第五章十話 只今見参!神鹿隊
文字数 4,385文字
カツミは両手にマコを抱えたまま、湖面で禍津神 の出現を待っていた。
しばらく経っても現れる兆 しもない。こんな状態で人目につくのも考えものなので、小声で呼び掛けてみる。だが、現れない。湖面に顔をつけて水中に声を発してもみた。しかし、現れない。カツミはだんだん焦 れてきた。もしかしたら先ほど遭遇した“尾の楔 ”近くで待っているのかもしれない、と思いじりじりとそちらに移動していった。カツミとしてはさすがに“尾の楔”に禍津神を近づけたくはなかったので、本当なら湖の中心部分で見 えたいところだった。しかし夜が明けはじめている。急がねば、兄者も衰弱しているだろう。
眷属は基本的に死ぬことはない。何百年と生き永らえることができる。しかし、衰弱の限界を超えてしまうと身体の構成要素をまとめている繋ぎが緩み、分裂して、結果的に消滅してしまう。だから急がねば。
このコには悪いが、そう思いつつカツミはマコの寝顔に視線を向けた。彼らは普段人々を助け、守護する立場にあった。だから人を害することをしている自分の行動にためらいや罪悪感がない訳ではない。しかし、これは仕方のないことなのだ。マコの身体から人間の女特有の柔らかく甘ったるい匂いが鼻腔 に漂ってくる。その匂いを嗅いでいると尚更申し訳ない気持ちになってきた。まだしばらく眠ってくれているとよいのだが、とカツミは独り言 ちた。一定時間、その身に触れていると人間でも眷属の姿を視認することができるようになる。なるべくなら姿を見られる前に事を済ませたい、そう思った矢先に、マコの目がパッと開いた。
身体の揺れに目を覚ましてみたら、目の前、至近距離に知らない男の顔があった。マコは当然の如く叫び声を上げた。
「キャーッ」と言いつつマコは暴れた。カツミから離れようと身体中を使って。
「バカ、女、暴れるな。ここは水の上だ。落ちたらずぶ濡れになるぞ」
「え、え?えー?」マコはあからさまに狼狽 していた。水の上で見知らぬ男の腕に抱えられて移動している。通常考えられない状況。「何で?何で、私こんなところにいるの?私をどうするつもり?」
カツミはそのまま黙り込んだ。この女に状況を説明しても、はい、そうですか、と犠牲になってはくれないだろう。相手が黙り込んでいるので、マコは尚更不安になった。彼女は今、パジャマ姿のままだった。しかも夏用で生地が薄い。せめて服だけでも着替えたい、そしてどうにか状況を把握したい。私はいったい、これから、どうなるの?
水の上をひと一人抱えて走っているにも関わらず、カツミの足は速かった。バシャバシャバシャと、波紋を湖面に描きながら、水音を立てて走り続けている。マコとしては、その腕の中から振り落とされないように今はただ、じっとしているしかなかった。
そんな二人の耳朶 に彼方から何かが駆けてくる音が聞こえてきた。それはリズミカルに跳ねるような音。南方から、瞬 く間に近づいてくる。気づいたカツミは立ち止まり、音の主を捜した。それはすぐに姿を現した。雄々しく角を生やした大柄の鹿、その背に騎乗している一人の女性。岸に沿って走っていたかと思うと、湖面に向きを変え水音を立てながら急速に近づいてきた。
その女性を乗せた鹿は、水面を何度か駆けながら一直線に彼らの方へ近づき、声の届く距離にまでくると足を止めた。停止した途端、鹿の身体は水中に沈んでいき、頭と背中のみ水面から出す格好になった。その背中に跨 っていた女性が鹿の角に手を掛け、すっとその背に立ち上がる。
「自分は、春日大明神 が衛士 、神鹿隊 々長サホである。神議 りの要請により楔 を守護しに参った。そなたは三輪明神 の眷属か。民の叫び声が聞こえたが、何事か」
その時、東の空から曙光 が射し、湖面がさっと照らされた。女性は、小振りな甲冑 を含め、全身白色で統一された古代の軍装に身を包んでいる。色白き面 の上には、茶褐色の長く豊かな髪が陽光を受けて輝いている。ふと風が吹いた。羽織っている髪と同系色のマントの裾 が翻 る。スラリと背の高い体躯を真っ直ぐに伸ばし、微動だにしない立ち姿。マコは清澄 な朝の気に包まれたその女性の姿に思わず目を奪われた。何か、すごく、とても、きれい。
ぐぬぬ、こんな時に厄介な相手に出くわしてしまった。カツミはそう思い、即座に対応について熟考した。相手は、隣村、この郷の南方に鎮座する春日神社の眷属だ。かなり手練 れであると聞いている。戦って勝てるかどうかはやってみないと分からない。水の中なら逃げることは容易だが、どちらにしても民草 を抱えたままでは、どうしようもない。加えて状況を説明しようにも、禍津神と交渉するために民を誘拐したなどと言えば、間違いなく邪魔されるだろう。さあ、どうする?
答えが出ない。協力して禍津神に対抗したら、とも考えたが、もしそれで勝てない場合、状況が更に悪くなってしまう。最悪、タツミの身に危険が及ぶ。そもそも眷属ごときが禍津神の相手になるのだろうか。どう考えても危険が大きすぎる。かといって、うまい嘘も思いつかない。そんなことを考えているうちに急に腕の中でマコが声を上げた。
「た、助けてください。私、この人に攫 われたんです。お願いします」
マコにとってみれば、自分を抱えている男も鹿の背に立つ女もどこか人間離れしており、正体不明な存在でしかなかったが、性別からしても容姿からしても物言いからしてもまだ目の前の女性の方が信用できる気がした。だから藁 にもすがる思いで声を上げていた。
二人を見る女性の視線が鋭さを増した。おい、黙れ、とカツミが慌てて制した。
「先ほど、お社に行っても誰もおらず、大神様さえおられなんだ。民を攫っただと?いったいそなたたちは何をしておるのだ?説明してもらおう」
カツミは黙ることしかできなかった。その頃には湖の東岸、彼にとっては左側の岸にいくつか動く気配が感じられた。恐らく目の前の女の仲間だろう。状況は著しく悪い。
「どうした。黙っておるということは自分の非を認めているということか。それなら」
そこまで言われて仕方なくカツミは声を発した。
「これは必要なことなのだ。訳は後ほど話す。見逃してくれ」
「訳も言わずに、見逃せと言われて見逃すほど自分もお人好しではない。見くびるな」
更にサホの目に厳しさが増した。そして腰に差した剣を抜き放ち、その先をカツミに向けた。
「民を離し、降伏せよ。抵抗するならここで消す」凛としたまま言い放った。
已 むを得ん、カツミは独り言 ちて、唐突にサホに向かってマコを空中高く放り投げた。朝の静寂にマコの叫び声が響き渡る、と同時にカツミの身体が変化した。全身、真っ青な大蛇 の姿に。
ちょうど自分の方へ飛んでくる。サホは慌てて剣を鞘 に納めて両手を差し出してマコの身体を受け止めた。サホはヒザを曲げて衝撃を吸収したが、それはそのまま足下の鹿の背中に及び、その身体は激しく水しぶきを上げて水中に沈み込んだ。一瞬、全身を水没させた雄鹿はすぐに浮かび上がると、ぶはーと荒く息を吐き出した。
「そなた、大丈夫か?」自分の腕の中で、目を固く閉じ、身体を縮めているマコに向かってサホが訊いた。マコは目を閉じたまま小さく何度か頷いた。すると即座にサホは周囲を見回した。いない……。三輪明神の眷属の姿がどこにも見えない。一瞬、蛇 の姿に変化 したように見えたが、どこに……。とにかく水の上では分が悪いし、民を抱えたまま戦う訳にもいかない。
「岸に戻れ。急げ」とサホが足元に指示を出す。即座に雄鹿は、必死に足を掻 いて岸を目指して泳ぎはじめた。すると突然、雄鹿が顎 を上げてぶふぉ、と叫び声を上げた、と同時にがくんと身体が沈み込んだ。何?サホは水中を覗き込む。濁った水の中、薄っすらと青白く細長いものが雄鹿の足に絡んでいる。雄鹿が頭を、身体をバタつかせながらもがいている。背中も波打つ。足元が安定しない。くそっ、サホはマコを抱えたままグッと重心を低く屈み込んで、そして一気に跳んだ。
それは人間では考えられないような驚くほどの跳躍だった。二人は空中高く飛んでいた。しかし、それでも岸には距離があった。湖面に落ちる、サホは察して岸に向かって指令を発した。
「弥生 、受け取れ!」
言うが早いかサホは岸に居並ぶ仲間に向かってマコの身体を放り投げた。また?とマコは思いつつ叫び声を上げた。
岸にはサホと同じ軍装を身にまとった女眷属たちの集団がいたが、その一人が、承知した、と答えながら波打ち際まで進んで両手を前に出し、身構えてマコの落下を待った。
宙に弧を描きながらマコが落ちてくる。少し先でサホが激しい水しぶきを上げながら湖面に没した、とほぼ同時に水中から鎖 が飛び出し、宙を突いて一直線にマコの身体に向かい、瞬 く間に絡まった。弥生をはじめ眷属たちが、あ、と思う間もなくマコの身体は空中を湖の方へ引き戻された。
今度は何ーっ?とマコはまた叫び声を上げた。
サホが水面に勢いよく顔を出す。時を同じくして離れた場所から雄鹿も水中から顔を出す。サホが視線をずらす。そこにはマコの身体を小脇に抱えたカツミの姿。水面に立ち、片手には鎌 を持っている。
「春日明神の眷属よ。我の邪魔をするな。これ以上、邪魔するならただではおかん。誰も傷つかないうちに村に戻れ」
サホが気づくと自分に向かって岸から雄鹿が二匹泳いできていた。その到着を待ち一匹の角を掴んで背中に上がった。片足ずつ二匹の背中に乗せた。
「射撃用意」という弥生の声とともに何本もの弓を引き絞る音が聞こえた。サホは片手を横に上げてそれを制しながら、「弥生、一番隊二番隊を率いて八艘 の陣形に展開。睦月 、三番隊と四番隊を率い円形にあやつを囲め」と大音声を上げた。岸にいた神鹿隊から、ハッ、と声が上がると、即座に副隊長である弥生と睦月が周囲に指示を出し、それによりその場にいた全員が動き出した。サホは続けてカツミに厳格なる気を発しながら正対した。
「三輪明神の眷属よ。これは神議りに対する謀反 であるか?そなたの大神は神議りに召 されても応じず、眷属は民を攫い、我らの勤めを妨害しておる。これはあからさまに謀反である。申し開きの言あるならば聞く。なければここでそなたを滅する」
サホは鋭い視線をカツミに向けていた。なるべく抑えてはいたが不機嫌この上なかった。人をおちょくるような真似をして、自分をずぶ濡れにさせた。この光沢美しき豊かな髪もびしゃびしゃだ。頭が重いったらありゃしない。それより何より大神様たちの決めたことを邪魔しようとしている。どうあっても許せる状況ではない。
サホの脳裏には一つの噂がよぎっていた。それはあくまで噂。でも誰もが信憑性のある噂だと思っていた。誰もがまさか、とは思いつつも否定できない噂だった。
しばらく経っても現れる
眷属は基本的に死ぬことはない。何百年と生き永らえることができる。しかし、衰弱の限界を超えてしまうと身体の構成要素をまとめている繋ぎが緩み、分裂して、結果的に消滅してしまう。だから急がねば。
このコには悪いが、そう思いつつカツミはマコの寝顔に視線を向けた。彼らは普段人々を助け、守護する立場にあった。だから人を害することをしている自分の行動にためらいや罪悪感がない訳ではない。しかし、これは仕方のないことなのだ。マコの身体から人間の女特有の柔らかく甘ったるい匂いが
身体の揺れに目を覚ましてみたら、目の前、至近距離に知らない男の顔があった。マコは当然の如く叫び声を上げた。
「キャーッ」と言いつつマコは暴れた。カツミから離れようと身体中を使って。
「バカ、女、暴れるな。ここは水の上だ。落ちたらずぶ濡れになるぞ」
「え、え?えー?」マコはあからさまに
カツミはそのまま黙り込んだ。この女に状況を説明しても、はい、そうですか、と犠牲になってはくれないだろう。相手が黙り込んでいるので、マコは尚更不安になった。彼女は今、パジャマ姿のままだった。しかも夏用で生地が薄い。せめて服だけでも着替えたい、そしてどうにか状況を把握したい。私はいったい、これから、どうなるの?
水の上をひと一人抱えて走っているにも関わらず、カツミの足は速かった。バシャバシャバシャと、波紋を湖面に描きながら、水音を立てて走り続けている。マコとしては、その腕の中から振り落とされないように今はただ、じっとしているしかなかった。
そんな二人の
その女性を乗せた鹿は、水面を何度か駆けながら一直線に彼らの方へ近づき、声の届く距離にまでくると足を止めた。停止した途端、鹿の身体は水中に沈んでいき、頭と背中のみ水面から出す格好になった。その背中に
「自分は、
その時、東の空から
ぐぬぬ、こんな時に厄介な相手に出くわしてしまった。カツミはそう思い、即座に対応について熟考した。相手は、隣村、この郷の南方に鎮座する春日神社の眷属だ。かなり
答えが出ない。協力して禍津神に対抗したら、とも考えたが、もしそれで勝てない場合、状況が更に悪くなってしまう。最悪、タツミの身に危険が及ぶ。そもそも眷属ごときが禍津神の相手になるのだろうか。どう考えても危険が大きすぎる。かといって、うまい嘘も思いつかない。そんなことを考えているうちに急に腕の中でマコが声を上げた。
「た、助けてください。私、この人に
マコにとってみれば、自分を抱えている男も鹿の背に立つ女もどこか人間離れしており、正体不明な存在でしかなかったが、性別からしても容姿からしても物言いからしてもまだ目の前の女性の方が信用できる気がした。だから
二人を見る女性の視線が鋭さを増した。おい、黙れ、とカツミが慌てて制した。
「先ほど、お社に行っても誰もおらず、大神様さえおられなんだ。民を攫っただと?いったいそなたたちは何をしておるのだ?説明してもらおう」
カツミは黙ることしかできなかった。その頃には湖の東岸、彼にとっては左側の岸にいくつか動く気配が感じられた。恐らく目の前の女の仲間だろう。状況は著しく悪い。
「どうした。黙っておるということは自分の非を認めているということか。それなら」
そこまで言われて仕方なくカツミは声を発した。
「これは必要なことなのだ。訳は後ほど話す。見逃してくれ」
「訳も言わずに、見逃せと言われて見逃すほど自分もお人好しではない。見くびるな」
更にサホの目に厳しさが増した。そして腰に差した剣を抜き放ち、その先をカツミに向けた。
「民を離し、降伏せよ。抵抗するならここで消す」凛としたまま言い放った。
ちょうど自分の方へ飛んでくる。サホは慌てて剣を
「そなた、大丈夫か?」自分の腕の中で、目を固く閉じ、身体を縮めているマコに向かってサホが訊いた。マコは目を閉じたまま小さく何度か頷いた。すると即座にサホは周囲を見回した。いない……。三輪明神の眷属の姿がどこにも見えない。一瞬、
「岸に戻れ。急げ」とサホが足元に指示を出す。即座に雄鹿は、必死に足を
それは人間では考えられないような驚くほどの跳躍だった。二人は空中高く飛んでいた。しかし、それでも岸には距離があった。湖面に落ちる、サホは察して岸に向かって指令を発した。
「
言うが早いかサホは岸に居並ぶ仲間に向かってマコの身体を放り投げた。また?とマコは思いつつ叫び声を上げた。
岸にはサホと同じ軍装を身にまとった女眷属たちの集団がいたが、その一人が、承知した、と答えながら波打ち際まで進んで両手を前に出し、身構えてマコの落下を待った。
宙に弧を描きながらマコが落ちてくる。少し先でサホが激しい水しぶきを上げながら湖面に没した、とほぼ同時に水中から
今度は何ーっ?とマコはまた叫び声を上げた。
サホが水面に勢いよく顔を出す。時を同じくして離れた場所から雄鹿も水中から顔を出す。サホが視線をずらす。そこにはマコの身体を小脇に抱えたカツミの姿。水面に立ち、片手には
「春日明神の眷属よ。我の邪魔をするな。これ以上、邪魔するならただではおかん。誰も傷つかないうちに村に戻れ」
サホが気づくと自分に向かって岸から雄鹿が二匹泳いできていた。その到着を待ち一匹の角を掴んで背中に上がった。片足ずつ二匹の背中に乗せた。
「射撃用意」という弥生の声とともに何本もの弓を引き絞る音が聞こえた。サホは片手を横に上げてそれを制しながら、「弥生、一番隊二番隊を率いて
「三輪明神の眷属よ。これは神議りに対する
サホは鋭い視線をカツミに向けていた。なるべく抑えてはいたが不機嫌この上なかった。人をおちょくるような真似をして、自分をずぶ濡れにさせた。この光沢美しき豊かな髪もびしゃびしゃだ。頭が重いったらありゃしない。それより何より大神様たちの決めたことを邪魔しようとしている。どうあっても許せる状況ではない。
サホの脳裏には一つの噂がよぎっていた。それはあくまで噂。でも誰もが信憑性のある噂だと思っていた。誰もがまさか、とは思いつつも否定できない噂だった。