第五章四話 兄妹の事情

文字数 4,711文字

 身体にきつく巻きついた鎖を解き終えると、カツミは木の根元に背をもたせかけてぐったりと足を投げ出しているタツミのもとへ、肩を怒らせながら歩を進めた。
「何を、何をしてくれた。お蔭でみすみすナツミを(さら)われてしまったではないか。いくら兄者でも我は許さんぞ」憤怒の表情を兄に向けていた。タツミは(さと)すように声を返した。
「あれは禍津神(まがつかみ)だ。我らでは敵わん。我も一撃でこの有り様だ。いくらそなたの力が強いといっても相手が悪すぎる。諦めろ」
「諦めろ?諦めろと言ったか?日頃から薄情だとは思っていたが、兄者がここまで薄情だったとは思わなんだ。我は敵がどんなに強くてもナツミを諦めることなどできぬ。我が存在を引き換えにしてでも助け出す」
「やめておけ。そなたでは無理だ」
「無理かどうかはやってみないと分かるまい」
「そなたはナツミの兄である前に、三輪明神(みわみょうじん)の眷属である。眷属としての勤めを忘れるな。兄の言うことを聞け」タツミは全身から激痛を感じているのだろう。時折、激しく顔を歪めながら必死に説得しようとした。その声も、その内容もカツミの心中に届いていた。兄の言うことの方が正しい。それはいつものことだ。そんなことは分かっている。でも、妹を失うかもしれないという焦燥感がなにより勝っていた。

 ナツミは、唐突に生まれた。ある夏の日に突然、何の前触れもなく、山から二人のもとへ下ってきた。それが妹だとタツミから教えられた。
 それまでは何をするにも、どこに行くにも兄と二人きりだった。兄はとにかく厳格だった。民草(たみくさ)に対しても他の神や眷属に対しても、三輪明神の眷属という誇りをもって接していた。大神様が山にいる時間が長くなればなるほどその傾向は強くなっていった。堅苦しい兄との息苦しい生活。それが当たり前で、それが日常だった。だから特に不満があった訳ではない。ただ、同じような毎日に飽き飽きとしていた。しかし、そんな生活もナツミが来てから一変した。
 ナツミはとにかくよくしゃべり、よく動き、よく怪我をした。
 カツミは、ナツミの養育や教育をタツミから命じられていたが、すぐ人目を盗んで姿を消すナツミを、毎日のように時間を掛けて捜さなければならなかった。また、木から落ちたり、雨後の水量の増した川に入ってはいけないと教えていても、入って下流まで流されていったり、何でも食らいつくためにたまに変なものを呑み込んだりする、そんなナツミの姿を捜し、見つけ、連れ帰り、看病する。最初は大変な目に遭わされている感覚だったが、慣れてくるといつからかそれが当たり前の日常になってきた。そして、日に日に身体が大きくなり、行動が力強くなり、言葉もしっかり話せるようになっていくナツミを見守ることに、生きがいを強く感じるようになっていった。いつしか妹を自分の存在よりも大切に感じはじめていた。

「いやだ。我はどこにいるか分からぬ大神様や薄情な兄者よりもナツミのためにこの身を使う。止めても無駄だ」
「バカな。お前まで失ったら我は……」タツミそう言いながら自らの鎖を手繰(たぐ)り寄せた。しかしその手にはもう力が入らなかった。先ほどカツミに向けて放った一投が最後の力を振り絞ったもので、もう自らの身体が意思に従えない状態になっていた。
 立った状態のカツミは静かに兄を見下ろしていたがサッと(きびす)を返し湖に向かった。背後から兄の呼ぶ声が聞こえたが無視して歩いた。とその時、湖面が唐突に盛り上がった。
 兄弟の目の前で水が柱状に立ち、再び禍津神がその姿を現した。そしてその傍らには、これも水の柱の上に乗ったナツミの姿。
「ナツミ」と思わず叫んだカツミの方へ水の柱が一直線に伸び、ナツミをカツミに向けて放り投げた。カツミはとっさに受け止めた。その時には水の柱は彼らの頭上を越え、その先はタツミの身体を捉え、即座に禍津神の傍らに戻っていった。
「女、この者は大切か?」夜の静寂を破る禍津神の不気味な声。ナツミはカツミの腕の中で何度か咳き込んでから叫び声を上げた。「兄様ーッ」
「この者を返してほしければ、お前が見たという東方にいる人間の若い女を連れてこい」
「兄様を返せ!」ナツミは再度、叫びながら兄の腕の中から抜け出して地に足をつけた。即座にカツミが鎖を構えた。その姿を見ながら禍津神はさっと指を動かしてタツミの方へ向けた。
 巻きついていた水がタツミの身体を急に締め上げた。思わずタツミは苦痛の声を上げた。
「我はごく簡単にこの者を消すことができる。それにこの者はだいぶ弱ってもいるようだ。急いだ方がいいのではないか。早く人間の女を連れてこい、分かったな」
 ナツミは水底で悟っていた。この者たちには敵わない、どうやっても。それなら兄様を助ける手立てはただ一つ。すぐ横で鎖を今にも禍津神に向かって放とうとしているカツミの前に腕を上げてその動きを制した。
「分かったわ。人間の女を連れてくる。そしたら兄様を返してよ。必ずよ」
 苦渋の表情を浮かべながら言う。その目には熱いものがにじみ出ていた。兄様、少しだけ、少しだけ待ってて、うちが必ず助け出すから。
「分かった。楽しみにしているぞ」そう言うと水の柱は一瞬にして消えた。禍津神と一体の眷属とともに。
 再び静寂が戻った湖畔(こはん)にカツミの声が響いた。
「ナツミ、どういうことだ。人間の女?とにかく、お前は無事だな、よかった」
「全然よくない!兄様を助けないと。行くわよ」
「行くってどこに?兄者を助けるってどうするんだよ?」
 その声には応えずにナツミは先ほどまでタツミがもたれかかっていた木の根元に足を運んだ。そこにはタツミが残した鎖鎌(くさりかま)が放置されていた。ナツミは鎌を、鎖を手に取った。必ず、民草の女を連れてきて兄様を助ける、そう強く決心しながら。

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 布団に入って休むなんて何年振りかしら、そう考えながら、安らかな寝息を立てて寝入っているマコの背中をナミは眺めていた。時々、くいん、くいんという鼻を鳴らすような音も聞こえる。そんなところも微笑ましく感じる。
“妹”とても意味がある、大切に思える言葉であり存在。でも、このコは山崎リサの妹、あたしの妹じゃない。あたしの妹?あたしに妹がいたのかしら?思い出せない。とても大切なことのはずなのに。思い出せないということはいなかったのかしら。じゃ、妹を大切に思うこの気持ちは気のせい?分からない。どういうこと?
 寝室には向かい合う壁に窓が設けられていた。網戸を通してそよ風が渡っていく。見張りを除いて男性陣はみな居間で眠っているはずだった。女性たちはみんな寝室に雑魚寝していた。自分は眠る必要がないからと布団の用意を一旦は断ったが、一緒に寝ましょうよ、というマコの言葉に抗えなかった。マコは姉とナミの間に挟まれて安心しきった様子で寝入っている。
 ナミは、いくら考えても結論の出ない思考に少し疲れてきた。一旦休もう、と思った。
 肉体を失ってから彼女は眠る必要がなくなった。霊力の残量さえあれば、休みなく活動を続けることができる。能力を使いさえしなければ、霊力は少しずつではあるが回復していく。ただ、今日は突然現れた鳥男のせいでたくさん能力を使い、霊力の残量も減っていた。今、見張りも立っていることだし、危険の兆候もない。せっかくなので、彼女はゆっくり霊力の回復に努めることにした。一旦、霊力の活動を停止して、その回復速度を早めようと思った。これは睡眠というより活動停止、微睡(まどろ)むこともなく、夢を見ることもない。ただ、電源を切るように活動を停止させる。一定の時間がくれば、また電源が入るように活動がはじまる。その間、周囲に対するセンサーだけは働いている。何か異常を察知した時は自動で電源が入るように目が覚める。
 やがて、ナミは静かに目を閉じた。

 その頃、カツミとナツミは祝山(いわいやま)の麓で、周囲に放っていたカガシたちの報告を聞いていた。間違いない、この山を少し登ったところに若い民草の女がいる。各お社の眷属たちも一緒にいるが、今は寝入っているようだ。ただ一人、天満天神(てんまんてんじん)の眷属だけが見張りについている。
「よし、行くぞ」カツミは普段、めったに妹に見せることのない、厳しい表情を向けた。妹は黙って頷いた。
 二人は大量のカガシたちとともに麓から山を登りはじめた。月の明るい夜だったが、彼らは極力陰になる場所を選んで音もなく進んだ。やがて目的の家屋に着いた。カツミはすぐに蛇体(じゃたい)に変化し、カガシたちを引き連れて壁を伝い、屋根裏へと入り込んで、その場でしばらく待った。
 一人、人型のナツミは、腰にぶら下げた革袋を開いて中から小さな香炉を取り出した。そしてすばやく火口(ほくち)に着火し香炉に投入した。
 香炉にはタツミが長年かかって調合した各種薬草や木の皮や動物の肝などをすり潰し()り合せた一個の塊が入っていた。彼らはこれを眠り玉と呼んでいた。この塊を(いぶ)した煙を吸えば人間でも眷属でも眠りについてしまう。その効力はけっして強くはなく、物理的な刺激を与えればすぐに目を覚ましてしまう程度だったが、それでも彼らが作戦を遂行するためには充分な効果だった。実際、煙の向かった先の玄関先にいた蝸牛は微かににおいの変化を感じ、煙が漂っていることを察したが、その途端、たまらなく眠くなった。何度か自分は見張り中なのだからちゃんと目を覚ましていないと、と自分を律したが、そう思えば思うほど、(まぶた)が重くなってしょうがなくなった。そしてほんの数秒間、ふと意識が遠のいた隙に、その脇をナツミが通り抜け、軒下に潜り込んで気配を消した。
 天井裏から妹の動きを確認すると、蛇体のカツミは天井板の一枚を横にずらしてから壁のちょっとした凹凸やカーテンを伝って寝室に降り立った。
 鎌首をもたげた状態で室内を確認する。女ばかり。人間が三人、眷属が一人、何か分からない存在が一人。人間のうち一人は老いている。残るは二人。一人は若く、一人は幼い。どちらだろうか?
 カツミは元来、こまごまと物事を考えるのが苦手で何事も直感的に判断するたちだった。だから今回も大は小を兼ねる、とすぐさま目星をつけた。そして人型に変化し、極力気配を消しながら、玄関側にある大窓に近寄ってゆっくり音が立たないように網戸を開き、マコの寝ているすぐ横にヒザを着いた。そして懐から眠り玉を取り出すとマコの鼻先に近づけた。
 人間相手なら煙を発しなくてもそのにおいを嗅がせるだけで効果があった。この女はより深い眠りに落ちていることだろう。そしてカツミはマコの身体を両腕に抱え上げた。案の定、マコが起きることはなかった。ただ、体勢が変わったために、それまでリズミカルに鳴っていた鼻音の音程が変化した。その変化にナミのセンサーが反応した。
 目を開いた瞬間、異変に気づいて侵入者に向けて左手のひらを向けた。しかし、ちょうどその方向にマコの姿がある。ナミはとっさに手を引いて声を上げた。
「みんな起きて」
 声が響くとほぼ同時にカツミはマコを抱えたまま大窓から玄関先に飛び出した。気づいた蝸牛が剣を抜いて駆け寄ろうとした。しかし背後からその両足に何かが絡みついた。蝸牛は思わずその場に倒れ込む。その横をナツミが駆け抜けていく。
 ナミは窓から玄関先に飛び出した。まだ誘拐犯たちの背中が見える。追う、そうナミが思った瞬間、屋根の上や庭木の陰からカガシたちが一斉にナミに向かって飛び掛かった。ナミは一瞬、背筋が凍りつく感覚を抱き、高速で襲撃者を避けながら上空高く飛び上った。そして、すぐにマコを(さら)った者たちの姿を捜した。
 しかし、もう、どこにもその姿を見出せなかった。
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