第十四章九話 記憶、滾々と

文字数 5,319文字

 ふらふらと歩いていく。
 そこに何があるのか、何が起こるのか分からない。しかし、自分は呼ばれている。その声が心の奥底に響いてくる。足が自然と前に出ていく。 
 何かが欠けている気がする。すべてを思い出せていない気がする。時々、訳もなく不安になる。無性に怖くなる。その原因を忘れている気がする。思い出せない記憶が確かにある。なぜ思い出せないんだろう?
 おいで、おいで、と呼ばれている気がする。行けば何かを思い出せるのだろうか?分からない。でも少なくとも今の悩んでも何ら答えの出ない状況よりはましな気がする。行けば何らかの答えが出る気がする。そこに失くした記憶の鍵がある気がする。
「あなたは誰?何で私を呼んでいるの?」
 ふわふわと脳裏を漂う意識で問うた。
 ――我は人の願いを叶えてやる者。我は人の欲望を叶えてやる者。我はすべての存在を超越した者。すべてを生み出し、すべてを消し去る力を持つ者。人間から尊ばれ、敬われ、かしずかれる者。人間から神と称えられる者。そしてそなたを誰よりも欲し、必要とする者。
「なぜ、あなたは私を必要としているの?私をどうするつもり?」
 ――我は何よりもそなたを必要としている。我は身体がない。だからそなたの身体を借りたい。少しの間、身体を貸してくれればそれで済む。我はこの地底の牢獄を脱し、自由を得る。その代わりそなたは自分で抑制していたすべてを思い出すだろう。自ら忘れていたすべてを思い出すことができるだろう。我が自由を得ること、それはそなたが自由を得ることに通ずる。そなたにとっても悪い話ではないだろう。
「あなたはとても大きくて、とても強いんじゃないの?見えないけどそう思う。自分の力を使えばあなたは自由になれるんじゃないの?」
 ――その通り、我はとても大きくてとても強い。しかし大きいが故に、身体のない自分をまとめているだけで精一杯なのだ。今、強大な力を使えば我は粉々になってしまう。だからそなたの身体が必要なのだ。
「そう……。あなたは自由になったらどうするの?この郷はどうなるの?みんなあなたのことを怖がっている。あなたを自由にしたら、悪いことが起きるって」
 ――それは誤解だ。我は人の願いを叶えてやっただけだ。それが悪いというなら、人の願いが悪となる。人は願ってはならぬのか?人の願いは悪なのか?
「それは……」
 ――我の願いは自由になること。自由を欲することを(さまた)げられる苦しさはそなたなら分かるであろう。そなたも自由になりたいのだろう。自分を抑えつけてきたすべてのものから自らを解き放て。我ならそれができる。我とともにあれば自由になれる。さあ、こちらにおいで。怖がる必要はない。何も考えず、こちらに来ればいい。
 ふらふらと歩き続ける。思考力が働かない。ただごく自然に足が進んでいく。水中深く沈んだ人が水面に向かうように、闇夜に灯りのもとに向かうように、それが当然のことのように。

 洞穴を抜けたタカシの眼前に広い空間が広がっている。
 ナミの左耳に着けたピアスが発する光に、空洞の中心に巨大な、表面を流動させている黒い球状の物体が浮かび上がる。半分ほど水に浸かった状態で周囲に悪臭と威圧感を放ちながら、でんと鎮座している。そして水面を、それに向かって、自分に背を向けて歩いていくリサの姿。
 タカシは無意識にリサの名を叫びながら駆け出した。そしてすぐに水中に没した。その手を身体が沈み切る前にナミが掴んで空中に引き出した。
「バカなの?足もとくらいちゃんと見て」
 そしてそのままリサのもとへと飛んでいく。しかしそのとたん、何本もの槍状(やりじょう)の水が二人目掛けて水面から伸びてきた。ナミはとっさに左に旋回する。しかし水槍は更に追ってくる。更に回避する。更に追ってくる。広い空間とはいっても飛び続けるには限度がある。逃げながらでは圧縮能力を使用するにも狙いがつけづらい。そう思っていると急に水槍が意思を失ったように、力が抜けたように、瞬時にただの水に戻って水面に崩れ落ちた。その落ちていく先を見るとサホとカツミが水面を駆けながら水槍を次々に斬り落としていた。二人とも前回は災厄の威に怖れをなして逃げ出したが、今回はそうもいかない。先ほどの雪辱を果たす決意のもと怖れを捨て、故意に自分を(ふる)い立たせ、全身神経の固まりのように、感覚を研ぎ澄ませ、相手の攻撃のすべてを生じる先から粉砕していった。続いて洞穴から出てきたクロウも空中を飛びながら錫杖(しゃくじょう)で水槍を粉砕していく。
 槍のことごとくが粉砕されると続いて小さな半円状の水の刃が無数に水面から飛び出て眷属たちやタカシたちに襲い掛かってきた。
 とっさに岸で蝸牛(かぎゅう)やマサルが剣や薙刀(なぎなた)で防ぐ。ヨリモもタマをかばいながら槍で防いだ。一方、玉兎(ぎょくと)は先頃、自分を千々に切断した水の刃が飛んできている場景にぞっとしたが、無意識のうちに息吹(いぶき)を放って多くの水の刃を吹き飛ばした。
「アザミ、山崎リサが取り込まれる。早く引き離さないと」岸でルイス・バーネットが空中に声を掛ける。
「分かっているわよ」とナミがタカシをぶら下げたままリサのもとへと向かう。そこへ多量の水の刃が一気に飛んでくる。やむを得ず空中に停止し、左腕を差し出してその刃を一緒くたに圧縮した。しかし次々に刃は飛んでくる。リサに近づけない。その様子を視界の端に見ながらカツミがサホに声を掛けた。
「我を守ってくれ」言うとカツミは(くさり)の先に着いた分銅を頭上で勢いよく回し、リサの身体に向けて投げ放った。それはリサの胴に巻きつきその歩を止めた。
 歩を止めたとたん、リサの身体は水の中に沈みはじめた。カツミは慌てて鎖を手繰(たぐ)り寄せる。その背後でサホが水の刃を次々に粉砕していった。二人ともすでに身体中に数多(あまた)の傷を抱えていたが、(ひる)むことなく戦い続けた。
 タカシは水に沈みゆくリサに手を伸ばす。それに合わせてナミも降下していく。
 その時、突如、ごごごごと空気が震動した。水面が激しく波立った。
 巨大な黒い球状の固まりが水面から浮き上がりながら形を変えていく。次第に細長く、そびえ立つように。そこには光という光をすべて呑み込んでしまいそうな一点の曇りもない黒色。馬のような顔に鹿の角、(うろこ)の連なる細長い身体に短い腕。それはまさに龍の姿。
 その場にいた誰もが驚愕の思いで見上げる先で少しずつその身体は崩れていく。鱗が一枚一枚()がれ落ち、角が欠け、牙も抜け落ちる、と見る間に耳をつんざくような咆哮、思わず誰もが顔をしかめ視線を背けた。その間に龍は一瞬、動いた。身体を伸ばし、リサの沈んだ水面へと口を大きく開きながら。
 荒れ狂う風、壁を割る震動、のたうち回る波濤(はとう)、一瞬の龍の動きに合わせてこの空間のすべてが揺れ動いた。そしてその異変が沈静化して、その場にいた者たちが空間の中心を改めて見るとそこには黒く巨大な龍が水面から半身を出して再び屹立(きつりつ)していた。
 その胸部にリサがいた。真っ黒い中に力なくただ浮かんでいた。
 龍はもう、すでに身体の崩壊から免れていた。その代わり、リサに向けて渦を巻いてその身体が流れ込んでいた。少しずつ龍の身体が縮んでいく。
 これは()(しろ)に災厄が憑依している、非常にまずい状況だと誰もが察した。眷属たちは一斉に黒龍に向けて襲い掛かった。

 ただ自分の記憶の中で揺蕩(たゆた)っていた。少しずつゆっくりと絡まり合っていた記憶と感情と思考と想念が(ほど)けていく。一つひとつが鮮明に思い出される。すっかり忘れていた記憶も次々に浮かび上がってくる。
 ……お父さんもお母さんも嬉しそう。はじめまして、お姉ちゃん。そう言いながらお母さんが腕の中に抱いた赤ん坊の顔をあたしに向けた。これはマコが産まれた日の記憶。あたしが二歳の時のこと。ふーん、ってあたしは思った。見たことない変な動物、そんな印象。後から聞いた話ではあたしは出産予定日が過ぎてもなかなか生まれなかったらしい。反対にマコは予定日より二週間も早く生まれたって聞いた。それを聞いて、マコは産まれる時からせっかちだったんだな、と思った。
 ……あたしは砂場にいる。ここは、あたしが通っていた幼稚園の園庭。そこであたしは遊んでいた。何かの道具を使って。スコップ?バケツ?とにかく何か道具を使っていた。そしたら男の子が数人近づいてきて、あたしが使っていた道具を貸してって言ってきた。あたしはまだその道具を使って遊びたかったから貸さなかった。首を横に振って、そのまま遊んでいた。男の子は何度も同じことを言った。あたしは貸さなかった。そしたら男の子の一人が持っていた何かの道具でいきなりあたしの頭を叩いた。小さな子どもが使う遊び道具だったから、きっとそんなに痛くなかったんだと思う。でも驚いて顔を上げた視線の先に、男の子の怒りに高揚した顔があった。そして何か怒鳴っていた。それが怖かった。そして周りのみんながあたしを見ていた。恥ずかしい。痛くはなかったけど、怖くて恥ずかしくて、私はうつむいてただ黙った。すぐに、あたしを叩いた男の子は駆けつけた先生に叱られて泣き出した。ちょっとかわいそうに思えた。あたしが言われた通りに道具を貸してあげていたら、その子は泣かずに済んだんだ。
 ……小学生になって、高学年になると次第に人とどう接したらいいのか、どう接したら仲良くしてもらえるのか分からなくなってきた。だから段々と引っ込み思案になって、それにつれてみんながあたしを無視するようになった。いつも、いつも、周りのことに気を使っているつもりだったけど、誰にも分かってもらえなかった。家でも、学校でも大人しく勉強して、本を読んで、大人からは良い子と言われて褒められるけど少しも嬉しくなかった毎日。そんなことが次々に思い出される。
 ……お婆ちゃん()。あたしはとても好きだった。同い年くらいの子はほとんどおらず、遊ぶ物もなく、テレビのチャンネルも少ない。それでも、のんびりと過ぎる時間が好きだった。自分の家ではやることがなくなって(ひま)を持て余して時間が経つのが遅く感じると、何か焦りを感じた。とても無駄に時間を過ごしている気がした。でもお婆ちゃん家ではのんびりとしていいんだ、と思えた。何もしなくてもいい。ただ、そこにいればそれでいい、そんな風に思えた。
 ……お婆ちゃん家の近くに親戚の家があった。夏休みにお婆ちゃん家に行くと必ずそこに連れていかれた。でも正直、その家があたしは嫌いだった。大きな仏壇と寝たきりの老人のいる家。お線香と薬品の臭いが漂う家。そしてその古い家にはいろんなシミがあった。その一つ、押し入れの(ふすま)のシミが気になってしょうがなかった。どうも人の顔に見えてしょうがない。苦しそうに叫んでいるような人の顔。マコに小声で、あのシミ、何に見える?と訊いてみても、マコは、別にただのシミにしか見えない、と答えるばかり。あたしだけなのだろうか。でもあんなにはっきりと人の顔に見える。それをじっと見つめているといきなり叫び声さえ聞こえてきそうな気がした。そんな聞こえるはずのない叫び声と薄っすらと漂ってくるお線香と薬の臭いがあたしを包み込んで、ゆっくりとあたしをむしばんでいるように思えてくる。いつも、いつも早く帰りたいと思っていた。
 ……その日まであたしはその親戚の家に行くことを嫌とは言えなかった。でも、その年、はじめて行かない、と言えた。お母さんは少しの間、説得しようとした。でも、やがて少し怒った風に、勝手にしなさい、と言ってマコを連れて出ていった。あたしは罪悪感に(さいな)まれた。本当はその親戚の家に行くべきだったのだろう。あたしはその義務を怠った。本来なら自分の主義主張など抑え込み、少しの間、我慢して義務を果たすべきだったのだろう。良い子のあたしはそうするべきだったのだろう。でも、その頃のあたしは良い子であることに不満を持ちはじめていた。良い子でいても楽しくない。誰もこっちを向いてくれない、見てくれない。クラスでも真面目な子よりも不真面目な子の方が人気があって、みんなからちやほやされていた。だから、その頃のあたしはそれまでの良い子だった自分に反抗したい気分だった。そうじゃない自分になりたい衝動に駆られていた。だから義務を果たすことを拒絶した。それまでの何も考えずにただ周りに流されるだけの自分に対する反抗として。
 ……その時、お婆ちゃんも街の病院に薬をもらいに行っていた。あたしは一人の時間を持て余していた。本を読んだり、窓の外の山々を眺めたり、鳥の(さえず)りを聞いて時間が過ぎるのを待っていた。するとふとショウタ兄ちゃんが帰ってきた。それまでどこに何をしに行っていたのか知らないけど、一人でふらりと帰ってきた。
 ……あたしは健介さん家の犬小屋の前に立っている。手には赤い肉片を持って。目の前に薄茶色の短毛に覆われた大きな犬。タロウだ。舌を出して嬉しそうにあたしのことを見上げている。ああ、そうだ。思い出した。あたしはショウタ兄ちゃんに言われて、けっきょく断れず、自分が助かりたい一心で、タロウに毒入りの肉片を食べさせるために、そこにいる……
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