者たちの前進を拒んでいた。
 しかし次第に意識さえ薄れていく。もうそろそろ限界かな、そう秘鍵が思っていると、眼前の禍い者が緩やかに渦巻いていった。天井すれすれを飛びながらナミが左手を前に差し出していた。ただ、距離が少し遠いために圧縮のための渦巻きの速度が遅い。そしてしばらく渦巻いた後、その禍い者は突然、破裂した。
 もお、何で破裂するのよ、とナミは心底イラついていた。先ほどから何度も圧縮させているが、その度に、一定のところまで圧縮されるとこの禍い者たちは決まって破裂した。それで土気色のどろどろとした体液が飛び散るので、それを浴びたくないがために近づくことができない。そんな彼女の背後から後方の者たちが近づいてくる。
「アザミ、大丈夫か?」霊力の残量は、という意味でルイス・バーネットは訊いたつもりだった。しかしくるりと振り返ったナミは一気に吐き出すように怒声を放った。
「大丈夫?私がこんな奴らにやられる訳ないでしょ。見くびるのもいい加減にしてよ。私はあんたみたいに要領よく、うまく立ち回って生きている訳じゃないから。何でも正面から立ち向かって抗って生きてんの。あんたとは鍛え方が違うのよ。それに何でここにいるの?あんたたちは後方で待機してたんじゃないの?また寂しくなって私のところに来たの?もうやめてよ、うんざり」
 こんなところで怒鳴られるとは思っておらず、さすがのルイス・バーネットも思わずきょとんとした。その顔にナミは、あっ、しまった、と思った。別にそんなことは思っていなかったが、胸の中に負の感情が渦巻いていて頭で考えるというより、その感情たちが口からあふれ出たような感じだった。一瞬の間が空いて、ナミが再び口を開いた。
「あ、いや、心配ないわ、大丈夫よ」
 ルイス・バーネットはまた微笑んだ。
 そんな二人の横をこちらも怒声を上げながらナツミが通り過ぎていく。
「いい加減止まれ。うちを無視すんな。ほんとにもう力づくで止めるからね。言うことを聞かないあんたが悪いんだからね」
 リサを睨みつけつつ鋼線を振り上げるナツミに、(うつ)ろ気に漂っていたリサの視線がピタッと止まった。そこには恐ろしく澄んだ瞳。じっと見つめられると吸い込まれてしまいそうな、底の見えないとても深い泉のような。
 その瞳が近づいてくる。自分を見つめながら。思わずナツミは横に身体を避けて道を空けた。
 リサは進み続ける。眷属たちの間を抜けて、やがて秘鍵を追い越し、最前部に。その間、誰も止めることができなかった。そこには白衣、緋袴姿(ひばかますがた)も相まって、神聖な雰囲気が漂っていた。これは儀式の一部。中断することは許されない。そんな風に感じられる雰囲気。だから彼らは黙って見送った。
 そしてリサは、禍い者の、群れの中に、入っていった。
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