第一章六話 妹が気になって

文字数 4,638文字

“暑い”
 容赦なく照りつける陽射しに思わずそう思ってしまった。これでこの世界にいる間、しばらくはこの感覚と付き合わなくてはならない。
 元から夏の暑さが好きではないナミとしてはまったくの不覚だった。肉体を持たない彼女たち霊魂という存在は、肉体が感じる寒暑や痛覚とは基本的に無縁のはずであった。ただ、肉体があった生前の名残なのだろう、いったん寒暑や痛覚といった感覚の印象を抱いてしまうと、実際にその感覚を自分が感じている気になってしまう。だからナミは、この自我で落ち着くまでの間、夏の暑さを感じ続けなければならない。
 それにしても、ここはただひたすらに田舎ね。辺りを見渡しても民家が数えるくらいしか見出せない。周囲に連なる山々とその中に広がる田園風景、今までの彼女の生活とは無縁の風景が広がっている。こんな所、温泉宿でもない限り来ようとは思わないわね。そう思いつつ、強い日射しを避けるために近くに立つ中木の木陰に移動した。彼女は着ていたグレーのパンツスーツのジャケットを脱いで真っ白いカッターシャツの(そで)をまくり上げた。
 近くにいるはずなんだけど、そう思いながら右手のひらに地図の画像を浮かび上がらせて、タカシのいる場所を捜した。この自我に入る前に一度検索していたので、すぐにその居場所は判明した。タカシはこの世界にとっては異物でしかない。その異物の所在を地図は示していた。すぐ近くね、ナミは即座に身体を浮かせてその場所に飛んでいった。即座に着いた。周囲を見渡してみる。しかしタカシの姿はどこにもない。地図を改めて凝視(ぎょうし)する。タカシはゆっくりと東北方向に移動していた。しかし、そのあるべき場所に道はなかった。どうやって移動しているの?そう思いつつ、上空に浮かんでその地図上の動きに合わせて移動した。しかし何ら動いているものが見当たらない。
 地図は、リサの魂に直接アクセスしてその情報を画像として浮かび上がらせている。方位や土地の起伏やそこにある物の情報などナミの動きに合わせて刻々と変化しながら映し出しており、至極、正常に動いているように見える。そもそもこの機能自体が少し前にメンテナンスしたばかりなのだ。故障の可能性は極めて低い。考えられるのはこの自我が何らかの原因によって錯綜(さくそう)して、情報が混乱している可能性。すでに崩壊が進んで、情報に齟齬(そご)が生じていることは充分に考えられる。ただ、まだこの自我世界にはそんな兆候が見当たらない。とても穏やかに時が流れている。
 困ったわね、居場所が分からないなんて、また地下に迷い込んでいるのかしら?めんどうね。ナミが空中に停止して、思考を巡らそうとした矢先に、どこからか女性の金切り声が聞こえた。
 この自我世界に来て初めて聞く人の声。ナミは何かタカシの居場所の手掛かりでも見つかるかもと思い、その声のした方に飛んでいった。
 南方向へ少し飛んでいくとその声の主が視界の中に現れた。
「なんなの、こっちこないで、やめて、こないで」
 二十歳くらいの若い女性が腰でも抜かしたのか、座り込んだままで、必死の形相をして眼前の泥の塊のような物体に向けて叫んでいた。
 何か、めんどくさそうな展開ね。ナミは見なかったことにしようかと思った。そもそも彼女の身体を構成する霊力は現在それほど満ち満ちている訳ではない。この世界にタカシを送り込んでから、いったん霊力を補充するために本部へと帰還したが、自分が見ていないとすぐに考えなしの行動を起こしたがるタカシのことが心配になって、霊力半ばで補充を済ませてやってきたのだ。だからこんな所で無駄に霊力を使いたくない。所詮(しょせん)、あの女のコもこの自我世界が生み出した想像の産物。実際に生きているわけではない。こんな所で死んだとしても、その現場を見て見ぬ振りをしたとしても何の支障もないはず……。
“この世界のすべてがリサの自我なんだろ。だったらみんなを救わないと。さあ、行こう”
 たぶん凪瀬(なぎせ)タカシがここにいたらきっとそう言って、あたしの返答も聞かずに走り出しているわね。ふとナミはそんなことを考えた。そして短くため息を吐いて、そのままその若い女性のもとまで降りていった。

 若い女性は目を見開いて眼前の生き物を見上げていた。自分の身長よりも高いずんぐりとした球体に手と足が生えた土気色した何かが迫っている。頭は別になく球体の上部に小さな黒目が二つ。そしてその下には異様に大きな口が開かれている。今までの人生の中で見たこともない異形の生き物だった。恐ろしさしか感じられない。そんな存在が手を伸ばして迫っている。逃げようにも自分の身体が言うことを聞いてくれない。最大限の恐怖に再び叫び声を上げようとした瞬間、グゲッ、と土気色の生き物が声を上げたかと思うと(またた)く間に渦巻きながら小さな手のひらサイズの球体に姿を変えた。
 視線の先、異形の生物が先ほどまでいた場所の向こう側に、左手を前に差し出して、凛とした姿で立つ背の高い女性の姿が見えた。
「大丈夫?この生き物はいったいなんなの?」
 若い女性は呆然とナミの姿に見惚(みと)れていた。カッコイイ、彼女はただただそう思った。
「ねえ、あなたどうしたの?あたしの声が聞こえる?」
 ハッと我に返って女性は答えた。
「あ、はい。大丈夫です。あ、ありがとうございます」
 目の前の女性に興味はないし、負傷箇所のあるなしもナミにとってはどうでもいいことだったが、来たばかりのこの世界について何らかの情報が得られれば助かる、と思って、ナミは続けて質問した。
「そう。それは良かったわ。ところで、さっきの生き物はいったい何?ここではよく見られる生き物なの?なぜあなたは襲われていたの?」
「わ、分かりません。あんなの初めて見ましたし、なぜ私が襲われたのかも分かりません」
「そう。あなたはこの近くに住んでいるの?ここで何をしていたの?」
 あまり抑揚(よくよう)のない、感情の籠ってなさそうな声が耳朶(じだ)に流れてくる。それも、その女性にとってはカッコイイと思えた。思わずゾクッとする声。
「住まいは県外です。この近くに祖母の家があるんです。そこに向かう途中で姉とはぐれてしまって。今、その姉を捜していたところなんです」
 このコには姉がいるのね。ということは妹なのね……妹?ナミの頭の中でその言葉が妙に引っ掛かった。何か大切なことを忘れているような気がする。しかしそんな思いはすぐに払拭(ふっしょく)した。あたしには時間がない。契約者がバカな行動をはじめる前に見つけ出さないと。このコはあまりこの付近のことを知らないようだし、情報を訊き出すには適任ではないようだ。
「分かったわ。私は先を急ぐからもう行くわね。あなたも気をつけて」
 言うが早いかナミは女性に背を向けて、すぐに飛び立とうとした。とっさに女性が声を掛けた。
「待って。待ってください」
「何?」振り返ってナミが訊いた。
「私、こんな所に一人でいたら、またいつ襲われるか分かりません。一緒に行かせてください。お願いします」
 一緒にって、あなたどうやって飛ぶつもり?と思いつつナミはどうするべきか、少しの間、考えた。そんな無駄なことに時間を()く余裕はない、そう思いつつも“妹”という言葉が頭の片隅に鎮座して存在感を主張していた。その女性が妹という種の人間なのだと思うと、ほんの小さいトゲが指に刺さった時のように、痛くもないし、放っておいても支障はなさそうだけど、妙に気になってしょうがない。だからナミは仕方なく、
「分かったわよ。あたしが送っていってあげる」と言った。
「ありがとうございます」女性は嬉しそうに笑いながら答えた。
 それまでその女性の顔をよく見ていなかったナミは、その笑顔を見て、ふと前にいた自我世界で出会った山崎リサの微笑みを思い出した。だから、分かるはずもないだろうけど、と思いつつ訊いた。
「あなた山崎リサって知ってる?」
 その名前を聞いたとたん、目の前の女性は、えっ、と言いつつその顔にけげんな色を表した。あれ、もしかして知っているの?ナミは希望を抱いてとっさに右手のひらの上に山崎リサの全身画像を浮かび上がらせた。
「このコだけど」
 女性は驚きの色を濃く表して言った。
「お姉ちゃん」
 目の前の女性が思わず上げた声がナミの頭の中でいつまでもこだましていた。すごく懐かしい響き、無意識に微笑んでしまいそうになる言葉。
「あなたは山崎リサの妹なの?ちょうどいいわ。今、山崎リサはどこにいるの?」
 口調はまだ冷たかったが、自分を見る双眸(そうぼう)に意識的に相手を見る意思が現れた、そんな気が女性はした。
「あなたは姉を知っているんですね。どういうご関係ですか?」
 この世界に来て早々、山崎リサの妹に会えるとはね。何て偶然、ついてるわ。そうナミは思いながらも、ここは山崎リサの自我の中だから山崎リサの家族が特に目立って存在している可能性は大いにある。だから、他の人より目にする機会、出会う機会は多いはず、とも思った。
「そうね、知り合いと言えば知り合いね。私はあなたのお姉さんを助けるためにこの世界にいるの。そのためにお姉さんの彼氏と一緒にここに来たの。お姉さんのためにもすぐにでもお姉さんに会わないといけないわ。はぐれたって言っていたけど、どこではぐれたの?」
 女性は口を開きかけたが、声が出なかった。そしてけげんな表情をしながらしばらく考えこんだ。その様子をじっと見ながら、山崎リサとよく似ているわね。とナミは思った。顔立ちや立ち居振る舞いがどことなく似ている。ただ、山崎リサにはどことなく陰のある近寄りがたさがほのかに感じられたが、このコにはそれがない。顔を構成する部分々々一つ一つが愛嬌を感じさせる丸みを含んでいるように見える。姉に比べて可愛らしい印象。
「あ、あれ?私、どうやってここに来たの?お姉ちゃんはどこ?あれ?」
「どうかした?」
「いえ、ちょっとどこで姉とはぐれたのか思い出せなくて……」
「そう……」
 変な生き物に襲われて気が動顛(どうてん)したせいかしら。とはいえ、先ほどまでいた地下都市での例もある。山崎リサをあの生き物たちが襲う可能性が大いにある。早く捜し出さないといけない。ナミは手のひらにこの世界の地図画像を浮かび上がらせた。
 基本的にその自我の主の居場所は分からない。その自我自体がその人そのものだから、その世界のどこにでも存在の反応がある。特に意識を向けている箇所があれば、一点が強く示される場合もあるが、今、地図上にその様子は見て取れない。ただ、一つの点がゆっくりと移動していた。まだ凪瀬タカシは生きているようね、と確認するとナミは目の前の女性に出立を(うなが)した。
「さあ、行くわよ。早くお姉さんを探し出さないと」
 片側には一面、稲の緑、もう片側には緩やかな斜面を(おお)う草木の茂み、その間に延びる舗装された道をナミは歩きはじめた。
「は、はい」答えて女性はナミに続いた。「私、マコっていいます。真実の真に珊瑚の瑚でマコです」
 ナミにとっては相手の名前などどうでもよいことだったし、他人の自我の中の存在と必要以上に交流するつもりなどなかったが、ただ目の前のマコと名乗った若い女性とは不思議と親しくなりたい欲求を覚えていた。だから答えた。
「いい名前ね。私は……ナミ。ナミって呼んで」
 分かりました、ナミさん、と言いつつマコが微笑んだ。守ってあげたくなる笑顔。嫌いになることなどできない笑顔。とても得な人生を送れそうな笑顔に見えた。
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