第二章二話 八幡様の大前で
文字数 4,066文字
自分が高揚しているのが分かる。身体の重さがなくなったように足元がふわふわしておぼつかない。顔が熱い。白い頬 が朱に染まっているだろうことが察せられて、悟られまいとヨリモはさっと二人に背を向けた。
どうぞ、こちらへ、と声を掛けられてタカシとタマは少女の束ねられた豊かな黒髪に誘われるようにその後をついていった。足下の石畳は天然の大石を丁寧にきっちりと敷き詰められており、ほとんど段差が感じられない。そのまま三人は社殿右側面へと進んでいく。
タマもヨリモも全身に緊張感をにじませている。タカシは不思議とそこまで気が張ってはいなかった。もう、なるようにしかならないとある種、腹が座った心境だった。だから気軽にぼそりと呟いた。
「かなり大きい建物だね」
タカシとしては隣にいるタマに言ったつもりだったが、応答は前方から返ってきた。
「当宮の拝殿 は幅も奥行きも五間 あります。この郷はもちろん近隣地域見渡してもこれほど大きい社殿 はありません」
「ごけん?」
「一間は約一・八メートルです。ちょうどあなたの身長くらいでしょうか。五間とはあなたの身長五人分の長さですよ」
その声からは心なしか自慢気な色が感じられた。タマが少し不機嫌な顔つきをしながら話を継いだ。
「こちらのお宮は秋祭りにお籠 りをするからな。そのために広い拝殿が必要なのだ」
「おこもり?」
「氏子衆 がお供日 の前日の夜に忌 み籠 ることですよ。この地域に残る昔からの風習で、大神様と一晩中、酒食をともにし、神楽 を奉納しながら過ごされるのです」
「神楽って、ヤマタノオロチや天 の岩戸なんかの話だよね。実際観たことはないけど、聞いたことはあるよ」そう言えば、リサが以前、小さな頃に神楽を見たことがあるって言っていた気がする。それに出てくる龍がすごく怖かった、って言っていたような。
「オロチは出てくるが、ヤマタではない。この地域独自の物語がもとになっている。本来、その神楽は、この郷内の神社すべてで氏子によって行われていたのだが、現在はこのお宮だけに残っている」
タマがそう言うと先導の少女がチラリと振り返った。
「ちゃんと地元に根差して氏子との繋がりを築いていないからですわ。成金の材木商にばかりいい顔しているから氏子からそっぽを向かれたんじゃないんですの?」
「バカを言うな。ただの過疎だ。後継者がいなくなっただけだ。そんなこと言っている間に、きっとこの村も同じ目に遭うぞ」
「あら、心配ご無用ですよ。件数は減ったとはいえ、まだまだ初宮詣 りに来られる氏子はおりますから。そもそも大神様が守護されるこの豊かな土地を離れるなど愚の骨頂です。いったん、この土地を離れた民草もそのうち自らの愚かさを悔いて戻ってくることでしょう。ええ、今はまだいなくても、きっと、そのうち」
「そうなればいいけどな」
さすがに社殿周辺であるため、二人ともに抑えた声で話していたが、どことなく楽し気な、弾むような声を発していた。
そんな二人の掛け合いを聞きながら、タカシは前を行く少女が先ほどの小鳩 なのだろうと察した。今のタマの声音が、先ほど小鳩に話し掛けた時の口調と同じに思えたし、前を行く少女はほぼ振り返りもせずこちらに顔を向けようとしなかったが、それでも昔からの知り合いらしく、どこか親し気な気配をタマに向けて発しているように感じられた。
拝殿右側面の扉外が上がりかまちになっており、靴を脱いで中に入る。柔道の試合でもできそうなほどの畳敷きの空間が広がっている。
「こちらでしばしお待ちください」拝殿入った所で少女は言うと一人で右手奥に向かって畳と白足袋 が擦れる微かな音を立てながら進んで行った。
少し待たされた後、少女が戻ってきてタマに向かった。
「大神様がお呼びですよ。先ずはあなたが大神様に状況をご説明申し上げなさい。あなたに言うのも酷 かもしれませんが、くれぐれも失礼のないように」
「分かっている」とタマは言うとすくっと立って足袋擦れの音を立てながら少女と連れ立って右手奥に向かった。その先は拝殿よりも若干幅が狭まっておりタカシが座っている場所のすぐ横には板壁があったので二人の姿は見えなかった。しかし、話している声は聞こえた。
――タマよ、久しいな。息災のようで何よりだ。
宇賀稲荷神社で聞いた果てしなく奥行を感じる声。ただ、こちらのお社の方が親しみを感じさせる声音だった。
「掛けまくも畏 き大神様の大前に慎みて申し上げます。我が身我が心、大神様の広き厚き見守りのまにまに身内 安く穏 いにありますこと謝 び奉り忝 み奉る」
――ふむ。もっとよく顔を見せよ。もそっと近くへ。
恐らく座ったまま膝 を擦らせて移動しているのだろう、衣擦れの音が社殿内に何度か漂った。
――もそっと近くへ。
更に衣擦れの音が鳴り、やんだ。
それからも話が続いているようだったが、もう、タカシの耳朶 にはその内容ははっきりと聞こえてこなかった。
どんな話をしているのか気にはなったが、壁越しに覗き込んだり聞き耳を立てるのも不躾 な気がしてタカシはそのままじっと座って待っていた。少女が去り際に、すぐにお呼びいたしますのでしばらくこちらでお待ちください、と言っていたが、彼を呼びに再び少女が現れるまでには、足がしびれるのに充分な時間が経っていた。
「凪瀬 タカシ殿、どうぞこちらへ」
促されるままに、足のしびれを悟られないように慎重に立ち上がり、恐る恐る離されないように進んだ。拝殿の中央に進み出て奥の建物に向きを変えた。拝殿から続いて少し横幅が狭まった幣殿 、そこは拝殿より一段高くなっており、板敷きの間になっていた。更にその奥に木製の階段があり、上がり切った所に神様が鎮座 する本殿 がある。所々の大きさや造りは違うけれど基本的な構造は宇賀稲荷神社と変わりないようだ。タマは幣殿の最奥部にいた。タカシは少女に促されて幣殿中央に正座した。両壁際には恐らく八幡宮の眷属なのだろう衣冠装束 姿の男たちがずらりと座って並んでいた。少女はタカシが正座するのを見届けると壁際に向かい列の最後尾についた。
――凪瀬タカシ殿。近くへ。
本殿の御簾 の奥から声が聞こえた。こんな所も稲荷神社と変わりない。ただ、こちらの神様は直接声を掛けてくれるようだ。そう思いつつタカシはタマのいる本殿階 の下近くまで移動した。
両側の眷属たちは微動だにせず座っていたが、こちらの様子を窺っている気配がひしひしと感じられた。そんな緊張感漂う中、タマは低頭して、完全に視線を床に向けている。だからタカシも正座すると真似て頭を下げた。
――おおまかな話はタマより聞いた。何とも不明瞭かつ不鮮明な話ではあったが、今、この郷で起きていることと符合する話でもある。普通ではエビスであるそなたの言を直接聞くことなどない。しかし現状そうも言っておれぬ。そなたの願いを聞いてみようと思う。申してみよ。
「エビス?」と小声で言うとタマが「外から来た者という意味だ」と小声で答えた。ああそういう意味か、と思いつつタカシは答えた。
「私の願いは山崎リサという女性と会い、この世界の崩壊を防ぐことです。彼女は必ずこの世界のどこかにいます。そして彼女に会い、その命を守ることが、この世界の崩壊を防ぐことに繋がるんです。だから彼女を捜すことに協力していただきたい。お願いします」
タカシの言葉の真意を推し量っているかのような数秒が過ぎた。やがて御簾の奥から厳格な重みを濃厚に含んだ声が聞こえてきた。
――タマよ。なぜその女に会い、命を守ることが、この郷の崩壊を防ぐことに繋がるか、この男は稲荷神に申したのだな。
「はい、ただ、その女がこの世界そのもの、だとか、女の魂でこの世界はできているとか、訳の分からないことばかりを申しておりました」
――その言に稲荷神は信を置いたのか。
「はい」
――なぜだ。
「それは、このエビスが御行幸 をしていた我らの姿を見ることができる異能を持ち合わせていること、またこの男の言うことが真か否かは別として、虚言を吐いていないと思し召されたため。そして何より熊野の眷属による卜占 と符合するためかと推察いたします」
――そうか。稲荷神がそう思われておるのなら、我にも異論はない。して、そなたはこれからどうする。そなたの勤めはこの民草をここまで連れてくることだけか。それともこの先もその民草に同行するのか。
「我が大神様は、熊野の卜占に、誓約 の子が民草 に従い、とあることを気にされておられます。しかし、我が身がこの先どうするのかは、総社 の大神様の御神意 のまにまに、と申されておりました」
――分かった。では、タマよ。その民草に従い、その女を捜せ。そなたたちに、この郷の中を自由に往来することを許そう。また我は民草の願いを叶えてやる神でもある。そのために我が眷属を同行させよう。ヨリモ。
そう呼び掛けられると彼らの後方に控えていた先ほどの少女が、はい、と穏やかに応えた。
――この者たちに同行し、その願いを叶えてやれ。
御意 のままに、答えながら平伏した。思わず、我が意を得たりと笑みがこぼれた。
――確か、東野村に山崎という民草の一族がおった。そなた、先ずはそこに向かってみよ。
はっ、と声に出しつつ平伏するタマにならってタカシも頭を床に着けた。しかしすぐに上げると不明瞭な状況のことを知りたい思いが先走って口を吐 いて出た。
「この世界の現状を教えてもらえませんか?何がどうなっているのか。おおまかには聴きましたが、はっきりとは分かっていません。だから、いろいろと訊きたいことが……」
バカ、黙れ、ととっさにタマが叱責した。神様への問いはご法度 だ。
えっ?という顔つきをタカシがしていると御簾の奥から再び声がした。
――エビスのそなたには訊きたいこともあるだろう。道中、そのヨリモに訊くがいい。では、急がねば日が暮れるぞ。早々に出立するがよい。
幸甚 に存じます、とタマが平伏しながら言った。タカシもそれにならった。ありがとうございます……
どうぞ、こちらへ、と声を掛けられてタカシとタマは少女の束ねられた豊かな黒髪に誘われるようにその後をついていった。足下の石畳は天然の大石を丁寧にきっちりと敷き詰められており、ほとんど段差が感じられない。そのまま三人は社殿右側面へと進んでいく。
タマもヨリモも全身に緊張感をにじませている。タカシは不思議とそこまで気が張ってはいなかった。もう、なるようにしかならないとある種、腹が座った心境だった。だから気軽にぼそりと呟いた。
「かなり大きい建物だね」
タカシとしては隣にいるタマに言ったつもりだったが、応答は前方から返ってきた。
「当宮の
「ごけん?」
「一間は約一・八メートルです。ちょうどあなたの身長くらいでしょうか。五間とはあなたの身長五人分の長さですよ」
その声からは心なしか自慢気な色が感じられた。タマが少し不機嫌な顔つきをしながら話を継いだ。
「こちらのお宮は秋祭りにお
「おこもり?」
「
「神楽って、ヤマタノオロチや
「オロチは出てくるが、ヤマタではない。この地域独自の物語がもとになっている。本来、その神楽は、この郷内の神社すべてで氏子によって行われていたのだが、現在はこのお宮だけに残っている」
タマがそう言うと先導の少女がチラリと振り返った。
「ちゃんと地元に根差して氏子との繋がりを築いていないからですわ。成金の材木商にばかりいい顔しているから氏子からそっぽを向かれたんじゃないんですの?」
「バカを言うな。ただの過疎だ。後継者がいなくなっただけだ。そんなこと言っている間に、きっとこの村も同じ目に遭うぞ」
「あら、心配ご無用ですよ。件数は減ったとはいえ、まだまだ初宮
「そうなればいいけどな」
さすがに社殿周辺であるため、二人ともに抑えた声で話していたが、どことなく楽し気な、弾むような声を発していた。
そんな二人の掛け合いを聞きながら、タカシは前を行く少女が先ほどの
拝殿右側面の扉外が上がりかまちになっており、靴を脱いで中に入る。柔道の試合でもできそうなほどの畳敷きの空間が広がっている。
「こちらでしばしお待ちください」拝殿入った所で少女は言うと一人で右手奥に向かって畳と白
少し待たされた後、少女が戻ってきてタマに向かった。
「大神様がお呼びですよ。先ずはあなたが大神様に状況をご説明申し上げなさい。あなたに言うのも
「分かっている」とタマは言うとすくっと立って足袋擦れの音を立てながら少女と連れ立って右手奥に向かった。その先は拝殿よりも若干幅が狭まっておりタカシが座っている場所のすぐ横には板壁があったので二人の姿は見えなかった。しかし、話している声は聞こえた。
――タマよ、久しいな。息災のようで何よりだ。
宇賀稲荷神社で聞いた果てしなく奥行を感じる声。ただ、こちらのお社の方が親しみを感じさせる声音だった。
「掛けまくも
――ふむ。もっとよく顔を見せよ。もそっと近くへ。
恐らく座ったまま
――もそっと近くへ。
更に衣擦れの音が鳴り、やんだ。
それからも話が続いているようだったが、もう、タカシの
どんな話をしているのか気にはなったが、壁越しに覗き込んだり聞き耳を立てるのも
「
促されるままに、足のしびれを悟られないように慎重に立ち上がり、恐る恐る離されないように進んだ。拝殿の中央に進み出て奥の建物に向きを変えた。拝殿から続いて少し横幅が狭まった
――凪瀬タカシ殿。近くへ。
本殿の
両側の眷属たちは微動だにせず座っていたが、こちらの様子を窺っている気配がひしひしと感じられた。そんな緊張感漂う中、タマは低頭して、完全に視線を床に向けている。だからタカシも正座すると真似て頭を下げた。
――おおまかな話はタマより聞いた。何とも不明瞭かつ不鮮明な話ではあったが、今、この郷で起きていることと符合する話でもある。普通ではエビスであるそなたの言を直接聞くことなどない。しかし現状そうも言っておれぬ。そなたの願いを聞いてみようと思う。申してみよ。
「エビス?」と小声で言うとタマが「外から来た者という意味だ」と小声で答えた。ああそういう意味か、と思いつつタカシは答えた。
「私の願いは山崎リサという女性と会い、この世界の崩壊を防ぐことです。彼女は必ずこの世界のどこかにいます。そして彼女に会い、その命を守ることが、この世界の崩壊を防ぐことに繋がるんです。だから彼女を捜すことに協力していただきたい。お願いします」
タカシの言葉の真意を推し量っているかのような数秒が過ぎた。やがて御簾の奥から厳格な重みを濃厚に含んだ声が聞こえてきた。
――タマよ。なぜその女に会い、命を守ることが、この郷の崩壊を防ぐことに繋がるか、この男は稲荷神に申したのだな。
「はい、ただ、その女がこの世界そのもの、だとか、女の魂でこの世界はできているとか、訳の分からないことばかりを申しておりました」
――その言に稲荷神は信を置いたのか。
「はい」
――なぜだ。
「それは、このエビスが
――そうか。稲荷神がそう思われておるのなら、我にも異論はない。して、そなたはこれからどうする。そなたの勤めはこの民草をここまで連れてくることだけか。それともこの先もその民草に同行するのか。
「我が大神様は、熊野の卜占に、
――分かった。では、タマよ。その民草に従い、その女を捜せ。そなたたちに、この郷の中を自由に往来することを許そう。また我は民草の願いを叶えてやる神でもある。そのために我が眷属を同行させよう。ヨリモ。
そう呼び掛けられると彼らの後方に控えていた先ほどの少女が、はい、と穏やかに応えた。
――この者たちに同行し、その願いを叶えてやれ。
――確か、東野村に山崎という民草の一族がおった。そなた、先ずはそこに向かってみよ。
はっ、と声に出しつつ平伏するタマにならってタカシも頭を床に着けた。しかしすぐに上げると不明瞭な状況のことを知りたい思いが先走って口を
「この世界の現状を教えてもらえませんか?何がどうなっているのか。おおまかには聴きましたが、はっきりとは分かっていません。だから、いろいろと訊きたいことが……」
バカ、黙れ、ととっさにタマが叱責した。神様への問いはご
えっ?という顔つきをタカシがしていると御簾の奥から再び声がした。
――エビスのそなたには訊きたいこともあるだろう。道中、そのヨリモに訊くがいい。では、急がねば日が暮れるぞ。早々に出立するがよい。