最終章一話 暗色からの解放

文字数 6,712文字

 ああ、そんな……
 タカシは身悶(みもだ)えるような、つらく苦しい記憶の流入にただ耐えた。
 リサの手首から伸びて彼の右手首に巻きついている白くて細い光の線に沿って彼の手首からも白くて細い光の線が彼女に向けて伸びていた。それは彼女の手首に達して、完全に彼らは繋がった。そして流れ込んでくる記憶、感情、想念。
 彼女はこんなにつらく苦しい思いを耐え忍んできたんだ、そう分かると無性に切なかった。その苦しみや哀しみを自分が代わって引き受けられるのなら喜んでそうするのに、それができないやるせなさ。
 リサにもタカシの記憶やそれにともなう感情や想念が流れ込んできていた。
 彼はこんな思いまでして私のことを探していたの?そんな、私なんかのために……。私は彼の思いに応えられているの?その資格があるの?私に……

 彼らの間に(またが)って伸びている白い線の繋がりを、災厄も自分に都合の悪いものだと察して黒い槍を繰り出してそれを切断しようと試みる。しかしどれだけ突き、打ち、消そうとしても、その線はその度に何の抵抗もなく断たれるが、すぐに双方向から線が伸びてきて元に戻る。まるでどんな困難に遭ってもけっして断つことのできない二人の絆を具現化したかのように、それは消すことができなかった。

 リサを包み込んでいる災厄に向かって眷属たちは少しずつ前進していた。前方にサホ、カツミ、クロウ、玉兎(ぎょくと)とマガが出て、後方に蝸牛(かぎゅう)、マサル、そして最後尾にルイス・バーネットが続いた。
 サホもカツミも傷だらけだった。サホは左の腕と目が利かず、カツミは片足が動かず走れない。それでも二人は剣と(かま)を使って一団に向かってくる黒い槍を迎撃する。
 クロウは飛びながら、頭上から彼らを狙う黒い槍を錫杖(しゃくじょう)を手に迎え撃つ。
 玉兎は水を奥の方に退けることに集中していたので敵の攻撃に対応できない。その分、マガが数多(あまた)の針を突出させて黒槍の動きを封じた。
 そうして彼らが少しずつ開いていく道の上を(ぎょく)を捧げ持った蝸牛が進み、その後を薙刀(なぎなた)を杖替わりにして進むマサル、そしてルイス・バーネット。
 眼前にあるのは巨大な力の固まり。一歩進むたびに威圧感が増していき、足が重くなってくる。それでも歯を喰いしばって前に進む。どんなに苦痛に苛まれても、これは自分の勤め、大神様のため、民のため、そう自分を叱咤して、崩れ落ちそうな身体に鞭を打ち足を前に出す。けっして諦めない。ここで諦めてしまっては、きっと未来永劫、後悔する。そんな自分を許せなくなる。それを誰もが分かっていた。だから消滅してしまうまでけっして諦めない、そんな思いでただ前を見つめた。
 サホの右足を黒槍が(かす)めていった。ぱっと身体の構成要素が噴き出す。それまでも左腕から流れるように漏れ出ていた。他の箇所でも気づかぬうちににじみ出ていた。災厄からの攻撃はいっこうにやむ気配はおろか、鈍る気配すら見せない。逆にこちらの動きの方が鈍くなっていく。それを無理矢理力を込めて動かしていく。しかしふと気が抜けた。頭の中が一瞬、真っ白になった。まずい、と思って頭の中の白い(まく)を振り払う、自分の周囲を見直す。何本もの黒槍が自分に向かって伸びてきている。これは、防ぎきれない、そう思った瞬間、目の前にカツミが跳んできて、空中で前転しながら手に持った鎌で黒槍に斬り掛かった。彼の鎌はすでに硬い黒槍を防ぎ続けたために刃は曲がり欠けていた。だから黒槍を斬ることはできなかったが、そのまま屈曲させて地に叩きつけた。
「おい、仲間を助けにもう一度、黄泉(よみ)に行くんだろ。こんな所でへたばんなよ」
 カツミは片足を引きずりながら、残った片足で軽快に跳んで、他の黒槍を防いでいる。頭上ではクロウが二人を援護する。しかし身体中に傷が、時間が経てば経つほど増えていく。身体の構成要素も更に流れ出ている。いつ果てるか分からない戦闘。しかし彼らの心は一向に折れない。ひたすらにやり遂げる決意の塊になっていた。

「よし、この辺でいいでしょう」
 空中に浮かんでいる災厄の姿を見上げるほどに近づいた所で、マサルが後方の二人に声を掛けた。
「蝸牛殿、ここで玉をなるべく高く捧げ持ってください。けっして落とさず、けっして下げないように動かさずそのままの位置を保ってください」
 分かった、と蝸牛が言われた通りにすると、マサルが続けて言った。
「そなたは災厄の中心と玉が一直線に見える場所に立ってください」
 ルイス・バーネットも言われた通りにした。
「これからは一挙手一投足、一言一句、我の言う通りにしてください。そして必ず相手を敬う気持ちを持って、お願いするつもりで行ってください。命じたり、指示すれば抵抗が必ず生じます。相手を敬い、お願いすることで相手の心の抵抗が外れます。そうすれば言の葉の魂が相手の心に触れることができるのです。いいですか、はじめますよ」
 それからルイス・バーネットはマサルの指示通り二回大きく頭を下げ、そして精神を集中しながら、マサルが小声で発する言葉を復唱する形で、自分が発することのできる最大限の言霊を込めて降神(こうしん)(ことば)を唱えた。

 掛けまくも(かしこ)き龍の神と御名(みな)をば称え奉る大神の大前に(かしこ)み恐みも(もう)さく
 この恵那郷(えなごう)の里に鎮まります八社(やつやしろ)の眷属ら和して()()ぎ奉らくは
 大神の御霊(みたま) 大前に置き供え奉るこの(たま)なる御宝(みたから)天降(あも)りませ(うつ)りませと
 慎み(いやま)いて恐み恐みも白す 

 ルイス・バーネットが奏上をはじめてから終わるまで蝸牛が、おおおおー、と低く太く警蹕(けいひつ)を上げていた。その声が警報のように空気を壁を震わせながら響いていく。
 しばらく変化がなかった。ルイス・バーネットは続いて、これも指示通りに二礼二拍手一拝の作法で拝礼した。すると徐々に黒い槍の動きが鈍くなっていった。やがて苦し気な呻き声が災厄から聞こえてきた。少しずつ音量が上がっていく。
 その頃にはもうサホもカツミもクロウも体力的に限界に達して迎撃が難しくなっていた。そして蝸牛目掛けて伸びる一本の黒槍。
 確実に自分を狙っている、そう蝸牛は気づいたが、その場を動くな、(ぎょく)を動かすなと言われていたので避ける訳にもいかず、とっさに顔を背けながら激痛を覚悟した。
 しかし、その黒槍は蝸牛の手前でくいっと進行方向を変えた。そしてその先端から、すっと玉に吸い込まれていった。その黒槍を契機にリサを包んでいた黒い災厄の魂は一気に玉に呑み込まれていく。
 蝸牛は目を引ん()き、口を大きく開いて、自分の頭上をただ見つめた。自分の手の先で白く光っていた玉が黒く染まっていく。玉の周囲に雨雲よりも遥かに黒い雲が渦を巻いている。その雲のあちこちで稲光が()ぜるような雷鳴を轟かせて光りながらも次々に吸い込まれていく。
 玉に熱が籠っていく。内部に力が(みなぎ)っていく様子が指から伝わってくる。黒く、強烈に黒く光っていく。次第に熱を帯びていく玉に蝸牛は耐えた。今、動かせば遷霊(せんれい)が途切れてしまうかもしれない。この郷の行く末が、みんなの未来が自分に掛かっている。そう自分に言い聞かせて必死に耐えた。熱い、手が焼ける……
 やがて、黒い雲がすべて玉の中に入った。しかし全身を包んでいた暗色が消えてもリサは空中に浮かんだままだった。その(ひたい)から薄っすらと黒い線が玉へと伸びていた。
「マサル殿、もう終わったのか?玉を下に置いてもいいのか?」蝸牛が、らしくない切羽詰まった口調で訊いた。
「いや、まだです。どうやら災厄は()(しろ)の娘にしがみついているようです。残りわずかなのですが、依り代の娘から災厄を引き離さない限り、終わりません」
 苦渋の表情をていしながらマサルが口惜しげに言った。霊魂を遷しきることができなかった。少しでも依り代に残れば、また復活する。あれだけの言霊を発してもまだしがみつくのか。後は依り代の娘が災厄の手を振り解いてくれることを期待するしかない……

「よう、また会ったな」
 リサの頭の中で、タカシはリサと、リサを取り囲む災厄と向き合っていた。
 リサの身体に何重にも巻きついた暗色の最上部に顔が見えた。何度も見た顔。前にいた世界で人型のケガレとして何体も出現した男の顔、恵美さんの家でリサを苦しめていた男の顔、今しがたリサの記憶の中で垣間見た幼いリサに死の予感を抱かせた従兄の顔。
 タカシは、災厄がリサを最大限に怖気(おじけ)させて抵抗する気力を削ぐために、彼女の最大の嫌悪の対象となっている男の姿を借りていることを察した。
 ただ、災厄は知らなかった。確かにその従兄の姿になればリサは何より恐怖と不快と苦悩を抱く。しかし彼女はそれを打ち消す存在にすでに巡り会っていた。今、眼前にいるその存在に。
 ううー、ううー、と暗色に口を塞がれたリサはタカシに手を伸ばしながら声にならない声を上げる。タカシはゆっくりと彼女に近づいていく。災厄は憤怒の表情でしきりに威嚇(いかく)する。しかしタカシに恐れは一切なかった。このリサを苦しめる対象を消すことができる、そう確信していたから。
 タカシはリサの目の前に進み出ると、彼女を取り巻いている暗色を強引に引きはがしはじめた。暗色が(むち)となり、槍となり、彼を打ち、貫こうとする。しかし彼の身体の周囲に白く光る膜が現れ、その光に触れると鞭も槍も蒸発するように消えた。彼は黙々と暗色を引きはがす。災厄の顔が獰猛な怒りをていして吠えながら首を伸ばし、彼に近づいてきた。今にも噛みつかんばかりの勢いで。
 タカシは瞬時にその首を両手で掴み、そのまま地に引き倒した。
 災厄の残滓(ざんし)は激しく地面に打ち付けられて、ぶわわとその黒い欠片を周囲にまき散らす。
 タカシは手を離すと、白い手を発して一気にリサの身体にまとわりついていた暗色の層をはぎ取り、断ち切り、引きちぎって、消し去った。
 解放されたリサがヒザを折り、咳き込みながら、その場に座り込んだ。慌ててタカシが駆け寄る。その時、背後から叫び声が聞こえた。
 ギャー、と泣き叫びながら、うつ伏せの状態で引きずられ彼方(かなた)に遠ざかっていく従兄の姿がリサの目に映る。
 災厄に包まれている間、リサの脳裏には災厄が存在した千年以上の歳月に渡る記憶が存在し、その一部を彼女は垣間見た。その中にあったショウタ兄ちゃんに関わる記憶。それは災厄が大地を通じて感じた記憶。

 その日、少年は一人で山道を散歩していた。遊ぶものもない、遊ぶ相手もろくにいない、この田舎の山中で彼はこれ以上なく退屈していた。虫取りももう飽きた。だから意味もなく歩き回り、そこら辺で見つけた木の棒を手に宙を飛んでいる、(ちょう)やトンボを叩き落としていた。別段楽しい訳でもなく。
 彼は無意識に東野村(とうのむら)から西に、郷の中心部に向かって歩いていた。
 すると道の先に一羽のカラス。道の真ん中に立ってこちらを見ている。少年は気味悪く思ったが、近づけば向こうが逃げるだろうと思ってそのまま歩いていった。そのカラスは彼が近づくと案の定逃げた。ただ、道の少し先まで飛んで地に降りると、また彼の方に視線を向けた。そんなことを何度も繰り返した。
 こちらにおいで、と少年は言われている気がした。そしてついていけば何か面白いことがありそうな予感がして、そのまま少年は導かれるままについていった。
 やがて川に出た。臥龍川(がりゅうがわ)、恵那郷を縦断する郷内で唯一の川らしい川。そのままカラスの導きのままに川沿いを上流へと向かった。そして小さな(ほこら)にたどり着いた。
 石造りの祠の前面には木製の扉が設けられており、その中央で南京錠が風雪のためか、錆びて腐敗したのか、ただの鍵のかけ忘れなのか、外れて金具にぶら下がっていた。
 カラスが空中の一点で羽ばたきながら、ぐああ、がああ、とけたたましく鳴いた。
 少年にはその鳴き声がその祠の扉を開けと言っているように思えた。だから南京錠を外し、その扉を開いた。
 すぐそこに円錐形のぱっと見、何かの動物の牙を思わせる片手に余るほどの大きな白い石が見えた。そしてその奥に色褪せた縦長の白木の箱。ご神体など見たこともない彼でもその箱が入れ物で中にご神体が入っているのだろうことが察せられた。
 何が入っているのだろう?突如、言い知れぬ好奇心に駆られた。周囲を見渡す。カラス以外には誰もいない。そっと手を伸ばす。すぐそこに箱はあるはずなのに、驚くほど奥行きがある気がする。指先がその箱にたどり着くまでに時間がかかる。心臓が早鐘を打つ。額から汗が流れる。指先が震える。でも、やめる気にはなれない。その中が見たくてたまらない……彼は両手で箱を掴んだ。予想以上に重い。中々持ち上がらない。彼は全身に力を込める。そして、一気に引き抜いた。
 そのとたん、彼は気を失って後ろ向きに倒れていった。同時に、箱の前にあった牙のような石が彼の上に落ちてきた。
 その石は何百年も昔、村人が臥龍川近くを耕している時に偶然見つけたものだった。その当時もそれは何かの動物の牙ではないかと思われたが、この近隣にそんな大きな牙を有する生き物などいない。そこできっとその牙はこの地に伝説が残る龍神の落とした牙だろうという結論に達して、その頃にはすでに建立されていた祠に納められた。その石が、少年の胸に当たってそのまま溶けるように体内に入っていった。
 少年が再び目を覚ました時には白木の箱はどこにも見当たらなかった。そしてその身の内から無性に人や生き物が苦しむ姿を見たい衝動が湧いてきた。全身が干からびているかのような渇きを感じた。人の血や涙でしか癒されない渇き。その渇きを癒したくて彼は再びお婆ちゃんの家に戻っていった。
 その姿を、木に止まった一羽のカラスが満足そうに眺めていた。
 これで、頭の(くさび)は地揺れでも起こればすぐにでも抜けるだろう。何年待たねばならぬかは分からんが、その時までの辛抱だ……。カラスの胸中には罪悪感がないではなかった。しかしそれ以上に母上様のため、という思いがあった。それは他の何にもまさる彼の行動原理だった。
 少ししてカラスは西の空へ飛び立っていった。

 自分を苦しめた数々の記憶。それがショウタ兄ちゃんの姿をして遠ざかっていく。
 リサは安堵するよりも先ず従兄の人生を狂わせたのだろう、頭に浮かぶその出来事を嫌悪した。すべては災厄に起因している。災厄をこのまま(ほうむ)り去ることができれば、ショウタ兄ちゃんも元通りになるのだろうか。もし、そうならそうしてあげたい。
 そう思っているとタカシが彼女を抱き起こした。
「大丈夫か?」そう訊く彼の目の前には、現実世界と同じ彼女の姿。幼さはもうない。
「大丈夫。タカシは?」穏やかな安心した表情をしている。
「ああ、大丈夫だ。じゃ、これから戻って災厄が本当に消えたのか確かめてくるよ」
「うん、分かった」
「じゃ、また後で」
「うん」
 名残惜しそうに二人は別れた。
 お互いの手首に伸びていた細く白い光の線がそれぞれの身体に戻っていった。

 宙に浮かんでいたリサの身体が地に崩れ落ちた。蝸牛が捧げ持つ玉に災厄のすべてが遷り終わった。
 急に玉が軽くなった気がする。それまで放たれていた熱が一気に下がっていく。いたる方向へと動き回ろうとしていた力がふと消えた。急に起きたその変化に、蝸牛は思わずほっとした。そして気の弛んだその拍子に、すでに感覚が失われている彼の手から玉が(こぼ)れ落ちた。
 水をたっぷりと含んだ泥土から顔を出している硬い岩に当たってカーンと高音を響かせながら玉は跳ね、転がっていった。
 災厄が玉に鎮まった……
 眷属たちはみな信じられないといった顔をして、ただぼうっと遠ざかっていく玉を眺めていた。
 するとサホがはっとして叫んだ。
「砕け、その玉を砕け!」
 その声にみんな我に返った。そうだ、まだ終わっていない。災厄の魂は玉に遷り、玉と一体化した。固形化したそれを砕けば災厄は完全に消滅する。サホが剣を、クロウが錫杖を、カツミが鎌を、マサルが薙刀を手に、痛み損ない動かない身体を、これを最後とばかりに無理に動かして玉に襲い掛かる。玉ごと災厄の魂を砕くべく、必死のていで。しかしその時、地が揺れた。
 壁が、天井が崩れて岩や小石が落ちてくる。きっとこの空間は災厄の力により維持されてきたのだろう。その支えを失って崩壊がはじまった。更に地は激しく揺れ、やがて割れ、玉兎がつむじ風を起こして一方に集めていた水も地割れに落ちて消えた。眷属たちはその揺れに、玉に襲い掛かる機を逃した。その間に、玉が独りでに動きはじめた。右に左にのたうち回るように。そして放電しはじめた。耳をつんざく叩きつけるような音を響かせ、何本もの雷光を次々に発しながら。
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