第七章四話 社への帰還

文字数 4,510文字

 周囲の喧騒を尻目に一人の男眷属がタマたちのいる岸辺に近づいてきた。そして、これこれこういう訳だからそなたたちを三輪の社まで乗せていく、感謝してほしい、というようなことをごく短く伝えた。
「何とも、かたじけない。恩にきます」そう言いながらタツミは出来得る限り深く頭を下げた。
 春日神社の眷属の中で、男は慣例的に地位が低く保たれている。その中でもやってきた男眷属は一番の若年(じゃくねん)だった。日頃から、他の眷属から頭を下げられるような経験は皆無だった。だからその若い男眷属は一瞬、ドギマギした。ただ、悪い気分ではなかった。
「我に乗れるのは二人までだ。途中、振り落とされぬようにしっかりと捕まっておれ。我もすぐに戻って戦闘に加わらねばならない。ゆっくり行く余裕はないぞ」そう言って若い男眷属は変化(へんげ)しようとした。その間際、タツミのかたわらに座り込んでいたナツミがジッとその眷属の目を見上げながら口を開いた。
「あなたのお名前は?」
 若い眷属は言葉に詰まった。春日の男眷属はその能力によって順位づけがされている。普段、呼ばれる時は、一番騎、二番騎というようにその順位で呼ばれていた。だから自分の名前などすっかり忘れていた。少し時間をおいて思い出してから答えた。
「我はロクメイと申す」
 ナツミの潤んだ瞳がじっと向けられている。
「ロクメイ殿、ありがとう。よろしくお願いします」
 急に胸中に衝撃を感じた。顔が上気している。思わず視線を逸らした。
「お、おう、指令だからな。ちゃんと送り届けてやる」
 それからロクメイはすぐに鹿姿に変化した。その背にナツミとタマがすっかり力の抜けたタツミの身体を押し上げた。そしてすぐさまナツミがその後ろに乗り、両腕を、タツミの身体を挟むように前に出し、(くら)の端にある突起を掴んだ。
「では、タマ殿行ってきます。うちらへのご厚意感謝します。ロクメイ殿、お願いします」
 タマが見送る中、ロクメイは最初ゆっくり、次第に速く林の中を駆けていった。
 タツミ殿の願いが叶えばいいのだが、とタマはただ独り()ちた。

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 ナツミたちが目指している場所、三輪神社の社殿内にタカシたちはいた。
「いいかい?言霊を発する時は、何も考えてはいけない。余計なことを考えると、そこに感情が生じてしまう。ただ、ひとつひとつの言葉に集中して、はっきりと間違えないように唱えるんだ。声は大きくなくていい。言葉を掛ける相手に届くことだけを考えればいい。分かったかな?」社殿内、板敷きの上に座ったリサへ、先ほどからルイス・バーネットの言霊に関する手ほどきが続いていた。「試しにもう一度、声を出してごらん」
 そう言われて、リサは、あもりませ、と呟いてみた。その響きにルイス・バーネットは大きく息を吸いながら静かに目を閉じた。やっぱりさっきのは気のせいだったのだろうか、何かの偶然だったのだろうか?今、このコの言葉には雑念が乗ってしまっている。不要な感情に縛られて言葉自体が持つ力が発揮されていない。長く息を吐きながら、どうしたものかと考え込んだ。
 リサとしては今までの人生で経験したことのない状況、会ったばかりの人たちに囲まれている現状ではどうしても不安と警戒と戸惑いが胸中に渦巻いてしまう。何も考えるなと言われても、ごく自然に想念が頭に湧いてきてしまう。
「大丈夫。焦ることはない。落ち着いて、繰り返しやってみよう」
 現状、それほどの余裕は彼らには与えられていない。マサルの身体は次第々々に衰弱して、全身変色し出しているし、マコが今、どうなっているのかも分からない。急ぐに越したことはない。
 ルイス・バーネットの心中に焦りが募りはじめていた。何か悪い予感もする。この世界のアザミはいつもと違う。恐らくマコちゃんの存在、妹という存在に対する義務感が、次第々々に自らを追い込んでいっている。それに対する焦燥感で苛立っている。どうにかしようとして無茶をしかねないほどに。どう考えても早く駆けつけてあげたい。自分ひとりなら変化して空を飛んで行けばすぐにアザミのいる場所にいける。そうは思うが、困っている人たちを見捨てることができないでいる。それが自分の甘さだと分かっている。分かってはいるが、しょうがない、それが自分なのだ、と思った。とにかくこの状況を打開するためにこのコにこの里に鎮座する神様を呼び出してもらわないと。
 彼も先刻、試しに思い切り“あもりませ”の語に言霊を乗せて発してみた。しかし、何の変化も起きない。なぜだろう、何かが足りないのだろうか、そう考え込んだ時にふと、恵美さんの言葉を思い出した。
“我が家は神降ろしの血を受け継いだ一族なんだよ”
 やはりその点なのか。それなら彼女に期待するしかない。
「ちょっと難しいよね。でも、(へび)にやられたみんなも、あとどれだけもつか分からない。マコちゃんのこともある。余計なことは考えないで、集中して」
 ルイス・バーネットは珍しく真剣な顔つきをしていた。
 タカシもこの状況からルイス・バーネットの要求が正しいことは理解できる。しかしリサを追い込んだところで彼女が発奮してくれるのか。彼女の性格を理解しているつもりの彼にとっては(はなは)だ疑問だった。益々自分の殻に閉じこもってしまうだけなのではないか。とは言っても今、自分ができることは何もない。彼女の力になれることが何も思いつかない。ただそばにいるだけ。無力感がじわりじわりと募っていく。

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 目を覚ました時、そこは無音の世界だった。
 おまけにとても暗い。何も見えない。マコは恐る恐る手を伸ばしてみた。指先に水の感触。あらゆる方向に手を伸ばしてみる。自分は空気に包まれているが、その外側はどの方向にも水がある。いったいどういうことなのだろう?指先は確かに濡れている。でも、頭上でさえ水は落ちてこない。目も耳も役に立たない世界ではまったく状況が掴めない。
 ――目覚めたようだな
 と突然、頭の中に声が聞こえた。
 誰?声というより響きと言った方が適切なのかもしれない。そんな不思議な感覚の言葉に不気味さを感じてマコは身体をすくめた。
 ――我は権力と富の守護神。我がおぬしを呼んだ。
「ここはいったいどこなの?」声はか細く、震えながら響く。
 ――さあな。地中深くにある我が鎮まっている場所だ。
「地中深く?」マコはもちろん恐れおののいていたが、今日になってから恐れを感じることばかりが続いていたせいもあり、もう耐性がついたのか、正気を保つことだけはできていた。
 ――ああ、そうだ。我の力なくしてはおぬしなど水圧で(またた)く間に潰されてしまうほどの深い水の底だ。
「水の底?なぜあたしがそんな所に?」
 ――もう問いはよい。おぬしはただ我の器になる、それだけだ。
「器?器って何の?」
 ――しかし、本来なら大地と繋がった(かんなぎ)の乙女のはずだったが、どうやらおぬしは乙女ではないな。禍津神(まがつかみ)はまた間違えたな。おぬしでは我のすべての()(しろ)とはなれん。しかし、おぬしにはまだ染まっていない部分もあるようだ。巫の血も流れているようだし、それを器にして我の欠片を納めるか。本来ならおぬしなどすぐに消し去るところだが、小さくとも器になることができるのならば生かしておいてやろう。
 消し去る?生かす?話が不穏な方に向いてきた。いったいこれからどうなってしまうのだろう。それにしても、大地と繋がったって何のこと?巫って?乙女?もしかしてお姉ちゃんのこと?お姉ちゃんは幼い姿だったから、もしかしたら……。
 ――さあ、無駄話はこれくらいにしよう。禍津神は一向に戻ってこない。奴では役が勝ち過ぎておったのかもしれん。おぬしは地上へ戻り、我の目となり手足となりて我の(いまし)めを解いてくるのだ。
「な、何をするの?私どうなるの?」あまりの恐ろしさに思わず叫ぶように声を発した。
 その瞬間、真っ暗闇の中に巨大な目が現れた。目で見えている訳ではない。頭の中に直接その像が浮かんでいる。そして何かが膨大な圧力となって迫ってくる。言葉にできないほどの恐怖が今、そこにある。しかし逃げる手段もない。抗う(すべ)もない。その鼻腔(びくう)に思わず吐き気をもよおすほどの臭気が漂ってきた。生々しい腐臭。その臭気を嗅いだ瞬間、自分が姿を消した気がした。記憶も、自分という意識も(かすみ)が風に吹かれて消えていくように。

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 突然、社殿の外から声が響いた。
「あんたら、うちに牙を向けるつもり?さっさとどかないと粉々にしてカラスにくれてやるわよ!」
 ロクメイの背から降り、姿勢を低くしているその雄鹿の背からタツミの身体を降ろすと、層をなして社殿を取り囲んでいるカガシたちにナツミが声を掛けた。カガシたちは突如現れた雄鹿に警戒心を顕わにしていたが、ナツミの姿を認めると慌てて左右に避けて道を開けた。
「みんな、落ち着いて。うちが来たからにはもう大丈夫よ。安心して」カガシたちにそう声を掛けながら自らは慌ててタツミの身体を引きずりながら社殿に向かった。その途中で、人型に変化したロクオンが手を差し出し、タツミの身体を両手に抱えた。
 ここまでの道中、ロクオンは飛ばしに飛ばした。森を駆け、崖を飛び越え、谷を渡り、疾風のように走り抜けてきた。それは驚愕するほどの跳躍力。他の眷属なら迂回する谷や崖も飛び越え、駆け上がる。ナツミもこのような切羽詰まった状況でなければ、その飛んでいるかのような疾走を楽しんだであろう。ただタツミにとってはその間の身体に襲いくる衝撃が耐えがたい負荷となっていた。あまりの痛みに声も出ず、ただ歯を喰いしばって耐え続けた。が、途中で気を失った。
「さあ、こちらへ」ナツミが社殿の扉を開いてロクメイを招き入れた。
 社殿は御神体を納める本殿(ほんでん)から幣殿(へいでん)拝殿(はいでん)の順で並んで建っている。外見上は三棟別々の建物が連なっている構造になっているが、内部は床続きに一つの建物になっていた。
 ナツミが中に入ると拝殿には山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の眷属たちが倒れ込み、座り込んでいた。どうやらこの者たちはカガシたちと戦闘を行ったのだろう。毒にやられた者もいるようだ。ほとんどの者が身体中傷だらけで一部欠損している者もいる。もう戦闘意欲もないようだ。なぜ他社の眷属が徒党を組んで他村の社に来て傷ついて社殿の中で休んでいるのか、ぜひとも問いただしたいところだったが、そんな精神的余裕もないので、後でじっくり詰問しようと思い、さっさと幣殿に向かって歩を進めた。
 そこには人間の男と幼い女、全身黒づくめの正体不明な男と、山王日枝神社の眷属がいた。どういう状況なの?とは思ったが、それにかかずらっている場合ではない。一刻も早く大神様を呼び出さないと。
 ナツミは幣殿の中心付近にいたリサやタカシに近づくと「どいて」と一声掛けて、「こちらに」とロクオンに指示してタツミを横たえさせた。タツミは微かに呻き声を上げ、ぼんやりと目を開いた。
 ああ、我は社に戻ってきたのだな。何とも言えぬ安堵感にタツミは包まれた。これで大神様さえお姿を現してくだされば、もう思い残すことはないのだが……
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