第四章九話 夕焼け空と満天の星

文字数 4,511文字

 そうこうしているうちに、裏の小さな畑から、タマやヨリモや玉兎(ぎょくと)がジャガイモや葉物野菜を収穫して戻ってきた。
 流しでリサやマコが野菜を洗っている横で、帽子や上着を脱いでシャツの袖を(まく)し上げたルイス・バーネットが猪肉(ししにく)を袋から取り出し、裁断しはじめた。ある程度まで裁断すると、どうやって食べます?と恵美さんに訊いた。
「牡丹鍋もいいけど、暑いからね。納屋に七輪があるからそれで焼こうか」
 いいですね、と言いつつそれ用に小さく切り分けるルイス・バーネットの包丁捌(ほうちょうさば)きはなかなか手慣れたものだった。何でもそつなくこなすこの男がいったい何者なのか、少し知りたいと思いつつ、タカシは恵美さんの指示に従って、台所の奥にある風呂場までもらってきたスイカを持っていき、風呂桶に入れ、上から水道の水を細く流して掛けた。恐らく地下水なのだろう、その流水は驚くほど冷たかった。これならこの大きなスイカでも、中心が冷えるまで、それほど時間は要しないだろう気がした。
「お姉ちゃん、何でそんなに小さいままなの?お婆ちゃんも何か若くなってるし」マコがリサと並び立ち、姉を見下ろしながら訊いた。
「あなたこそ、どうして突然、大きくなっているの?本当にマコなの?」
「ひどいわね。妹を忘れたの?」
「こんなに、大きな妹を持った覚えはないんだけど」
 戸惑いつつも和んだ雰囲気を(かも)し出している姉妹の後ろ姿を眺めていたナミの顔に、少しの寂しさが浮かんでいた。そんなナミにルイス・バーネットが振り返りもせず、肉を切りながら声を掛けた。
「アザミ、肉を盛り付ける大きめのお皿を出してくれないか。僕の手、血だらけだから」 
 何であたしが、とナミは言いかけたが、半ばで言葉を呑み込んで、代わりに姉妹に向けて声を掛けた。
「マコ、大きな皿はどこにあるの?」
「あ、こっちです」と朗らかな表情を見せながらマコは言うと、背後の壁に備えつけられた食器棚スペースに向かった。その食器棚は壁を穿(うが)って作られており、台所からも、台所から壁一つ隔てた食事部屋からも食器が取り出せる作りになっていた。ガラス扉を開いてその棚から陶磁の白い大皿を取り出して、これでいいですか?と言いつつナミに差し出した。
 ありがとう、と微笑み掛けつつナミはその大皿を受け取りルイス・バーネットが肉を薄切りにしている横に置いた。ルイス・バーネットはその皿の上に、まるで薄造りのように猪肉を外側から内側に、螺旋状(らせんじょう)に隙間なく並べていった。
 その頃、玄関先ではタマと蝸牛(かぎゅう)と玉兎が七輪を囲んで炭の火つけに悪戦苦闘していた。普段、彼らは御饌(みけ)御酒(みき)などの気を食する。生の物なら生のまま、調理された物が供えられれば、調理された気を食する。そのため、自分たちで調理する必要があまりない。だから火を点ける機会もあまりなかった。ただ、試行錯誤を繰り返すうちに何とか無事、炭に火が点いた。
 玄関先で、タマたちが肉を焼きはじめる頃、リサはちゃぶ台の上に全員分の皿や箸を並べていた。その姿を認めるとタカシは、しばし迷った末に近づいて、少し離れた所で立ち止まった。そして両膝を畳に着けながら呼んだ。
「リサ」
 今、自分はリサと一緒にいる。でも彼女はとても幼い。加えて、こちらのことを知らない。とてもやるせない。でもそれを(おもて)に出してはいけない。
 リサは呼び掛けられて動きを止めた。うつむいたまま固まっていた。
「俺は凪瀬(なぎせ)タカシ。君とはずっと先、何年も後に知り合うんだ。信じられないだろうけど、本当なんだ。俺は君のことを“リサ”って呼んでいた。だから今の君のことも“リサ”って呼んでもいいかな」
 リサはうつむいたまま頷いた。
「君と俺は、とても仲が良かったんだ。お互いにとても信頼し合っていた。だから君とも仲良くなりたいと思ってる」
 リサは少しだけ顔を彼に向けた。少し微笑んでいるように見えたが、それがただの愛想笑いであることは彼にはよく分かった。
「何か、してほしいことがあったら遠慮なく言ってほしい。どんなことでもいいから」
 そう言われたリサの顔には鈍い愛想笑いが貼りついたまま。タカシは立ち上がり、リサから離れて玄関に向かった。少し外の空気を吸いたい気分だった。ジャガイモ中心の煮物が入った底の深い大きな器を手にしたマコに付き添うように台所から出てきたナミは、タカシのそんな意気消沈な姿を見て、後を追った。そして庭の端で立ち止まり遠くの風景を見ているタカシの背中に声を掛けた。
「この世界は、恐らく山崎リサの魂に記憶された彼女の過去がもとになっている。山崎リサがどうして幼い姿でいるのか、自分の過去の何にこだわって、そんな姿でいるのか、その理由は分からない。きっと山崎リサ本人にも分からないだろう。しかし、そんなことを詮索するよりも、あなたがすべきなのは現実世界の山崎リサを助けること、そうでしょ?」
 いつの間にか夕闇が迫っていた。夕映えに輝く屋根の奥、広がる田園風景に薄闇が降り注ぐ。その向こうに連なる青山垣の稜線に夕陽が触れて、空を茜色に染めながらじわりじわりと夜のとばりへと退いていく。タカシはその荘厳とも言える風景をじっと眺めていた。
「分かってる。ここでしないといけないのは、この世界の崩壊を防ぐこと。それだけだ……」
 そこにマコが二人を呼びにきた。
「ごはんの用意ができました。みんな待ってますよ」

 マコが言うように恵美さんの料理はとてもおいしかった。煮物やおひたしやゴーヤの卵とじ
も美味だったが、生のままで食べるキュウリやトマトも、みずみずしくまさに大地の恵みという味がしておいしかった。また猪肉は思ったよりくせがなく、最初こそ抵抗があったが、二口目からはほぼ抵抗なく口に運ぶことができた。また、塩コショウを振りかけただけの味付けだったが、とてもコクのある味わいだった。ただ、豚肉を食べ慣れた口には、その筋張った肉は少々固く感じられ、途中で(あご)が痛くなった。
 全員の食事が終わり、リサとマコの姉妹と眷属たちが冷えたスイカを食べ出すとタカシは一人席を外して、奥の部屋に向かった。そこは先ほどリサがケガレに襲われていた部屋。いったいあの人型のケガレが何を意味していたのか、考えても分からなかったが、そのケガレの原因となった存在がリサの過去に決して良くない影響を及ぼしているのだろうことは推測された。
 玄関の方に向けて大きな窓が開いている。少し標高が高いせいなのか、陽が沈んでからは暑さはほとんど感じられなかった。(ふもと)から吹いてくるそよ風が心地よく部屋の中を横切っていく。畳の上に腰を下ろし夜空を見上げた。そのまま一面に瞬く無数の星を眺めていた。あまりに数が多すぎて光が層となり白くぼやけている天の川も見える。
「一人たそがれているところ申し訳ないが、お酒がまだ残っているから一緒に呑まないか?」
 気づくと部屋の入り口にルイス・バーネットが、手に一升瓶と二つの湯飲みを持って立っていた。彼はタカシの返事も待たずにその横に座って湯飲みに酒を注ぎはじめた。
「僕が送り霊になる前、まだ人間だった頃は、ワインや洋酒ばかり飲んでいたんだけど、この日本酒もけっこうおいしいね。(くせ)になりそうだ」胡坐(あぐら)をかいたくつろいだ姿勢で、砕けた感じで言う。ただ、その所作にはどことなく気品が感じられる。
 当初、ルイス・バーネットに会った時には山高帽を目深(まぶか)に被っていたせいもあり、容姿を含め、謎の多い人物に見えたが、今、帽子や上着を脱いでくつろいだ表情の彼を見ていると、名前に反し、その目鼻立ちの整った凛とした顔つきは日本人にしか見えない。 
「このお酒は特に呑みやすくておいしいね。近くの地酒みたいだけど、純米大吟醸だから、たぶんその酒蔵(さかぐら)で作られている日本酒の中で最高級の商品だと思うよ」タカシが日本酒の注がれた湯呑みを手に取りながら言った。
「へえ、日本酒詳しいんだね」
「ああ、会社の先輩が日本酒好きでね。しかもその人の実家が酒屋だったから詳しくて。よく呑みながら教えてもらったよ」
「へえ、そうなんだ。僕は君の担当だから君のことはおおよそ分かっているつもりだったけど、知らないこともまだたくさんあるみたいだね」
 タカシはグイっと湯呑みの中の酒を一気に呑み干した。ルイス・バーネットが再度、一升瓶を持ち上げて、タカシの持つ空いた湯呑みに中身を注いだ。
「これから俺がどうなるか、分かるのか。俺は本当にリサを助けることができるんだろうか」
 タカシがちらりとルイス・バーネットに目をやるといつもの微笑みが向けられていた。
「言うまでもなく僕は君の運命を知っている。生まれた時から人はあらかじめ決まった運命に従って生きている。死んでしまう時も含めてね。ただ、これは人生のあらすじ、概要に過ぎないんだよ。大枠は変更はできないけどその細部は日々刻々変化していく。現に君は山崎リサの魂、自我の中にいる。これはあらすじには欠片も出てこなかったことだ。僕をはじめ誰にも予想できなかったことだ。そして今、君は未来をも変えようとしている。山崎リサの運命の大枠を変えようとしている。そんな君に運命を伝えても無意味だろう。運命の存在を君は否定しようとしているのだから」
 タカシの腹中に酒が柔らかく熱を発しながら流れていった。その熱が身体の芯から肌に表出し、そよ風に吹かれてどこかへ消え去っていく。
「君は今まで誰もなし得なかったことをしようとしている。だから不安になるのも仕方ないと思う。君の願いが叶えられるかどうか、それは僕にも、アザミにも分からない。でも、信じるしかないだろ」そこまで言ってルイス・バーネットも湯呑みをグイっと空けた。(ほの)かに(ほお)(あか)く染まっているように見える。「アザミはすごく勘が強くてね。昔から超能力かよっていうくらい動物的な勘を発動させていたんだ。そんなアザミが、君たちなら大丈夫な気がするって言うんだ。彼女の勘がそう言わせたんだ。だから彼女は君たちを信じる。彼女が君たちを信じるから僕も君たちを信じようと思う。君たちも自分たちを信じるしかないだろう」
 ああ、と言いながらタカシは少し頷いた。
「それから、好きな人の過去を知りたいと思うのは人情だよね。でも、それを知ったところで愛情が増すことはあまりないと思うな、その逆はあっても。過去は単なる過去だよ。現在に至るまでのただの通過点でしかない。今、その人のことが好きなら、それでいいんじゃないか。無理に過去に目を向ける必要はないと思うよ」
 どうやらルイス・バーネットはこちらの鬱屈とした思いを察して助言をしてくれているみたいだ、とタカシは感じた。
 リサの過去に何があったのか、知る時があるのだろうか。知りたい気もするし、知らなくてもいい気もする。ただ、もし知ることがあれば、無条件でそれを受け入れること、それが現在のリサと一緒に生きるための前提となるのだろう。
 そんなことを考えているうちに頭の中がおぼろげになってきた。今日はたくさん歩いたせいか酔いが深く、普段より格段に早く全身に行き渡っていく。ほわんとした固まりが次第に大きくなりながら頭の中で浮かんでいる。
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