第十一章一話 上隠山麓に向かって

文字数 4,435文字

 眷属の身体能力は人間と比べて一律に優れている。その中でもマサルは特に膂力(りょりょく)に優れていると自負していた。他の社の眷属と真剣に比べ合ったことがないので、はっきりとは言い切れないが、弱い方だと思ったことはなかった。だから特段、タカシの身体を重いとは思わなかった。それでもいつもと比べて走りづらさはもちろんある。これまで何の役にも立っていない民草(たみくさ)のためにこんな骨折りをすることになるとは、と思いながらもマサルの脳裏にはどうにも気になってしょうがないことがあった。それは、これまでのタカシの行動。
 カガシたちに噛みつかれながらも、特に気にすることもなく、娘を守りながらカガシたちの間を通り抜けていった。移動中、民草と比べ脚力の優れている眷属たちから、いくら置いて行かれそうになっても諦めずに喰らいつき、最後には追いついた。また、神に向かって敢然と対抗し、春日の大神様に力を使わせた。行動が予想不能すぎて到底ただの民草には思えなかった。()(しろ)の娘という特別な存在の連れなのだ。もしかしたら何か特別な能力を有しているのかもしれない。それが何なのか、恐らくこの民草自身も分かっていないのだろう。もしかしたら、(ばあ)たちなら分かるかもしれない。連れ帰って会わせてみたい、そういう気がしている。
 そんな思いを胸にマサルはタカシを背負ったまま、春日村(かすがむら)をひたすら西方へ向けて歩を進めていた。すでにやんではいたが、常識を超えた激雨のために樹々が倒れ、道中、折り重なって流されていた。しかし、道を完全に塞ぐほどではなく、彼の膂力をもってすれば立ち止まることなく進むことができる程度であった。また、背後から聞こえる今までにないほどの轟音とともに、何度か激しく地が揺れた。春日神社の境内で何か尋常ならざることが起きていることが推測された。星明りである程度は見渡せたが基本、闇の中。周囲に(うごめ)くものの気配も伝わってきている。ただ、そんな中ではあったが、ずっと平坦で足場も良い御行幸道(みゆきみち)を進んでいる。迷うこともなく足を取られることもなく、これといった抵抗もなく、進行は順調そのものだった。
 やがて、村境に近づいた。景色の変化はほとんどないが、踏んでいる大地の感触や樹々の気配、空気の質でマサルはおおよそそのことに気づいていた。何ら状況は変わらないが少し気が楽になったように感じた。
 更に歩を進めると樹々の間から薄っすらと家々に灯された明かりが漏れてきた。ようやく我が村に戻ってきた、とマサルは思わず微笑んだ。
 日吉村の西南側にはこの郷における最高峰、上隠山(かみかくしやま)がそびえ立っている。その麓に山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)が鎮座しており、その周囲にこの村のほとんどの民家が固まって建っている。その灯りが見える。そのお蔭で、少しばかり先を見通すことができた。
 自分の村に戻って足に更なる力が加わったが、そんなマサルたちの進む先にもぞもぞと蠢く気配。まだその姿は見えないが、間違いない、(まが)い者の群れだ。禍い者たちは雨がやんでようやく彼らの気配を感じたのだろう。眷属に民草、禍い者が取り込むには垂涎(すいぜん)の対象だ。
 もぞもぞ、もぞもぞ、と辺り一面から動く気配を感じる。進めば進むほど数が増えている。もぞもぞ、もぞもぞ、もぞもぞ、もぞもぞ……
 恐らく取り込むものを求めて神社周辺の集落に向かっているのだろう。山王日枝神社の他の眷属たちは、どうやら激雨とともに村に落下してきた禍い者たちに何ら対処をしていないようだった。周囲からひしひしと伝わってくる、自分一人で相手するには手が余りそうな、気配の多さ。それでも覚悟を決めねばならない。もう迷っている暇もない。気配はすぐそこまできている。
 マサルは薙刀(なぎなた)をタカシの尻の下に横たえ支えとしていたが、タカシをいったん地面に下ろすと、薙刀を構えて迎撃態勢をとった。そして、一息大きく吸い込むと一声、腹の底から轟くように放った。
「我は、恵那郷(えなごう)の西南の守り、山王日枝神社が第一眷属マサルなり。我が薙刀は邪を斬り、悪を滅し、(けが)れを祓い、罪を罰するもの。明浄正直(みょうじょうしょうじき)ならざる者は恐れ退け。あえて(つゆ)と消えたき者は我が前に名乗り出よ」
 樹々にその咆哮が響く。周囲から彼の方へと一斉に気配が近づいてくる。と感じる間に突然、左側に並ぶ樹々の枝葉が揺れた。何かが何かを打ち、突く音、そして打突された側のぐえっ、という呻き声やぶしゅ、という破裂音、けたたましくも続け様に聞こえてきた。
 その異変にマサルが左方向に気を取られていると、いきなり右側から何体もの禍い者が襲い掛かってきた。振り向きざま、マサルの薙刀が一度に何体もの禍い者を両断した。しかし更に後から次々に襲いくる。マサルは横たわるタカシの前に立ち、薙刀を自由自在に扱いながらそのすべてを斬り、打ち、消滅させた。しばらく襲撃者の退治を続けるうちにふと周囲の気配が消えた。どうやらこちらに向かってきた禍い者を一通り退治できたようだった。
 思わず、ふーと一息吐いたマサルの背後から声が聞こえた。
「相変わらず、見事な薙刀さばきだな」
「あ、これはクロウ殿」マサルは振り向くと驚きの声を上げた。まったくその存在に気づいていなかった。「もしかして、クロウ殿が我を助けてくださったのですか?」
 二人は隣村同士でもあり、かつては第一眷属同士でもあり、よく顔を合わせる仲だった。生まれ出たのはクロウがだいぶ先ではあったが、生真面目な者同士通じ合うところもあり、お互いの不遇も知っていたので何となく親近感も抱いていた。
「ふむ。実は、その民草を我は追っていたのだ。もしかしたらその男はこの郷にとって掛け替えのない者かもしれん、と卜占(うらない)に出てな」
「え、この民草がですか?」マサルはちょっと意外そうな顔をして、タカシにちらりと目をやった。
「うむ、詳しいことはまだ分からぬのだが、その男で間違いないだろう。それで、今からその男を婆たちの所に連れていくのだろう?」
「ええ、そのつもりです」
「では……」
 我もともに行く、とクロウは言いかけて、ふと上隠山の方からこちらに向かってくる集団の気配に気がついた。その足音、その存在を隠そうともせず、逆に誇示しながら移動してくる者たち、それが僧兵の集団だとマサルはすぐに察した。
「そなたのお仲間が来たようだな。では、我は先に婆たちの所に行っておく。また後でな」
 そう言うが早いかクロウは、背の黒い羽を大きく羽ばたかせて山麓に向けて飛んでいった。
 マサルは、再びタカシを背負うと、名目上は仲間である眷属たちの集団の方へと歩きはじめた。

 ――――――――――

 一方その頃、ヨリモはタマを背負ったまま、方向感覚も曖昧で、距離感もまったく掴めない漆黒の闇を掻き分けつつ、恐る恐る南だと思われる方向を目指して進んでいた。その心中には言い知れぬ不安と焦り。タマの容態ももちろん心配であったが、辺り一面、いたる所で蠢く不穏な気配を感じていた。
 先ほどまで降り続いていた激しい雨に交じって時々、空から何かが飛んできていた。激しく樹々に衝突して枝葉を折りながら地面に達する衝撃音が聞こえていた。ヨリモは、大きな何かが降ってきているのは察していたが、それが何なのかは分かっていなかった。時が経てば経つほど周囲に蠢く気配が増えている気がする。暗闇と相まって、自分にとって、どうも良い存在には思えない。
 ヨリモは知らなかったが、マコの身体に憑依した災厄の分御霊の力により、湖に残っていた水のほとんどが怒濤となって春日村へと流されていた。そのため湖からの水の供給を失った雨雲は急速に痩せ、それにより雨足は見る見る衰え、現在は小雨がしとしと降っている状態に過ぎなかった。
 そんな中ではあったが、夜目が利かず、夜間行動の経験がほとんどないヨリモにとっては周囲の状況を把握することは(はなは)だ難しかった。ただ、蠢く者たちの数が増え、こちらに近づいてきていることだけは分かる。今、ヨリモの手に槍はなかった。先ほど上空からの落下中、小鳩に変化(へんげ)した際に、背負っていた槍はどこかに落ちていった。仕方がないこととはいえ、槍がない徒手空拳の現状、不測の事態に見舞われた場合、対応ができるのかどうか、彼女自身、自信はなかった。とにかく時間が経てば経つほど、その場にとどまっていても良いことはきっとないのだろう、と思わせる不穏な空気が濃度を増している。
 ヨリモは片手で、タマの身体を下から支え、残った片手で前方を探りながら足を進めた。気ばかり焦るが一向に進めない。足元に道らしき道はなく、木の根や岩を避けつつ細かく上り下りする地に足を着けていく。不穏な気配は彼女の足より数段速く移動しているように感じられる。焦りが募って思わず一歩大きく踏み出した。その拍子に、その踏み出した足につるが絡んで、前のめりに体勢が崩れた。
 前方に差し出していた手に岩が当たる感触、その角に手首を打ちつけ鋭い痛みが走った。更に体勢を崩して左肩から地に伏した。ぬかるみになっていた地面から泥が跳ねて上半身を隙間なく染めた。全身を駆け巡る痛みをあえて無視しながらヨリモは即座に立ち上がった。少しでもその場にとどまってしまうと、二度と立ち上がれないほどの恐怖と不安に全身が包まれて、そのままその場に釘づけにされそうな気がする。だから、その前に、ただ行くべき先だけを見て、心を鼓舞するために即座に立ち上がった。そしてすぐにタマを引きずるようにしてその場を離れた。
 それからも遅々としてヨリモの足は進まなかった。
 移動はままならず、先ほど岩に打ちつけた右手首が、動かすと激しく痛む。おまけに周囲から恐らく禍い者だろう蠢く者たちが更に接近してきている。困難極まりない状況。自分の力の及ばなさを痛感して思わず泣きたくなったが、泣いてもどうしようもないと自制するだけの理性はまだ持ち合わせていたので、かろうじて泣かずに済んだ。ただ、独力ではもう抗えない状況に思えた。誰かの助けがほしい……。しかし、その願いの虚しさを即座に彼女は感じた。ここは八幡村(やはたむら)。マコモをはじめ眷属はみな、夜間はよほどのことがない限り屋外での活動は行わない。それに助けを呼ぶ術もない。再び目頭が熱くなる。どうせ、こんなにずぶ濡れなのだ。それに誰もいない。泣いたって誰も見ていないし気づかれることもない。それでも、と彼女は思う。そんな弱い女だと自分で自分を認めたくない。だから一瞬、固く目を閉じ、そして歯を喰いしばって、再び歩きはじめた。
 そんな彼女の一歩踏み出した足が(くう)を踏んだ。身体が前のめりに倒れていく。とっさに後ろに残した足に体重を移動して体勢を維持しようとした。しかし、すでに前方に身体は傾いていたし、後ろに残した足もぬかるみで滑って踏ん張れなかった。何の抵抗も示すこともできない間に、抱えていたタマの身体とともに、ヨリモは奈落と言わんばかりにぽっかり前方に空いた崖の底目掛けて落ちていった。
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