第六章五話 渡河そして襲来の予感

文字数 4,771文字

 叫び声を上げはしなかったが、リサは初めて見るマガの姿に一瞬息を呑むと、即座にタカシの背後に姿を隠した。
「大丈夫。知り合いだよ。玉兎(ぎょくと)の家族だ」
 タカシが落ち着いた声を掛けた。リサはタカシの身体の横から少し顔を出してマガの姿を覗き見た。マガは首を(かし)げて不思議そうにその様子を眺めていた。
「この人間もそうだけど、そのコも拙者(せっしゃ)の姿が見えるみたい」
「ああ、あの二人は人間だけど特別で、普通に俺たちの姿が見えるみたいだ」
「ふーん、そうなんだ」とマガは言いながら興味深そうに、ちょこっと見えているリサの姿をまじまじと眺めた。リサがスッとタカシの背後に隠れる。
「まあ、お前の姿なんて見たくもないだろうけど、見えるんだからしょうがない。仲良くしてやれよ」
「玉兎ひどい。ちょっとモフモフだからって感じ悪い。でも、隠密(おんみつ)のマガの姿を見つけるなんてなかなかやる。面白い人間たちだ」
「そんなことより、お前たちどこに行くんだ?」玉兎がタカシに訊いた。
「俺たちもマコちゃんを助けに行くことにした。みんなの後を追っているところだよ」
「そうか、じゃ俺もみんなの所に戻っているところだから、案内してやるよ」
「それは助かる。頼むよ」
 そんなタカシと玉兎の会話に割り込むようにマガが声を上げた。
「マガも行く。一緒に行く。悪者を退治しに行く」
「バカ、これから隣村に行くんだぞ。お前、神に村から出るなってきつく言われているだろう。さっさと社に戻れ」
 玉兎は厳しい顔つきをしていた。他の村の神々にはマガの存在は伝えてある。とはいえ禍津神(まがつかみ)を郷内に留め置くことを快く思っている神は一柱もいないだろう。郷への鎮座では先達である恵那彦命(えなひこのみこと)に遠慮して声に出すことはしないが、それはあくまで東野神社(とうのじんじゃ)の管理のもと東野村内に限ってのこと。もしマガが村外に出るようなことがあれば、神々の疑念は一気に解き放たれるだろう。マガの性格や性質など他の神々にとって何ら考慮の対象とは成り得ない。禍津神は、禍津神である、ただそれだけで十二分に、敵対視する対象となり得る。だからこそ玉兎は不満気なマガの言葉に耳を貸そうとはしなかった。
「えー、つまんない。マガ、忍びだから大丈夫。他の眷属たちには見つからない。もし、見つかってもうまく逃げられる」
「バカ野郎。これ以上、手間を増やすな。もしついてきたら、もう二度と遊んでやらないからな」
 マガは、口を尖らせてしきりにブーブーと不満を漏らしていたが、玉兎は無視して、タカシたちに、行くぞ、と言うが早いかさっさと美和村に向かって歩きはじめた。その背中で、マガがついてこないか、しっかりとその気配を探りながら。

 一行は、臥龍川(がりゅうがわ)に辿り着くと川沿いを下流へと少し進み、タマたちが待っているだろう川岸にいたった。しかし、そこには薄く朝霧が漂っている静謐(せいひつ)な空気が充ちているだけで、誰の姿も見出すことはできなかった。
「おっかしいな、あいつらここで待ってるはずなんだけど。先に行っちまったのかな。まったくせっかちな奴らだ」
 不機嫌な玉兎の声を聞きながら、さて、どうしよう、とタカシは考えた。川幅はかなり広い。プールではこのくらいの距離なら泳ぎ切る自信はあったが、緩やかとはいえ流れのある川を泳ぐのは不慣れな分、不安を伴う。しかも幼いリサもいる。そう逡巡していると、玉兎がおもむろに肩に担いだ縄を下ろし、その端を自らの腰に巻いて結びつけた。そしてタカシが、何をしているのかと問う間もなく、
「俺が泳いで向こう岸に渡るから、お前たちはこの縄を伝ってこい。いいな」と言うが早いか駆け出し、水際で高く跳び上がった。それは見事な跳躍、一気に川幅の半ばまで達した。水音と水飛沫(みずしぶき)を立てて川面に没した玉兎はすぐに浮上して泳ぎ出した。
 するすると川面に引かれていく縄を手に取ろうと、タカシは下を向き、腰を屈めた。と、その耳に突如、玉兎の叫び声が響いた。
「うわあ、足つった!」
 再び川面に向けた視線の先で、玉兎がぷかぷかと浮かんだまま下流へと流されていた。慌ててタカシは縄を手繰(たぐ)り寄せた。リサもその横で遠慮がちに手伝った。
「痛あ、やっぱり水の中に入る時は準備体操しないといけないな」と言いつつ岸に上がった玉兎は片足をさすっていた。その姿をタカシは、眷属でも足がつるんだ、と思いつつ眺めていた。そしてそんな彼らの様子を背後の森の中で眺めている者も。やっぱり、玉兎は出来の悪い子。マガがいないと何にもできない。
「ちょっと待っててくれよ。足治ったらもう一回行くから。今度は準備体操するから」と玉兎が呟くように言っている間に、森の中からマガが姿を現した。タカシは、あ、マガだ、と思った。リサも先ほど会っているため、それほど怖がってはいない。
「何だよ、お前、ついてくんなって言っただろ。何でこんな所にいるんだ」と言う玉兎の声にマガは静かに答えた。
「何を言っているのか分からない。拙者はただの通りすがりの忍びの者。何か困っているようだったから手伝いにきた」
 親切な忍びの者だな、とタカシは思った。
「村から出るなって言ってるだろ。すぐに帰れ」と言う玉兎の言葉を無視してマガは続けた。
「お見受けした。川を渡りたいのか」
「ああ、そうなんだ」タカシが自然に答えていた。
「それなら拙者が助ける。いや、なに、礼などいらぬ。ただ今度、神に会った時、拙者のことを、頭が良くて、優しくて、仕事もできるって、本当のことを言う、それだけでいい」
「分かった。お安い御用だ。言っておくよ」タカシは即座に返答した。横で玉兎が長く嘆息した。
「では、せっかく縄があるので使う」そう言うとマガは縄の端を持ってそのままザブザブと水の中に入っていった。途中、水深が増して足が着かなくなると身体を細長く変形させてくねらせながら対岸に泳いでいった。それはとてもスムーズに、とても慣れた風で。
 あいつ、きっとどこかでちょこちょこ泳いでいるな。それを見て玉兎は思った。東野村には泳げるほどの池も川もない。隣村に行けば大きめの貯水池があり、そこでなら泳げる。きっとちょこちょこ通っているのだろう。
 マガは間もなく対岸に上がり、大きめの木の幹に縄を結ぶとまた身体を細長くして泳ぎながら戻ってきた。そして岸に到着すると今度はお椀状に身体を変形させ、
「拙者に乗って縄を引く。濡れないし、溺れない。とても安全」と乗船を促した。
 通常、(まが)い者は取り込んだ生き物の形を継承する。そこから多少変化(へんげ)することは可能だったが、基本的にはその形が土台となる。しかしマガの場合は、通常の禍い者よりも多くの年月を過ごし、その中で多量の命を取り込んできた。だからいつしか一つの形に(しば)られることがなくなり、思いのままに変化することができるようになっていた。
 タカシとリサは恐る恐るマガの上に足を乗せた。泳いできたせいか湿っている。柔らかく、弾力がある。思ったより温かみもある。ちょっと椎茸の笠に似た肌触り。二人が乗ると少し沈み込んだが、意外と安定していた。最後に玉兎がぶつぶつ何か言いながら乗り込んだ。
「あれ、マガに帰れって言ってなかったっけ?」マガが楽しそうに玉兎に向かって声を掛けた。
「いいから早く行け」ブスッとしながら玉兎が言った。
 タカシと玉兎が縄を引くたびにマガの船はすいすいと前進した。リサも手伝おうかと思ったが、身体を入れ替える隙間もない狭い船内では逆に邪魔になりそうだったので、大人しく座ったまま悠々と流れる川面をじっと眺めていた。
 マガの身体から、波紋が緩やかに水面(みなも)を広がっていく。眺めながら、彼女は胸の内に細波(さざなみ)を感じていた。何だろう、このぞわぞわする感じ。静かに高揚するような。
 お婆ちゃんの家を出る、そう決めたその瞬間から、それまで抱き続けていた、時間の経過とともに成長していた喪失感が消えた。マコを助ける、自分の現状を変えてみる、そう決めた、その意志に従って足を進めた。そうしたら何となく視界が明るくなった。心が軽い。確かに変な生き物に出会うし、歩き疲れたし、これからどうなるか分からない不安もある。でも、不思議と凪瀬(なぎせ)さんといると安心する。何も恐れることなく自分の進むべき方向へ足を踏み出せばいい、と感じる。何でだろう。普通なら相手が男の人、それだけで不安になるし、恐くなるのに。一緒にいるとそんなことも忘れてしまうくらい穏やかな気分になる。とても不思議。

 ――――――――――

 その頃、恵那彦命は一人、境内(けいだい)の掃き掃除をしていた。落ち葉の少ない季節ではあったが、周囲を鬱蒼とした(もり)に囲まれている分、一夜過ぎれば枯れ葉や枯れ枝などがそこかしこに落ちている。しかも昨日は一際(ひときわ)、暑かった。滅多にない来客もあったので、つい風を吹かせすぎた。
 恵那彦命はふと手にした竹箒(たけぼうき)を止めた。境内に差し込んでくる朝陽の濃度が上がってきていた。それにつれて日向(ひなた)の温度が一気に上昇していく。今日も暑い一日になりそうだ、と独り()ちると、まだ落ち葉が点在する境内に向かって、ふっと息を吹いた。そして片手のひらを広げて、ふいっと横に軽く払った。すると吐いた息がくるくると回転しはじめて小さなつむじ風となった。それは恵那彦命の手指の動きに合わせて、そこかしこに落ちていた落ち葉や枯れ枝を巻き上げながら境内中を移動し、やがて一通り目立つゴミがなくなるとそのまま裏山に向かい、木々の上でふっと消滅した。たくさんの枝や葉っぱが舞いながら落ちていった。
 周囲からジーというアブラゼミの重苦しい(せみ)しぐれが耳朶(じだ)に迫ってくる。その声があまりに大きくて他には何も聞こえてこない。人の気配もない。寂々(じゃくじゃく)とした境内でただ一人、(たたず)んでいた。次第に胸騒ぎが(うごめ)きはじめる。嫌な予感が脳裏をよぎる。玉兎やマガに危険が迫っていなければいいが、と独り言ちる。
 マガはいつも通り、言いつけを守らずにまたどこかに出掛けている。しかしマガのことはあまり心配していない。マガは強い。他の神々と対抗しうるくらいに。玉兎は少し心配だった。とにかく逃げ足だけは速いので、どんな状況でも窮地に追い込まれることは少ないとは思ったが、それにも限界はあるだろう。だからこの村を離れるように仕向けた。この村は危うい、それは恵那彦命が一番よく分かっていた。この郷に鎮座する八社の中で一番守りが薄く、神としての力も弱いのだ。何者かが結界を破ろうとすれば、まずこの村に攻め入ってくるだろう。
 数日前からこの郷の空気が一変した。目には見えずともその色合いが変わった。とても不穏な空気が少しずつ郷全体に溶け込んでいた。やがて、間もなく現実に目に見える形で姿を現してくるだろう。それは怒濤のように容赦なくこの村目掛けて襲い掛かってくる。そう覚悟していた。
 ジージージー……
 ジージージー……
“来た”
 しばらく佇んでいる間に異変を感じた。この村の結界から。
 この郷の中心部分に張られた結界は、神々の大御力(おおみちから)の顕現したものであり、ある意味、神々の一部を繋ぎ合わせたものだった。だから神々は結界に異変があればすぐに察することができた。そして今、恵那彦命の分担している結界に力を加えようとする何者かの存在を感じた。それはかなり強く乱暴な圧力だった。敵愾心(てきがいしん)の固まりのような接し方、とても放置してはならない圧力。
 結界は繋がっている分、他の社の神々にも異変はすぐに伝わる。しかし自分の氏子区域外の出来事に関しては、状況確認をするくらいで、他からの要請がない限り積極的に関与することは差し控える暗黙の了解があった。だから他の神々に援助要請する気のない現段階での恵那彦命は、どうにか一人で対処する必要があった。
 恵那彦命はすぐに境内を出て、結界が張られている場所に向かった。
 それは、まるで疾風(はやて)のように。
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