第八章三話 玉兎の受難

文字数 4,383文字

 マガの赤い瞳に、眼前に広がり壁となっている(まが)い者の群れが映った。そのとたん、脇目も振らずにその壁を粉砕するべく一直線に駆けていった。恵那彦命(えなひこのみこと)の横を通り過ぎる際、玉兎(ぎょくと)が、おい、神、お前、何やってんだよ。こいつ止めるの手伝ってくれ、おい。と声を掛けたが、恵那彦命も今、マコからの攻撃を受け続けており、要望に応えられる状況になかった。だからそのまま見過ごすと、たちまちマガは結界の壁にぶつかって激しく震動させた。それにより禍い者の壁も激しく揺すぶられ、結果地面へと大半が崩れ落ちた。一方、恵那彦命は腹部をえぐられるような圧迫感を感じて、思わず顔をしかめた。
「おい、やめろ。そんなことをしてもお前は結界の中には入れない。神が苦しむだけだ。禍い者たちも神が健在ならこっちには来ることはできない。だからもうやめろ」
 結界の壁にぶち当たってマガも少なからず衝撃を受けたようで壁の前で、ぐふ、ぐふと唸りながら体勢を低くしてとどまっていた。
「神、早くこいつを落ち着かせてくれ。俺じゃどうしようもできない」玉兎が恵那彦命に向き直りながら声を掛けた。と、同時にマコが再度、恵那彦命に向けて攻撃を発した。それまでマガのことで頭の中がいっぱいで気にしていなかったが、人間の女の姿を認識した。あの娘は、確かマコと言ったかな。どうしてここに?それに神の姿が見えるようだし、攻撃を仕掛けているし、いったいぜんたいどうなってんだ?訳が分からない。
「おい、そこの娘、何をやってんだ。馬鹿なことはやめろ。その方は神だ。神罰が下るぞ」
 そういう玉兎の声はマコの耳には届いていないようで、確実にこちらだけを狙っている、と恵那彦命は察した。恐らく結界で一番手薄なこの場所に明確に狙いを定めて、しかも、この場所の結界を張っているのが自分であることをはっきりと認めた上で、ただ自分を倒し、結界を破る意志を貫こうとしている。こんなことを人間の娘が指向するはずもなく、何かに操られているか何かからの指示で動いているのは間違いなかった。その何かは探るまでもない。結界があることで一番害を被っている存在。結界がなくなったとして一番喜ぶ存在……そうであればこの娘、正気に戻すのは難しいか。
 再びマコの手から無数の鋭利な水の刃が飛んできた。恵那彦命は風を送って身体の前に防御壁を作ることで防ぐ。そうやって相手の力が弱る時を待っていた。その攻撃で自分が傷つく不安はあまりなかった。それよりも人間の娘の相手をしている間に禍い者たちの襲撃から結界を守ることが難しかった。さすがの神も二方面の敵への対応は苦労していた。
「おい、やめろって。本当にまずいぞ。今のうちにやめておけ。俺も一緒に謝ってやるから」
 そう言いながら玉兎はマコの背後から近づいていった。
 それはあまりに無防備だった。彼我(ひが)の間にはまだ一定の距離があるし、もし攻撃されたとしても瞬発力と逃げ足には自信があった。避けて逃げることなど訳ないと思っていた。とりあえずは神に向かっている意識を分散させるために玉兎は声を掛けていた。
 言葉を発し終えたとたん、自分の足元に水の流れを感じた。マコが引き連れてきた湖水の流れにくるぶしまで(ひた)っていた。玉兎が驚いて後方に跳んで移動しようとした、その間際。
 マコはちらりと振り返っただけだった。
 次の瞬間、玉兎の腕が、足が、そして首が、胴体から分離した。
 足元にあった湖水から鋭利な水の刃がいくつも飛び出し、玉兎の身体を斬り刻んでいた。
 玉兎の目が事態を把握できない色を見せながら恵那彦の視線と重なった。
 二人の間に無数の(しずく)が舞っている。まるで雨でも降っているみたいに。

 雨の降る日は外で遊べない。
 雨の降る日は、いつも雨漏りのする社の中で、三人肩を寄せ合い、漫然と雨雲が通り過ぎる時を待ちわびる。

 ・・・・・・・・・・

「なあ、神」
「何だい、うさぎ」
「もう何日も雨が降り続いて、正直うんざりだな」
「そうだね。でも梅雨だからしょうがないよ」
「ちょこっと、雨の八重雲(やえぐも)息吹(いぶ)きで払い除けたりできないのか?」
「できないことはないけど、それは自然に抗うことだよ。そんなことはしてはいけない。この時期に雨がたくさん降れば、地に水が溜まり、時間を掛けて湧き出し、川となりすべての生き物を潤すもとになるんだ。だから、うんざりでもこの時期に雨が降ることに感謝しなきゃ。感謝して自然とお日様が現れるまで待とうじゃないか」
「マガ、雨にいつも感謝している。神はいいこと言う。うさぎは頭悪い。雨降らないと旱魃(かんばつ)になって食べ物なくなる。今もお供え物少ないのにもっと少なくなる」
「そんなことは言われなくても分かってるよ。ただ、こう薄暗くて雨漏りだらけだとカビ臭くってかなわない」
「なら、かけっこするか?マガ、雨の中走っても全然、大丈夫」
「する訳ないだろ。泥だらけになったお前を誰が洗うんだよ。お前、きっと泥だらけのままで社殿にも上がるんだろうから、その掃除もしないといけないだろ」
「マガ、そんなことしない。マガ、大人しい。信用して」
「お前に信用できる要素なんて毛の先ほども見出せないんだがな」
「うさぎ、ひどい。神、叱って。こんな悪い眷属は叱らないとダメ」
「ちょっと眠くなってきたな。二人とも私は少し眠るから静かにして」
「お前たちは本当にマイペースだな。何か、こっちまで眠くなってくる……

 ・・・・・・・・・・

 うさぎ!とマガは声を発した。しかし顔が変形しているのでそれはただの獰猛な咆哮(ほうこう)にしか聞こえない。その身体中から発せられたかのような咆哮は地にあるものすべてを震わせた。
 同時に恵那彦命を中心として周囲一帯の空気の圧がくっきりと一変した。草や小木は地に平伏するように一方に傾き、大木は激しく枝をしならせた。重みを増したかのような空気が辺り一帯を支配していた。マコの動きが止まった。無表情だった目にはっきりと警戒の色が映し出されていた。
 マガはとっさに玉兎をそんな無残な姿にした人間の女に向かって、ただ噛み殺してやる、という思いだけで駆け出した。しかし、それよりも早く恵那彦命が強く鋭く一息、マコに向かって息吹き放った。
 とっさに、その突風を防ぐため、マコの身体は両手を振り上げ、足元の湖水を自分の前面に持ち上げて壁を作った。しかし突風の勢いにその壁はいとも容易(たやす)く霧散され、そのままその身体は吹き飛ばされた。一瞬にして後方へ、何ら抵抗もできない圧力に弾き飛ばされた。そして遥か後方にある大木の幹に激しく身体を打ちつけ、力なくその根元に落ちて横たわった。
 (むくろ)のように倒れている。ピクリとも動かない。息の欠片さえ抜けてしまったかのように。その人間の娘に視線を向ける。結界の向こう側まで飛ばされている。マガとしてはもうどうしようもなかった。そう認めた途端、胸の中が圧迫されたように息苦しさを感じた。うさぎは?慌てて駆け寄る。
 自分の生活は制限ばかりの毎日だった。村から出てはいけない。暴れてはいけない。民を傷つけてはいけない。神の言うことを聞かなければいけない、等々。それは自分がこの地に存在するために必要なこと、仕方のないことだとマガにも重々分かっていた。
 狭い村の中で窮屈極まりない生活。何ら変化のない退屈極まりない毎日。何年も、何十年も、何百年も続いてきた。神と玉兎とともに。
 マガが大人しく不便な生活を甘んじて受け入れてきたのは、神と玉兎がいたからだった。たった三人でいるその時間が楽しかった。特別なことなんて何もない。ただ三人でいることが日常だった。それだけで充分だった。
 それなのに。
「うじゃき!!!」再び叫ぶ。やはり口が変形しているために上手く言葉を発することができない。駆け寄るその数秒がものすごく長い。
 恵那彦命はマコに向かって息吹きを放つとすぐに、裁断された玉兎の身体に向けて静かに息を吹き掛けつつ両手で風を操りながら、くるくると回転させた。それは次第に丸く、白く輝く球体に変化していく。
「がみ、な、な、なに、してる?」
 マガが白い球体になった玉兎のすぐ近くまで達して、激しく落ち着かない様子を見せていた。神がそんなことをしている姿はたまに見ることがある。雨上がりの境内でよくしていた。
 あまり整備が行き届いていない境内にはあちこちに水溜まりができる。そのひとつひとつを神は大きな水玉にしては山の中へ投げ捨てた。そのままにしていたらすぐに雑草が生えちゃうからね。神はそう言っていた。その玉をどうするの?まさか、うさぎの身体を、捨てないよね?
 恵那彦命としては玉兎の身体をそのままにしておいては分解がはじまり消滅してしまう。だからそれを防ぐために一先ず一個の球体にまとめたに過ぎなかった。ただそのままでは延命処置でしかないことは恵那彦命にはよく分かっていた。水を球体にする時も、どんなに気をつけても知らぬうちに数滴ずつ飛び散って、いつの間にか容量が目減りしてしまう。同じようにきっとこのまま回転し続けても、玉兎の身体を構成する要素は少しずつ目減りしていくことだろう。何か器がいる。例え一時的にでもこのコの身体を球状に保ったまま宿すことができる堅固な器が、早急に……
 恵那彦命がはっと目を見開いた。そして目の前にいる共存者に向かって言い放った。
「マガ、口を大きく開いて。早く!」
 そう言われて訳が分からず困惑していると、更に恵那彦命が、早く、と急かす。戸惑いつつも仕方なくマガは前面に突出している口を、その奥まではっきりと視認できるくらいに大きく開いた。その深く体内へと続く土気色の空洞に向かって恵那彦命は玉兎の丸い身体を力の限りに押し込んだ。
 マガは突然のことにとっさに呻き声を発して、思わず抵抗しようとした。しかしその耳に神のいつになく厳しい口調の声が聞こえた。
「大丈夫だ。そのまま呑み込んで。でも、けっして取り込まないように。身体の中に入れるだけ。そのままの姿で宿すんだ」
 え?神は何を言ってる?宿す?うさぎを?我が?宿すってどうするの?どうしたらいいの?
 マコという指揮者を失い戸惑っていた禍い者たちが再び本能に従って結界に取りつきはじめた。そして再びその核心部分である注連縄(しめなわ)に次々に到達した。激しい衝撃音が木々に生い茂る枝葉を揺らしながら轟く。苦悶(くもん)の表情をていしながら恵那彦命は両腕で玉兎の身体を一気にマガの体内に押し込んだ。マガの吐き気をともなう呻き声が聞こえる。
「我慢して。頼む。こうするしかなかったんだ。我慢してくれ」弱々しい恵那彦命の声がマガの耳朶(じだ)に届いた。マガは必死に我慢した。そしてようやく玉兎の身体を呑み込んだ。けっして自分の身に取り込まないように、意識を集中しながら。自分の腹部にそのままあるように、けっして自分と同化しないように。
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