第十二章一話 迷い込んだ地下世界

文字数 4,917文字

 混じりっ気のない黒を、何層にも渡って塗り重ねたかのような、完全なる暗闇の中。ぴちょん、ぴちょん、と水の(したた)り落ちる音だけが聞こえる。
 その音にカツミは目が覚めた。全身濡れている。横たわった状態から起き上がろうとすると全身から激痛を感じてしばらくうずくまる。
 いったいここはどこだろう?何も見えない。もしかしたら、目が見えなくなってしまったのか?目の前で両手を開く。しかし、いっさい何にも見えやしない。彼ら眷属は人間に比べれば遥かに五感が鋭く、ほとんどが視力も良い。ほんのわずかな光さえあれば、夜行性動物程度には視認できる。しかしそんな彼にも何も見えないということはこの空間に光が微かにもないか、もしくは視力を喪失してしまったか。
 これは困った、と思いつつ、カツミはここにいたる記憶をたどった。
 災厄の分御霊(わけみたま)の力により、郷中心にあった湖の水が一気に春日村(かすがむら)に押し寄せてきた。とっさにナツミを逃がすため蛇姿の妹を思い切りぶん投げた。そしてその途端、水に包まれ……その後の記憶がなかった。たぶん、神々の力によって開かれた地割れの中へと流され落ちていったのだろう。それにしてもナツミは助かったのだろうか?もしかしたら一緒に流されたのかも?そう思い、耳を澄ます。水の滴り落ちる音しか聞こえない。何かが動く気配もない。
「ナツミ」と声を出してみた。それほど大きな声を出したつもりはなかったが、その声はわんわんと響きながら遠ざかっていった。ふと、少し離れた所で何かが動く気配を感じた。
「ナツミ」と、もしかしたらと期待を込めて再度呼ぶ。そして気配を感じた方へと手探りで移動しようとした。すると、
「誰だ、そなたは。ここは……どこだ?」という声がその方から聞こえてきた。
 カツミは少し落胆した。その声には聞き覚えがある。もちろんナツミの声ではない。自分を謀反人として追い掛け回していた神鹿隊(しんろくたい)々長の声だった。きっとナツミは怒濤から逃れることができたのだ。大丈夫、あのおてんばはしぶといからきっと逃げのびている。そう自分に言い聞かせながら再び声を発した。
「我は三輪明神(みわみょうじん)の眷属、カツミだ。そなたは神鹿隊々長だろう?そちらは何か見えるか?身体は動かせるか?」
 サホも目覚めたばかりで、うまく状況が呑み込めないでいるのか、少しの間が空いた。
「何も、見えん。身体は……恐らく大丈夫だ。他に誰かいるのか?」
「いや、我も目覚めたばかりでよくは分からんが、我らの他に動く気配はない」
 また間が空いた。きっとサホがここにいたる経緯を思い起こしているのだろう。怒濤に呑み込まれる際、カツミはナツミのことだけを気にすればよかった。しかしサホは多くの仲間とともにいたのだ。その者たちは間違いなく怒濤に呑み込まれている。でも、ここにはいない。それではどこに?悪い予感がする。残ったのは自分だけかもしれない。仲間たちは……
「オ――イ!誰かおらんか」
 突然、カツミが腹の底から声を発した。どうやらここは狭い空間のようで、壁に反響して幾重にもこだまして遠ざかっていく。サホは目覚めたばかりの頭にも傷だらけの身体にも、その声が不快に響いたので思わず声を上げた。
「やかましい。突然、叫ぶな」
 その声をすぐにカツミがたしなめる。
「静かに。誰かいれば何がしか応えがあるだろう」
 そう言われてサホは耳をそば立てた。しかし、何かの音も、何かが動く気配もない。やはり、残ったのは我だけか。そう思っているとカツミが(ひそ)めた声を発した。
「誰か来る」
 そのまま二人は待った。しばらく経っても何の変化もない。ただの勘違いではないか、と思いはじめた頃、遥か遠くに小さな灯りが見えた。それはかなり離れた所に揺れていた。しかし、真っ暗闇の中ではっきり、くっきりと二人の目に映っていた。それは正に希望の光のように。
「肉……。肉のにおい。おいしそうなお肉のにおい……」
 近づいてくる灯りとともに呟くようなしわがれた声が聞こえてきた。
 その灯りのお蔭で彼らが今、洞窟の中にいることが分かった。所々水溜まりのある、岩盤だらけの洞窟。頭上は高く、手を伸ばして跳び上がっても届きそうにないが、横幅は二メートルあるかないか。
 更に近づいてくるに従い、その灯りの主の姿がはっきりと見えるようになった。
 長髪は乱れ、腕が異常に長い。足は短く蟹股(がにまた)で、背は丸まり、粗末な貫頭衣は薄汚れ、目は異様な光をたたえ、口は裂けているかのように大きく開かれている。加えて肌はシミだらけで所々(こぶ)があり、(うみ)が垂れている。異様な悪臭を放ちながらぺたんぺたんと足音を立てながら近づいてくる。
「蛇肉のにおい。それに鹿肉も。これはごちそう。鹿肉は大神様に献奉(たてまつ)ろう。蛇肉はワシのおやつにしよう」
 その女は、カツミの前に至るとそんな言葉を吐きながら、垂れたよだれをじゅるりと吸った。この姿形、これは間違いない、黄泉醜女(よもつしこめ)だ、とカツミは確信した。実際、見たことは初めてだった。しかしその姿、その貪欲性、その醜悪さをタツミからかつて聞いていた。
「その姿のままでは食べづらい。お前、ここで変化(へんげ)しろ。蛇になれ。さあ、早く」
 カツミが腰に手をやると鎖鎌(くさりがま)がついたままだった。そっと取り外し手に取る。攻撃すればすぐに倒せる自信はあるが、異界の者相手にどう接したらよいのか瞬時に判断つきかねていた。
「変化せぬのか。なら、そのまま食べる」と言ったかと思うと醜女(しこめ)は、カツミの頭を丸のみできそうなほどに大きくガバッと口を開いた。慌ててカツミが言う。
「ちょっと待て。食われる前に訊きたいことがある」
 訊きたいこと?と醜女が開いた口を閉じかけた途端、いつの間にかかたわらに来ていたサホの手が松明を奪い取った。と同時に、サホの平手が思い切り醜女の(ほお)を張った。
 パーンと破裂するような音がこだまする。醜女の顔は瞬時に一回転しそうなほどの勢いで横を向いた。醜女はこれ以上ないくらいに目を見開いてサホの顔に向き直った。
「そなた、他の鹿の眷属は知らぬか。知っておれば隠さず言え」
 醜女は、サホの目を見て思わずひいっと声を上げた。そこには怒りよりも恐ろし気なごく冷徹な目があった。思わず怖気(おじけ)づいて返答ができない。
「よもや、食ってはおらぬだろうな。もし食ってしまったのなら、覚悟せよ」
 本当に、今にも手を下しそうな冷ややかな視線。横手からカツミが制止しようと試みる。
「そなたは穏便(おんびん)という言葉を知っておるか?あまり手荒なことはするな」
 その言葉を聞いてたちまちサホが反論する。
「こいつは仲間を食ったかもしれんのだ。本当なら、すぐにでも(くび)り殺すところだ」
 サホはちらりとも視線を逸らさずに醜女を見下している。慌てて醜女が答える。
「食べておらん。鹿の眷属は、変化させてから食べぬと、もったいない。でも、消えかかったやつばっかり、食べられんやつばっかり。二匹だけ、この先で見つけた、まだ生きていた眷属。鹿肉は上等。だから大神様に献奉った」
「大神様とは、どなただ」サホの詰問する声。
「我らが(あるじ)黄泉大神(よみのおおかみ)様だ」
 それを聞いてカツミは、ああやっぱりか、と心中呟いた。醜女が現れて、もしやとは思ったが、間違いない。我らは黄泉(よみ)の国に迷い込んでしまったようだ。
「では、黄泉大神様のもとへ案内してもらおう。もちろんイヤとは言わせん」
 サホの言葉に、カツミは一息長く吐いた。灯りはサホが持っている。別行動する訳にもいかない。このまま黄泉大神のもとへ、黄泉の国の中心地へと行かねばならぬのだろう。まったく、傷を癒す暇もない。次は何が起きることやら……

 ――――――――――

 リサは、少しずつ少しずつマコに近づいていった。それにしても足が重い。重量的にというより身体の内側から何かの力が抵抗しているようだった。そして頭の中では、まだわさわさと声が立っている。いつまで経っても不協和音にしか聞こえない。
 ――そなたたちに総社の神として命ずる。この()(しろ)より出で、元の宮へと帰れ。ここは我に任せて早々に帰れ。
 更にわさわさと声が続いたが、そのうち一つずつ気配が消えていった。頭の中に立ち込めていた(もや)みたいなものが晴れていく感じがする。みんな出ていったのだろうか?
 ――娘よ。聞こえるか?
 この声は恵那彦命(えなひこのみこと)様。
「はい。聞こえます。まだ残っていたんですね」
 ――ああ、我はそなたの家の氏神(うじがみ)だからな。縁が深いからまだ残ることができる。しかし、もう八幡大神(はちまんおおかみ)様以外の神々はそなたから出ていった。
「そうですか……」
 リサとしては自分のワガママで神々を追い返してしまったようで、一抹の罪悪感に(さいな)まれていた。ただ、足は軽くなっている。どんどんとマコに近づいていく。
 ――最後にそなたに確かめたいことがある。
 普段と違う恵那彦命の声音。とても真剣な話をしようとしていることが分かる。
「何でしょうか」
 ――そなた、災厄の分御霊を宿してしまえば、確実に災厄の御霊のすべてを遷すことになるだろう。そうなれば、恐らくそなたは耐えられん。その身を保つために、そなたは殺されることはないだろうが、一生、その身体がある限り、そなたは、そなたの中の片隅で、自分を失くしてただ、そこにいるだけになるだろう。そして災厄が犯す罪穢(つみけが)れの数々をただ傍観することになる。何もできず、何も言えず、誰とも通じることなく、長い長い時間を過ごさねばならない。それでも良いのか?
 そんなこと、今更言われても、と思わざるを得ない。せっかくマコを助けると決心したのに、そんなことを言われたら想像してしまう。とても恐ろしい未来を……。きっと、それはとても、耐えられないほどにつらいこと。何ら希望の持てない苦しくて、寂しくて、つらいこと。思わず足を出すことを躊躇(ちゅうちょ)した。その途端、威圧感のある声がした。
 ――災厄の神よ。我はこの郷を統べる総社の神、八幡の大神である。我らはそなたに依り代を与えん。そなたは依り代に御霊を遷し、この郷を出でよ。我らはそなたと(いさか)いを望まぬ。どうか荒御魂(あらみたま)を鎮めて、この郷に災い成さず、この地を離れよ。
 うつむいていたマコの顔が前を向いた。しっかりとリサのことを眺めている。
 ――さあ、依り代の民よ。そなたの望み通り、災厄の分御霊を宿し、妹を救え。それでこの郷も民も救われる。そなたのお蔭で救われる。頼んだぞ。
 そして、八幡大神の気配が消えた。
 リサは思わず足を止めた。急に怖くなった。目の前にいるのは、マコの姿をしているが、この村一つ、たちまちの内に破壊してしまうような力を発揮する存在なのだ。人間じゃない。とても恐ろしくて悪いもの……。そんなものを自分の中に宿すの?神様でさえあんなに怖くて大変だったのに……。やっぱり、すぐには決められない。どんどん怖くなってくる。もう逃げ出したくなってきた。
「お姉……ちゃん」
 突然、マコの口からマコの声が聞こえてきた。少し野太くて、いつもの無邪気に明るい声ではなかったが、マコの声に間違いなかった。リサの思考は急停止した。ただ、驚いてマコの姿に集中した。マコ……そこにいるのは、やっぱりマコなの?戻ったの?もう、大丈夫なの?
 リサは一歩足を踏み出した。でも、次の一歩が踏み出せない。迷っている。怖い、でもマコを助けられるのか確かめないと。でも、怖い。
 そのまましばらくリサは立ち止まったまま逡巡していた。どうしたらいいのか分からない。ああ、この閉塞感、いつも感じている。もやもやする。さっさと決めてしまえばいい、とは思うけど、自分の判断を自分が信じていない。後悔してしまいそうで、決めることを躊躇(ちゅうちょ)する。
「お姉ちゃん、助けて……」
 ああ、マコだ。困ったことがあるとよく、あたしに助けを求めてくる、甘えん坊な妹。そしていつもあたしはマコを助けてあげる。
 たぶん、きっと、マコはあたしに何ができて、何ができないのか、小さな頃から分かっていた。いつも、あたしが少し頑張ればできるようなことで助けを求めてきた。あたしのできないだろうことは最初っから頼みにこない。そんなマコが、助けを求めている、今、あたしに。
 だから、きっと、これは、あたしにできること……
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