第十一章三話 勇猛なる白狐

文字数 4,355文字

 それは一匹の大きな白狐(しろぎつね)、青くゆらぐ鬼火を従え、地を飛ぶような速さでヨリモたちに向かって駆けてきた。
 灯りが近づいてきて、ぼんやり視認できるようになった周囲を見渡すとそこら辺中、巨大な(まが)い者が(うごめ)いている。思わずヨリモは目を見開いた。最前列の禍い者たちは一跳びで襲い掛かれるくらいの近さにいる。今にも飛び掛かってきそう。ただ、禍い者たちは、絶好の獲物を盗られてなるものかと互いに小競り合いを繰り返しているようだった。しかし、それもいつまで続くのか分からない。脱け出してどれかが襲い掛かってくるかもしれない、と緊張感に包まれていると、そんな禍い者たちの群れを裂くように白狐が駆け回った。
 強い、ヨリモはその狐の立ち回りに目を見張った。真っ直ぐに突き進む中で、禍い者たちに向けて白狐の尾が伸びていく。数多(あまた)ある尾のそれぞれが意思を持っているかのように別々に動き、伸び、貫き、粉砕していった。そのまま白狐は数えきれないほどの禍い者を粉砕し続けた。やがて周囲に禍い者の姿が認められなくなると、その白狐が静かにヨリモたちのところにやってきた。
 先ほどまで武神のごとき勇猛さをまとい、その姿を視認するすべての者に畏怖を感じさせていた白狐の動きが一歩々々進むごとに穏やかに軽やかになっていく。
 ふさふさと太い尾が、扇状に後ろ足の上に広がってる。歩を進める度にふわりふわりと宙を揺れている。その姿を呆然とヨリモが眺めているうちに白狐は光って人型に変化(へんげ)した。秘鍵(ひけん)殿、思わずヨリモは声を上げた。そこには稲荷神社の第二眷属の姿があった。
「ヨリモ殿、無事か?」秘鍵は今しがた大量の禍い者と戦闘を繰り広げた者とは思えないほどの落ち着きと穏やかさをたたえながらヨリモの眼前に立った。
「はい、私は。しかし、タマ殿が……」言いながらヨリモは地に視線を向けた。捜すまでもなく目前に横たわるタマの姿があった。少し移動すれば手が届きそうな位置。そんな所にいたのだと、座り込んでいたヨリモはとっさににじり寄っていった。
 秘鍵も鬼火を従えつつタマのかたわらにすうっと移動した。そして屈み込むと手を差し出して、そっとタマの頬に触れた。その様子をじっとヨリモは眺めていた。秘鍵の表情は一貫して変わらない。ヨリモの心中に不安がよぎる。無言で首を振られたら、視線を向けられて、もう何も手立てがない、と言われたら……。悪い想像ばかりが浮かんでくる。大丈夫、きっと助かると希望の言葉を言い募ってみても、脳内では絶望の言葉ばかりが勝手に増幅してくる。どうか、どうか、どうか……ヨリモは胸の内で呟くばかり。
 その時、秘鍵がやってきた林の方から新たな物音が繰り返し聞こえてきた。ばさっ、ざざっと茂みに何かが落ちるような音が、次第に近づいている。やがて白い角を生やした褐色の体毛におおわれた一頭の鹿の姿が認められるようになった。
 八幡宮への道中、先を急ぐ狐姿の秘鍵に遅れじと睦月(むつき)も鹿姿で跳ねながら後をついていった。おおむね順調に進んでいた。何とか八幡宮まであと少しの場所に達したその時、秘鍵が急に立ち止まったかと思うと、じっと低く伏したまま動かなくなった。(いぶか)しく思っていると、また急に起き上がった秘鍵が、
「ちょっと寄り道します」と言うが早いか、北方向に駆け出した。
 その速さといったら、まさに驚愕に値するものだった。
 雨はやみ、星々が樹冠の隙間から覗けるようにはなっていたが、生い茂る樹々が濃い闇を作り出している、御行幸道(みゆきみち)を大きく外れた道なき道を、まったく迷う様子もなく、ためらうことなく、これまでの道中とは比べものにならないほどの速度で突き進んでいく。(またた)く間に睦月は離されていった。かろうじて遠目に見える鬼火を頼りにその後を追っていった。
 かなり離されて、もうおぼろげにしか視認できなくなった頃、鬼火がやっと止まった。
 何とか追いついた。荒い呼吸を繰り返しながら人型に変化して秘鍵たちに近づいていった。
 あれは、隊長の傷を癒した天満宮の眷属。タマの服装とその身体の大きさからそう認識した。倒れているようだが、何かあったのだろうか。それにあの娘。眷属のようだが誰だ?それまでヨリモと特に交流することがなかった睦月はその存在を知らなかった。
 不明瞭な状況にもやついた感覚を睦月が抱いていると、すっと秘鍵が立ち上がった。ヨリモはその姿を見つめていた。長髪長身の眷属の視線が重なる。
「消耗が激しい。身体を繋ぎ止めているのが不思議なほどだ。このままでは、恐らく、回復することは難しい」
 ヨリモはそれまで腰を浮かせてじっと秘鍵の姿を見ていたが、そう言われてすとんと腰を下ろしてへたり込んだ。身体の芯から力が抜けていた。思考する力さえどこかにいったよう。
 ただ呆然とタマを見つめる。まだ分裂ははじまっていない。でも、ピクリとも動かない。秘鍵はただ、目を閉じ沈痛な様子で立っていた。そのかたわらに睦月が進み出る。
 昨日、東野村(とうのむら)の湖畔で、隊長と三輪神社の第一眷属を治療していた眷属。自分が問答無用で斬りつけた相手だ。ただ、今、その小さな身体が力なく横たわっている様子を見ていると何とも言えぬ憐憫(れんびん)の情を抱かざるを得なかった。自分の身体を削って他の眷属を救おうとする、自分の正しいと思う道を迷わずに進む、こんなに小さいのに……ふと、助けてあげたい、と睦月は思った。
 その途端、左腕が白く輝き、意思と無関係に前に伸びていった。すうっと伸びて、タマの身体に向かい、達した。

 ―――――――――――

 僧兵姿の山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の眷属たちに囲まれながら、マサルは日吉村の御行幸道を上隠山(かみかくしやま)の麓に向かって進んでいた。
 日吉村の南西側をほぼ占めるように連なる峰々を総称して上隠山と言う。その最頂部はこの郷の最高峰であり、三輪山のように秀麗な山容ではないが、その人を寄せつけぬ峻険さや威容によって、古くより聖山として信仰の対象となっていた連峰であった。
 その連なりは山の神のものとして永らく禁足地であったが、平安時代、叡山の修験者、相満(そうまん)が修行場所を求めて流れ着き、伏龍寺(ふくりゅうじ)を開基して以来、霊場として崇拝されてきた。相満は禁足地に踏み入る代わりに麓に社殿を建造し、この山の神として大山咋神(おおやまぐいのかみ)(まつ)り鎮めた。それが山王日枝神社の創建だった。それ以来、山王日枝神社は麓の集落に豊かさをもたらす山の神として、また伏龍寺と修行霊場の守護神として崇敬されてきた。
 その山王日枝神社へとマサルたちは向かっていた。境内に立つ杉の大木や楠の威容が闇の中、浮かんでいるのが見えている。もう間もなくたどり着く。
 雨はすでにやんだと言って差し支えない程度の霧雨。道中、背後の春日村から聞こえてきていた地揺れをともなう轟音や雷鳴もやんでいる。不穏なことこの上ない噪音(そうおん)だった。いった何が起こったのか気になったが、今は静謐(せいひつ)そのもの。それに他の僧兵たちが自分たちと合流するまでの間に道中の禍い者をおおよそ掃討してくれていたようで何らとどまることなく進むことができた。本当に、この男を背負ってからこんな状況にも関わらず着実に進むことができている。これも大神様の大御神意(おおみごころ)なのだろうか。
 道中、マサルは他の僧兵たちに迎えにきた訳を訊いていた。この者たちが我を助けるために来たとは思えなかった。何か理由があるはずだった。
(ばあ)から伝達があってな。お前が帰ってくる、重い荷物を背負って。道には禍い者が満ちている。早う迎えにいけ。行かぬならもう薬を作ってやらんぞ。お香も作ってやらんぞ、と口やかましく言い募る。薬がなくなっても当座に問題はないだろうが、お香がないと焼香ができぬ。それは困る。だから仕方なく迎えにきた」
 婆たちはさすがに聡いな。とっくに我が帰ってきたことに感づいていたようだ。そう思うと今も婆たちに見つめられている気がした。いつものことではあるが。この村の中で婆たちの目と耳に気づかれずに移動できる者などいない。常に見張られ、常に聞かれている。婆たちは数多いる眷属の中でも特に異能を備え、一目置かれている存在だった。
 婆の視線を感じながら進み続けていると社の方から僧兵の一人が駆けてきた。
「大神様は今、春日明神(かすがみょうじん)の招きに応じて御霊(みたま)を分けておられる。参じても何らお応えにならぬだろう」
 あの娘だな、マサルは独り()ちた。御霊を分けると当然、それだけ力が弱まる。だから御霊を分けている間は神々とて活動を抑制する。しかし、眷属にもお会いになられないとは、かなりの量の御霊をお分けになられたのだな。それだけの量の御霊があの娘の中に入りきるものなのだろうか。器としての娘の容量を遥かに超えてしまうのではないだろうか。しかし、先ほどの地揺れや雷鳴のこともある。神々は確かに力を使われている。ということは()(しろ)としてあの娘の身体が機能しているということだろう。
 マサルとてもこのような状況は初めてである。これからどうなるか皆目見当がつかない。あの娘が依り代としての勤めを果たせればよいが、と思いつつ、自分は自分が成すべきことをしなければ、と切り替えた。
 さて、大神様に会えないとなると、婆たちのところに直接行くか、とマサルは決めた。もともとそちらが主な目的だったし、荷を背負ってもいるので好都合と言えば好都合。大神様には落ち着いてからまた奉告(ほうこく)しよう。
「我は、このまま婆たちの所に行きます。みなはこのまま村にいる禍い者たちを掃討してください。禍い者を降らせていた雨はやみましたが、災厄の(いまし)めが解かれた現状、何があるか分かりません。禍い者がいなくなった後も麓に人数を残し交代で警戒に当たってください」
 マサルはタカシを背負っていたために少し前傾姿勢だったが、それでも毅然とした態度でごく自然に言い放った。他の眷属たちは、それまで指令を発する場合、遠慮がちに、相手の心情を探りながら、言葉を選びつつ発していたマサルが、何ら遠慮のない様子で指令を発してきたことに違和感を覚えた。
 マサル自身、気づいていなかったが、三輪神社(みわじんじゃ)で消滅寸前の目に遭いながらも何とか九死に一生を得て以来、彼の中で周囲への遠慮や怖れの感じ方が変わっていた。それを意識する濃度がかなり薄くなっていた。だから特に遠慮せずに指令を発していた。
 山王日枝神社の眷属たちは、改めてマサルが第一眷属だったことを思い出した。するとその指令を聞かなければならないかもという気になった。それに婆たちのこともある。ここは逆らうべきではない。
「分かった。掃討後も三交代で要所に見張りを立てよう。だから、ちゃんと婆に我らがそなたに手を貸してやったことを伝えておいてくれ。頼んだぞ」と言うが早いか、眷属たちはそのまま四方に散っていった。
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