第七章九話 降神の儀式

文字数 3,974文字

「そなたは……三輪神社の眷属ですね」ナツミたちの様子を横で眺めていたマサルが、力を振り絞って上体を起こし、更にナツミに向かって絞り出すように声を発した。
「そうだけど、それが何か?」急いでいるのに、声を掛けないでよ、とナツミは思う。
「どうか、大神様に拝謁(はいえつ)させてください。我が大神様からの言伝(ことづ)てがあります、どうか」
「今、あなたのことに構っている(ひま)はないの。邪魔をしないで」鋭く言い放ったナツミの手に、兄の手が伸びてそっと重ねられた。とても薄く軽い感触。
「そなたは、山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)のマサル殿。ご無沙汰しております。このような姿で、申し訳ない」
 最早(もはや)、タツミは自身の消滅は避けられないと自覚していた。抗っても無駄なこと。だから身体を繋ぎ止めることに集中していた気を緩めた。すると徐々に身体の密度が下がっていく。身体中が極々小さく細分化されていく感覚。少しずつ少しずつ自分が薄くなっていく。この段階まで達すると、もう全身からの痛みは感じられなくなっていた。すでに体を動かすことは困難になっていたが、逆に話をすることは楽になっていた。
 二人は以前会ったことがある。日枝神社からの使いとして大神様の御言葉を伝えにマサルが出向いてきたことがほんの数回。二人とも生真面目な性格ゆえに必要最小限なこと以外には無駄話をすることもなく毎度別れていた。もちろん、親しくはない。
「ご無沙汰しております、タツミ殿」
 死に瀕している二人の会話。当然のことながら声が小さい。しわぶき一つで掻き消されそうな弱々しさがある。他の者たちは無意識に、邪魔にならないように息を潜めてただ寂然(じゃくねん)とした。
「お見受けしたところ、そなたも他のお仲間たちも、我がカガシたちの毒に、やられてしまったようですな。急ぎ、処置をせねば手遅れになりましょう」
 マサルの全身は更にどす黒く染まっていた。顔には生気がなく、憔悴(しょうすい)しきった表情をしている。どうみても健常な状態には見えない。我の状態も大概だが、この者の状態もかなりなものだな。放っておいたら確実に我が旅立った後を追うことになるだろう。
「マサル殿、我はもうすぐ消え去ってしまう。我の身体が砂の如く細かくなり千々に消えていく際に、その欠片を身に浴びなさい。そうすればカガシたちの毒は消える。そこの仲間たちにも注いであげてくだされ」
 そのようなこと……とマサルは返答に(きゅう)した。自分よりもタツミの状態は悪く見える。恐らく、もう長くはもたないだろう。しかし、いくら自分が助かるためとはいえ、それを期待などしたくはない。
「二人とも黙って。今から、大神様をお呼びするから」たまらずナツミが涙声を発した。そして、すぐさま姿勢を正し、本殿を通して神体山を二度拝した。それは深く床に(ひたい)が着かんばかりの最敬礼。そして頭を垂れたまま、周囲にいても内容が聞き取れるかどうかの微音で言葉を(つむ)いだ。
 かつてタツミに教わっていた大神様に天降(あまくだ)りを願う言葉。思い出しながら一言一句間違えないように奏上する。高ぶる感情を押し殺しながら、声の震えを抑制しながら発していく。やがてその短い一文は終わりを告げた。
 しいん、と張り詰めた静寂が殿内にいる者たちの全身を包んでいた。タカシたちはこれから何が起こるのか固唾(かたず)を呑んで見守った。そこにいる眷属たちは期待を込めてその時を待った。しかし静寂が続いた。(ほの)かにきらめいていた期待の輝きに諦念(ていねん)の影が色濃くさしはじめた。
 やっぱり、駄目か……頭を垂れたままナツミは思った。兄様でも無理なことをうちができるはずがない。かくなる上は……
 ナツミは突然、すくっと立ち上がった。全員の視線が注がれる。
「うち、山に入ってくる。大神様を探し出してここまでお連れする」
 すぐにでも走り出しそうな妹をタツミが制する。
「ナツミ、やめなさい」
「でも、大神様に会うにはお山に入るしかないじゃない」
「お山は、禁足地だ。入ってはならぬ」
「どうして、誰もお山に入ったことがないのに、入ったらどうなるのか誰も知らないのに。もしかしたら大神様はうちたちが来るのを待っているんじゃない?」
「ナツミ、やめなさい。いくら眷属とはいえ、禁足地に足を踏み入れれば、大神様の勘気(かんき)(こうむ)るかもしれない。そうなれば、誰も、お前を助けられない。やめるんだ……」弱々しいタツミの声が細く、しかし確かにナツミの耳朶(じだ)に届いた。だから出し掛けた足を止め、そのまま逡巡(しゅんじゅん)した。山に分け入ったところで自分でどうにかできるなんて保障は微かにも見出せなかったし、兄様の言いつけも守りたい。しかし居ても立ってもいられない。すがるもののない現状では自分で動き出さないと希望が見出せない。自分が動くことが微かな希望になる気がする。だからとにかく動き出したい。
「あの……」そんな兄妹の横合いからか細い声が聞こえた。「あたしが神様を呼び出してみてもいいですか?」
 リサの声だった。タカシは正直驚いた。リサは自信のないこと、慣れていないことを積極的に言い出したりしない性格だった。それに人に提案する時も、する、とは言わない。もしかしたら自分はそれをできるかもしれない、くらいの提案。そちらが望むのなら、やってみてもいいけれど、くらいの提案をする印象だった。
 タカシはリサの表情に視線を移した。そこに力みもなければ、遠慮も見えなかった。ただ、その提案をすることが自分にとって正しいことなのだと確信している瞳があった。
「眷属のうちが()ぎ奉っても無理なのに、民草(たみくさ)の小娘にできる訳ないでしょ。変なこと言って邪魔しないで」ナツミは焦っていたために口調がきつくなっていた。しかしリサは(おく)する様子を見せない。
「あたしは(はふり)の血筋のコだっておばあちゃんが言っていた。あたしが心を込めてお呼びすれば神様が来てくれるって言っていた。だからやってみたいの」
 そう言うリサの姿を横目で見ながらタツミの心中には、もしかしたら、という思いが(にじ)み出ていた。本来、降神(こうしん)は神を視認できない人間が行う儀式である。眷属は普通、願うこともなく神と(まみ)えることができ、宣下を受けることができる。我らが大神様に拝謁できないのは我らが特別なだけなのだ。しかも民草の乙女であればより神に言葉が通じやすい、と言われている。
「ナツミ、やるだけ、やってみてもらってはどうだ。駄目なら、それで気も済むだろう」
 そう言われるとナツミは頷くしかなかった。そしてリサを鋭い視線で見やると、ふんとそっぽを向いた。タツミはそんな妹を微笑ましく思いながら、はたして民草の娘がちゃんと言葉を間違えずに言えるのかどうか心配になったので、少し微笑みを向けながら提案した。
「娘よ。我が前導しよう。我に続いて声を出すのだ。よいな」
 リサは静かに頷いた。
「そこの男、警蹕を掛けよ」
「けいひつ?」突然、声を掛けられてタカシは慌てて訊き返した。
「天降りの(ことば)を唱えている間、ずっと、おー、と声を発していればいいのよ。ただし、(のど)を広げて、なるべく長く続けて、息継ぎはなるべく短く。唱え詞が終わるまで声を発し続けるのよ」タツミに代わってナツミが答えていた。
「では、民の娘よ。そこに威儀を正し、大神様に向かって座れ」
 リサはタツミが目で指し示す幣殿(へいでん)の中心部分に神体山に正対して座り直した。
 社殿内が言いようもなく重苦しい空気に満たされた。その空気に(ひた)っているとリサの胸の中はとたんに不安でいっぱいになった。勢いで言っちゃったけど本当にあたしができるのかしら。あたしなんかに……。身体が小刻みに震え出した。やっぱりやめた方がいい。きっとみんな落胆する……。
 そんな彼女の名を呼ぶ声、リサが顔を上げると、そこには優し気な微笑みを湛えたタカシが軽く頷いている。大丈夫、何も心配しないで、と言っているように。
 ほんわりと胸の中が暖かくなった。何となく安心感に包まれ、心が落ち着いていく。やがて震えが止まった。
「皆の者、低頭せよ。警蹕を掛けよ」
 タツミの声に、そこにいた全員が頭を下げた。続いてタカシが低く、オオオー、と警蹕を掛ける。その社殿内に響く声の中、儀式がはじまった。
「大物主大神の御霊」タツミの気力を振り絞るような声にリサは続けた。
「おおものぬしのおおかみのみたま」
 ゆっくりと一言々々を意識して声を出した。
「この御神殿に」
「このみあらかに」
 けっして大きな声ではなかったが、自分の声に集中してはっきりと伝わるように発した。
「天降りませ」
「あもりませ」
 言い終えた瞬間、リサは、自分の腹部にふっと空間が現れた気がした。すーっと流れ込むように何かが入ってくる気がする。それは喜んでいいのか、恐れていいのか、拒絶した方がいいのか、抵抗するべきではないのか、分からない感覚だった。ただ戸惑う。
 そのまましばらく待った。タカシたちには何の変化も感じられなかった。リサだけが自分の身体に何かの異変を感じていた。しかしそれをどう表現したらよいのか分からない。けっして心地よい訳ではなかったが、痛い訳でも、苦しい訳でもなく、ただ少しずつ自分が高揚していく感覚があるだけ。何かがやってくる、そう感じる。
 空気が揺れた。そのとたん、社殿内の空間が他とは隔絶されたかのように、異質な空気に包まれた。何かの気配。その予感が全身にまとわりついてくる。それにともない五感がひどく鈍くなってくる。頭の中がぼやけて一つひとつの感覚がおぼろげになっていく。周囲に対する感覚がまひして意識が内に内にと入り込んでくる。そしてその何かの気配も身の内へと流れ込んでくるように感じられる。
 ズリ、ズズリ、ズズズリ……
 社殿全体が、まるですぐ横で道路工事でもしているかのように小刻みに揺れている。どうなるのか分からない不安に社殿内が満ちた頃、急に目の前の(きざはし)からぬっとそれは姿を現した。
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