第三章六話 一難去ったと思ったら

文字数 3,573文字

 自分を呼んでいる声が聞こえる。何度も何度も。
 何か(しび)れているような感覚。すべてが濃い(もや)に覆われている。自分の名前を聞くたびに靄が晴れていく。だんだん明るくなっていく。やがて、ふと自分を呼ぶその声がマコのものだと気がついた。とたんに覚醒した。
 何?と思いつつ目を開く。
「あ、ナミさん。大丈夫ですか?良かった。脈もないし、息もしてないから、もうだめかと思いました。あ、まだ動かないでください」
 言いつつマコがナミの腕を掴んで脈を取りはじめた。そして、あれ?と首を傾げた。
「私は霊体だって言ったでしょ。脈がある訳ないじゃない」
「あ、そうでした。あまりのことに忘れてました」ほっとした表情をしてマコが言った。「それにしてもこれだけ近くに雷が落ちて、よく助かりましたね」
 ナミが目を上げると自分が身を隠していた高木の上半分がなくなっていた。残った部分も黒く焦げ、所々細く煙を上げながら(くすぶ)っている。続けて湖面に視線を向けた。どこにも異形の者の姿はない。稲妻に撃ち抜かれていた。消滅したかどうかは分からないが、どこにも気配が感じられない。どうやら自分たちは難から逃れられたようだ。思わず、ふう、と一息漏れた。
「あなた、脈を取るの手慣れているわね」どことなく頼りなげなマコの意外な一面を見た気がしてナミは言った。
「こう見えて、あたし看護師の卵なんですよ。まだ学生ですけど」
 一瞬、マコの看護師姿が脳裏に浮かんだ。どの患者からも親しまれそうな看護師さん。有能かどうかは別として、一人そんな看護師がいたら、入院中も気が滅入ることが減りそうだ。
「そう。あなたならいい看護師になれそうな気がするわ」
「本当ですか。そう言ってもらえると嬉しいです」
「ただの勘だけど、あたしの勘はよく当たるの。動物的な勘ってよく言われるわ」
 そんな他愛もない話をしていると、ふとナミは気配を感じた。何かが近づいてくる。林の奥から、複数の気配。
「どうしたんですか?」急に緊張感をまとったナミの様子をマコは(いぶか)しんだ。
「何かがやってくる。逃げるわよ」言いながら立ち上がる。次いでマコに手を貸し、立ち上がらせる。
「何かって、何ですか?」
「分からないわ。でも急速に近づいてくる。不穏な空気を感じる」
 ナミはマコの腰に手を回して飛び上がった。あまり高く飛ぶと見つかってしまうかもしれない。低く素早く移動しないと。そう思いながら移動をはじめた。しかし、もう遅かった。
 カン、と打突音を響かせながら二人の目の前、木の幹に矢が突き立った。とっさに停止したナミの耳朶(じだ)に、近づいてくるカサカサカサカサという複数の足音。
 ナミは鋭い目つきで周囲を見渡した。烏帽子(えぼし)を被り、白衣と浅黄袴(あさぎばかま)の上に明るい薄緑色の狩衣(かりぎぬ)をまとった大柄な体躯の者たち。全員で三人。ある程度、近づくと弓に矢をつがえ、二人に差しつけて強く引き絞った。そして二人の一挙手一投足のすべてを見逃すまいという意思に染まった視線を向けていた。
 逃げられない、ナミは悟った。自分一人なら飛んで逃げることは可能だろう。相手が飛べるかどうかは分からないが速度では負けない自信がある。しかしマコがいてはそれも難しい。矢を放たれてマコが傷ついてしまうことは避けたい。
「お前たちは何者だ。ここで何をしている」
 厳しい声で三人のうちの一人が問い掛けた。ナミは比較的大きな木を背にしてマコを立たせ、その前に立ちはだかった。
「ただの通りすがりよ。人を捜しているだけ。用が済んだらすぐに立ち去るわ」
「ナミさん、どうしたんです?誰と話しているんです?」
 警戒はしているようだったが、さほど恐れているようでもない声が聞こえた。どうやらマコには三人の姿は見えていないし、その声も聞こえていないようだ。
「そっちは民草(たみくさ)の娘だな。そなたは違うようだが、何者だ。隠さず言え」
「言ったでしょ。ただの通りすがりよ。あなたたちの古めかしいサバイバルゲームの邪魔をするつもりもないし、ここに長居するつもりもない。放っておいてくれないかしら」
 感情の籠っていない、ごく淡々と発せられる声。
「我が大神様の敷きませるこの里で、そなたのような得体の知れぬ者を野放しにしておく訳にはいかぬ。祓われたくなければ、早々に氏素性(うじすじょう)を申せ」
「オオカミ様?」
「この村は我が天満天神様の治め奉る地である。その地に何故(なにゆえ)そなたのような者が参った。その訳を申せ」
 ああ、オオカミ様=大神様ね。話の流れ的にナミはそう察した。ということはこの人たちは神使(しんし)ということかしら。
 ナミには、最初見た瞬間からその者たちが人間ではないことは分かっていた。ただ、霊的な存在であることは確かだが自分とは系統が違う。幽霊でもない。そんな人間由来の存在ではない。そう感じていただけに合点がいった。神から生まれ、神に仕える、ちょっと特殊な存在。そんな者たちがいることは知っていたが、これまでほぼ関わることがなかったので詳しくは知らない。だから、どんな能力を有しているのか分からない。尚更、軽率に手向かうことは控えるべきだと感じられた。それなら今は、現状の打開策を考える時間稼ぎのためにこのまま会話を続けよう。意図的にナミは警戒を解いた。
「だから人を捜してるって言ったでしょ。それに私はただの霊体。ここで何をするつもりもない。そもそもここに来たのだって、来ようと思ってきた訳じゃない。あっちの方にいたら泥のような肌をした変な生き物に追いかけられて慌てて逃げてきただけ。ここから出ていけって言うんなら、出ていくわよ」
 それまで無表情だった狩衣姿の者たちがみな、目を見開いた。
「泥のような?それはどんな姿をしていた?大きさは?」
「そうね、身体は人間みたいだったけど、頭は鶏のようだったわ。くちばしやトサカもあったし。大きさはかなり大きかった。背は二メートル以上あったんじゃないかしら」
 林の中に一陣の風が吹いた。樹々がざわざわと(せわ)しなく騒ぎ出した。
「そなたたちはどうやってその生き物から逃げたのだ?」
「私、飛べるのよ。このコを抱えて飛んで逃げたわ。でも、そいつも飛んで追ってきた。それに衝撃波みたいなもので攻撃してきたのよ。けっこうな威力があったわ」
「そ、それで?」
「飛んでたらこの林が見えたから、慌てて飛び込んだのよ。そしたらその生き物はこの林には入れないみたいで、それで逃げ切れたのよ」
「それは結界である。そなたたちは結界には掛からなかったのだな」
「結界?あの注連縄(しめなわ)?私たちが通る時には出てこなかったけど、その生き物がこっちにこようとすると現れたわ」
 ナミがそう言うと、急に周囲の緊張感が緩んだ。三人ともに弓を下ろした。 
「大神様たちの結界は選別する。(よこしま)な心の持ち主や、災いをもたらす者を通さない。そなたらがその結界を通ってきたと言うのなら、そなたらを信ずるに値する。して、その生き物はその後、どうなった」
「雷に撃たれて、そのまま湖の中に落ちていったわ。まだ出てこないところをみると死んだんじゃない」
 それからしばらくの間、狩衣姿の三人が頭を付き合わせてぼそぼそと小声で話していた。
「もう行ってもいいかしら」待たされて()れたナミが思わず声を出した。その声にそれまでナミと話をしていた一人が慌てて答えた。その声には先ほどまでの敵対心は感じられない。
「しばしお待ちいただきたい。お急ぎのところ申し訳ないが、ぜひ我が大神様のお社までご同道いただきたい。先ほどのお話をより詳しくお伺いしたいのだ」
 ナミは面倒なことに巻き込まれそうな予感を抱いた。彼女としては山崎リサの自我の中に存在する者たちとはあまり交流することなく、さっさと用事を済ませて、次の自我に移りたいところだった。とはいえ、すでにマコとも親しく交流してしまっている。ここで断ればマコがどうなるか、それが心配だった。
「嫌だって言ったら?」
「なるべく弓矢は使いたくない。お察しいただきたい」
 断固とした口調だった。眷属たちはジッとナミに視線を注いでいる。ナミはチラリと振り返ってマコに視線を向けた。ナミさん、雷に撃たれたショックで幻覚や幻聴が現れているみたい。大丈夫かしら?と思ってそうな顔つきをしていた。
「分かったわ。抵抗はしない。ついていくわ。あと、このコにあなたたちの姿が見えていないみたいだけど、見せることはできるの?」
「お安い御用だ」そう狩衣姿が言うとすぐにマコが叫び声を上げた。
「大丈夫よ。話はついているわ。この人たちは私たちを案内する。私たちはついていく。それだけ」突然、現れた眷属たちの姿に怖気(おじけ)づいた表情を見せているマコに向かってナミは微笑んだ。そしてなるべくマコに警戒心を与えないように朗らかな口調で眷属たちに言った。
「あなたたち、このコは人間なんだからゆっくりと、歩きやすい道を通ってよ」
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