第十四章十二話 世界が変わる瞬間
文字数 5,771文字
待ち合わせ場所に着くと、いつも彼は寂しそうな顔をしていた。
周りにどれだけ人がいても、どんなにたくさんの音や色が彼を包んでいたとしても、彼の心は曇っているよう。何か大きな空虚を胸の中に抱えているような、ただ沈鬱な顔をしている。でも私の姿を見つけると一瞬にして暖かな優しい陽の光にその空虚が満たされる。その様子がはっきりとした実感としてよく分かる。だって私も同じだから。
小さい頃から自分が欠けているような気がしていた。どんなに楽しくても、いくら喜んでいても、何か足りなかった。寂しさがじっと心の奥底に潜んでいた。
あたしは何かを失くしている。成長するに連れてそう思った。
失くした欠片、それがどんなものなのか、人なのか物なのかも分からなかったから探しようもない。たぶん気のせい、何かの勘違いだと思おうとするけれど、いつまでも失くした感覚が消えてくれない。きっと、そんな風に感じているのは、寂しがり屋でほしがりな自分のせいなのだろう思っていた、あの日までは。
初めて彼に会ったのは、近所のスーパー。春休みの間だけ親戚の経営している小さなスーパーでアルバイトしていた時だった。
バックヤードから扉を開いて店内に入る。そこにちょうど彼がいた。私に背を向けて商品を眺めていた。その姿が視界に入ったとたん、私はなぜか彼から目が離せなくなった。そして彼が振り向いた。
視線が重なったとたん、私の中に空いていた、恐ろしく複雑な形をした空洞にピタリとその欠片が収まった。生まれて初めて味わった感覚。自分が満たされていく。見るもの聞くものすべての意味合いが変化した気がした。世界が生まれ変わった気がした。
でも、それはあくまで感覚的。どう自分に説明して、どう行動したらいいのか分からない。どうにかしたい、どうにかしないといけない気はした。でも、それができるほど私は私を信用していない。私は悪いコだ。自分の幸せなんて望んではいけない、私が幸せになったら伯母さんに悪い。だから私は何もしなかった。彼とはそのスーパーであと一回会った。でも、何もしなかった。それきりだった。
それから時折、夢を見るようになった。とても強く記憶に残る夢。それはもともと私の中にあって、ただ思い出しているだけ、と思えるようなはっきりとした詳細な夢。そこにはいつも彼や彼に似た男の人がいた。
その夢たちは私の恋愛願望、結婚願望の現れなのだろうか?と思った。ただ、そんな夢をよく見たせいか、何日、何か月、何年経っても彼のことが忘れられなかった。たった数回会っただけで言葉も満足に交わしていない彼のことが忘れられずに、会えなくて、悲しくて、苦しくてどうしようもなかった。他の何ものでも気は紛れず、心はいつも曇っているように晴れ渡ることがなかった。
そして初めて会ってから五年が経った頃、私たちは再び出会った。それまで彼の気配を感じたことは何度かあった。もしかしたら彼がいる、と思うことはあった。でも会えなかった。でも五年経って再び会った。彼が私を見つけてくれた。きっと五年間、彼は私との再会を望み、求め続けてくれたのだろう。
私の大切な欠片、失うことなど考えられない。でも、彼は、彼は……
リサの脳裏が、先ほど身体を黒い槍で貫かれていたタカシの姿を大きく映し出していた。助けないと、私が彼を、リサは彼の落ちていった水面を見渡す。どこにもその姿がない。行かないと、彼女は自分を包んでいる黒く厚い膜から出ようと思った。しかし身体が動かない。言うことを聞かない。
お前はここで大人しくしていろ、俺の言うことを聞け、というショウタ兄ちゃんの声が自分を包んでいる黒い膜から響いてくる。
リサちゃん、どこに行くの?ここにいて、伯母さんを一人にしないで、ね、お願い、という伯母さんの声も聞こえる。
何を考えているんだ?自分が何をしたか分かっているのか?自分のことしか考えていないのか?自分さえよければそれでいいのか?という周囲にいる喪服を着た人たちの声なき声。
うっざ、また余計なことするつもり?何、調子に乗ってんの。本当にキモイんだよね、こっち見ないでよ、聞こえるように内緒話を言うクラスメイトの声。
そんな声たちが私の行動を制限しようとする。私の心を下向きにしようとする。
でも、
でも、
そんなことより、
私には、タカシが大事。
こんな私を求めて、見つけ出してくれた。
誰に、何を言われても、関係ない。
私が彼を助ける。
本当に大切なものを、私は守る。
タカシが水中に没すると同時にマサルはその身体を掴んで岸に向けて泳いだ。カツミが二人に襲い掛かる黒い槍 を鎌 で迎撃する。ただ、彼も傷だらけで、時間とともに傷が増えていく。次第に気が遠くなっていく。ふとタツミが自分のことを呼んでいる気がした。それもこれまでに見たこともない笑顔で。それではっと我に返る。あんな満面の笑顔を兄が見せるはずがない。まったく縁起でもない。兄者、しゃしゃり出てくるな。
マサルは泳ぎ続ける。しかし彼も重傷を負っている。頭巾で傷口を縛って身体の構成要素が漏れ出ないようにはしていたが、そうでなければもう動けなくなっているほどだった。だから途中で前に進めなくなった。間もなく力尽きてしまいそうだった。その時、激しい水流が彼を襲った。ああ、流される、巻き込まれる、そう思うと同時にぱっと視界が開けた。周囲にあった水が消えた。代わりに強烈な風が吹きつけてくる。
玉兎 が渾身の息吹を放ち、操ってつむじ風をつくり満々とした水を巻き込み移動させてリサの背後へと追いやっていた。
「我が名は恵那彦命 。この恵那郷の地主神である我が災厄に命ずる。我の持つこの玉 に御霊 を遷し鎮まれ」
水の消えた地表を玉兎は、片手でつむじ風を操り、片手にタマとヨリモの成れの果てである玉を胸高に持ちながらリサの方へと歩み寄っていた。彼としては先ほどまで風を操ることなどしたことがなかったし、他人を攻撃することにも慣れていなかったので、それまで何となく力を制御していた。しかしタマとヨリモの最期を見届けて、そんな自分を嫌悪した。自分に腹が立った。どうにか二人の願いを叶えてやりたいと思った。自分は神より後を託された。しかし二人の心からの願いを無視するようならその資格がない気がする。自分の力のすべてを放出してでも、必ず叶えてやらなければならない、そんな気が無性にしていた。
リサを包んでいる暗色はその命 に何ら応える様子がない。その代わりに彼に向かって黒槍を伸ばす。地に降り立ったサホとカツミがその攻撃を防ぐ。
「無名な神の言葉なんて災厄じゃなくても聞く訳ない。もう少し考えてから言う。じゃないと恥ずかしい思いする」マガが自分を背負っている玉兎にだけ聞こえる声で言う。
「うっさいな、何でも試してみないとできるかどうか分からないだろ。それよりお前、いつまで休んでんだ。そろそろ仕事しろ、俺を守れ」
「やれやれマガ使いが荒いなあ。仕方がない、我もまだ力が回復してないけど、守ってやる。感謝しろ」
そう言うとマガは自分たちに向かって伸びてくる黒い槍に向けて無数の針を伸ばした。その針は次々に黒い槍に突き刺さった。太さ強さでは黒い槍の方が優勢だったが、数の上ではマガの針が勝っていた。だからマガの針が刺さった黒い槍はその場に動けなくなり、そこをサホが何度も跳躍して切断した。
その間にナミはタカシのかたわらに降り立った。
タカシは、力を使い果たしうずくまっているマサルの横で力なく横たわっていた。もしかして、もう……ナミの胸の内はざわついた。こんなところであなたは終わってしまうの?もうダメなの?
黒い槍が彼女たちにも伸びてくる。その気配を察知してナミは迎撃する。タカシの状態を確認する間もなく次々に黒槍が伸びてくる。もう本当にうっとうしい。いつになったらこの攻撃やむのかしら。そう思っている間にふらふらと一羽のコウモリが飛んできて、タカシのもとにたどり着いたとたんに人型に変化 した。
「あいたたた、ちょっとやられちゃったな」と言いつつルイス・バーネットが肩を回し、腰を伸ばしていた。そしてタカシに目をやるとすぐに屈みこんでその状態を診た。
身体にいくつも穴が空いている。血が流れ出ている。もう生気が感じられない。
「どうなの?」ナミが振り返らずに問う。
「……ダメだ。もう助からない」ルイス・バーネットはそう答えるしかなかった。
「玉兎殿、その玉は?」蝸牛 は剣を手に玉兎たちの前面に立ち、攻撃を防ぎながら訊いた。
「これは八幡と稲荷の眷属たちの成れの果てだ。あいつらは消滅する代わりにこの玉になった。俺に、この玉に災厄の霊魂を鎮めるように言い残して」
「玉に霊魂を鎮める?どのように?」
「分からん。災厄に声を掛ければ遷るかと思ったが、俺じゃ言霊 が足りないみたいだ」
「じゃどうしたら?」
「だから分からないって言ってるだろ」
と言われて二の句を継げずにいた蝸牛は、その視線の先に、自分たちと依 り代 の娘との間にいるナミとルイス・バーネットの姿を見つけた。そうだ、あのひとなら。
「玉兎殿、我にその玉を託してくださらぬか。我に言霊の使い手の心当たりがある。その者なら災厄の霊魂を遷すことができるかもしれん」
玉兎は蝸牛に対し朴訥 で嘘の吐けない眷属だという印象を持っていた。だからその蝸牛が自分に対し、毅然とそう言い放つことを疑う気にはなれなかった。彼に任せれば大丈夫な気がした。だから玉を蝸牛に託し、自分が前面に立ち、その後についてこさせた。
リサは横たわるタカシの姿を見つめながら必死に手を伸ばした。自分に何ができるのかなんて分からない。でも、私は彼のいる所に行かなければならない。彼のそばにいたい。
頭の中、自分を包む濃密で重苦しい闇を掻き分けながら手を伸ばす。闇が押し寄せてくる。自分を圧 し潰そうと、自分を闇に染めようと、自分を消そうと押し寄せてくる。
たくさんの声が聞こえてくる。自分をその場にとどめようと、自分の気持ちを萎えさせようと、否定的な言葉ばかりを繰り返す。やめて、やめて、やめて、そう呟きながら闇とともにその声を掻き分けて手を伸ばす。今、身体は動かない。でも頭の中でこの闇から脱け出ることができれば、きっと私はこの場を脱け出してタカシのところに行ける。そう信じて必死に闇を掻き分けた。闇の抵抗が強くなっていく。もっと押し寄せてくる。苦しい。潰されそう。意識が薄くなっていく。消えてしまいそう。もう動けない。でも、そんなのダメ。こんな所で諦めたくない。だから手を伸ばす。右手をタカシに向けて、必死に伸ばす。
タカシ、目を覚まして、起きて、お願い、あたしの手を、手を取って……
ぼうっと彼女の伸ばした右の手首が光を発した。その光が闇を掻き分けながらすうっと先へ伸びていった。頼りなく、細々とした光。宙を這うように伸びていく。タカシに向かって、ただ一直線に。
自分を呼ぶ声が聞こえる。
その声に途切れていた意識が目を覚ました。
頭がぼんやりする。身体中がだるい。まだ寝足りない気がする。
でも呼ばれている。どんな状況でも、自分を喜ばしてくれる声。何より好きな声。
別段、特徴的な声ではない。でも、いつも暖かく感じるその声に応えたい、いつでも、どこでも。
だから彼は目を開いた。その声の主を見出すために。
自分の右手首が光を発していた。また手首だけではなく自分の身体に空いていた穴からも白い光が漏れている。痛みはない。復元しているような気がする。そしてよく見ると自分の右手首に光の線が巻きついていた。その線をたどるとその先には暗色に包まれたリサの右手首。とっさに彼は覚醒した。そうだリサを助けないと。寝ている場合じゃない。
「驚いた。君には本当に驚いた。アザミ、タカシ君が生き返った」とルイス・バーネットの声が聞こえる。
「ふん、その人のことで驚くのはもう飽きたわ」ナミはチラリと振り返るとそう言い、更に黒い槍を迎撃した。ニヤリと笑いながら。
そんな彼らに後方から蝸牛たちが近づいた。
「聴いてくれ、これからこの玉に災厄の霊魂を遷し鎮める。協力してほしい。そなたの言霊を発する力が必要だ」まっすぐルイス・バーネットに視線を送りながら蝸牛が言う。
「その玉に災厄を?言霊で?」突然のことにルイス・バーネットは少し戸惑いつつ訊き返した。霊魂を遷す?天降 り?それなら心当たりがある。でも……「僕は言霊を発して三輪明神 を天降らせようとしたけど、できなかった。天降りは依り代の民じゃないとできないんじゃないか?」
その声にうずくまっていたマサルが反応した。
「それは心配ないと思います。そなたほどの言霊の使い手なら、ちゃんとした手順で降神 の儀を行えば、どんな相手も招くことができるはずです。我が指南します」
三輪神社で僧兵たちを操った言霊能力を実際に目にしたマサルは、この男なら間違いなくできるだろうと確信していた。
「分かった」そういうことならとルイス・バーネットは了承した。するとすぐさま蝸牛が、
「みんな、これから降霊の儀を行う。災厄を玉に鎮める。このひとを守れ。大神様のため、この郷のため、各村のため、民のため、すべてを守るためにこのひとを命を懸けて守らねばならぬ。力を合わせよう。一緒にすべてを守ろう。みんな集まってくれ」とぐわんぐわんと空間に響き渡る大音声を発した。
ルイス・バーネットのもとに蝸牛、玉兎、マガ、サホ、カツミが集まる。マサルも薙刀を杖にして立ち上がる。先ほどまで気を失っていたクロウも目を覚まして飛んできた。
「ヒフミ、霊力ももう残り少ないから、さっさと終わらせてきてよ、いいわね」
そのナミの言葉に、ルイス・バーネットは彼女に正対すると、右手のひらを胸に当て、少し頭を下げながらにこやかに答えた。
「仰せのままに」
ナミはふんとそっぽを向いた。彼女はまだ動けないタカシのもとを離れられない。彼としてもさっさと終わらせて彼女のもとに戻ってきたかった。
「さあ、みんな行こうか。早く終わらせて地上に戻ろう」
彼が言いながら歩き出すと、眷属たちも従ってリサを包み込んでいる災厄に向かって進みはじめた。
周りにどれだけ人がいても、どんなにたくさんの音や色が彼を包んでいたとしても、彼の心は曇っているよう。何か大きな空虚を胸の中に抱えているような、ただ沈鬱な顔をしている。でも私の姿を見つけると一瞬にして暖かな優しい陽の光にその空虚が満たされる。その様子がはっきりとした実感としてよく分かる。だって私も同じだから。
小さい頃から自分が欠けているような気がしていた。どんなに楽しくても、いくら喜んでいても、何か足りなかった。寂しさがじっと心の奥底に潜んでいた。
あたしは何かを失くしている。成長するに連れてそう思った。
失くした欠片、それがどんなものなのか、人なのか物なのかも分からなかったから探しようもない。たぶん気のせい、何かの勘違いだと思おうとするけれど、いつまでも失くした感覚が消えてくれない。きっと、そんな風に感じているのは、寂しがり屋でほしがりな自分のせいなのだろう思っていた、あの日までは。
初めて彼に会ったのは、近所のスーパー。春休みの間だけ親戚の経営している小さなスーパーでアルバイトしていた時だった。
バックヤードから扉を開いて店内に入る。そこにちょうど彼がいた。私に背を向けて商品を眺めていた。その姿が視界に入ったとたん、私はなぜか彼から目が離せなくなった。そして彼が振り向いた。
視線が重なったとたん、私の中に空いていた、恐ろしく複雑な形をした空洞にピタリとその欠片が収まった。生まれて初めて味わった感覚。自分が満たされていく。見るもの聞くものすべての意味合いが変化した気がした。世界が生まれ変わった気がした。
でも、それはあくまで感覚的。どう自分に説明して、どう行動したらいいのか分からない。どうにかしたい、どうにかしないといけない気はした。でも、それができるほど私は私を信用していない。私は悪いコだ。自分の幸せなんて望んではいけない、私が幸せになったら伯母さんに悪い。だから私は何もしなかった。彼とはそのスーパーであと一回会った。でも、何もしなかった。それきりだった。
それから時折、夢を見るようになった。とても強く記憶に残る夢。それはもともと私の中にあって、ただ思い出しているだけ、と思えるようなはっきりとした詳細な夢。そこにはいつも彼や彼に似た男の人がいた。
その夢たちは私の恋愛願望、結婚願望の現れなのだろうか?と思った。ただ、そんな夢をよく見たせいか、何日、何か月、何年経っても彼のことが忘れられなかった。たった数回会っただけで言葉も満足に交わしていない彼のことが忘れられずに、会えなくて、悲しくて、苦しくてどうしようもなかった。他の何ものでも気は紛れず、心はいつも曇っているように晴れ渡ることがなかった。
そして初めて会ってから五年が経った頃、私たちは再び出会った。それまで彼の気配を感じたことは何度かあった。もしかしたら彼がいる、と思うことはあった。でも会えなかった。でも五年経って再び会った。彼が私を見つけてくれた。きっと五年間、彼は私との再会を望み、求め続けてくれたのだろう。
私の大切な欠片、失うことなど考えられない。でも、彼は、彼は……
リサの脳裏が、先ほど身体を黒い槍で貫かれていたタカシの姿を大きく映し出していた。助けないと、私が彼を、リサは彼の落ちていった水面を見渡す。どこにもその姿がない。行かないと、彼女は自分を包んでいる黒く厚い膜から出ようと思った。しかし身体が動かない。言うことを聞かない。
お前はここで大人しくしていろ、俺の言うことを聞け、というショウタ兄ちゃんの声が自分を包んでいる黒い膜から響いてくる。
リサちゃん、どこに行くの?ここにいて、伯母さんを一人にしないで、ね、お願い、という伯母さんの声も聞こえる。
何を考えているんだ?自分が何をしたか分かっているのか?自分のことしか考えていないのか?自分さえよければそれでいいのか?という周囲にいる喪服を着た人たちの声なき声。
うっざ、また余計なことするつもり?何、調子に乗ってんの。本当にキモイんだよね、こっち見ないでよ、聞こえるように内緒話を言うクラスメイトの声。
そんな声たちが私の行動を制限しようとする。私の心を下向きにしようとする。
でも、
でも、
そんなことより、
私には、タカシが大事。
こんな私を求めて、見つけ出してくれた。
誰に、何を言われても、関係ない。
私が彼を助ける。
本当に大切なものを、私は守る。
タカシが水中に没すると同時にマサルはその身体を掴んで岸に向けて泳いだ。カツミが二人に襲い掛かる黒い
マサルは泳ぎ続ける。しかし彼も重傷を負っている。頭巾で傷口を縛って身体の構成要素が漏れ出ないようにはしていたが、そうでなければもう動けなくなっているほどだった。だから途中で前に進めなくなった。間もなく力尽きてしまいそうだった。その時、激しい水流が彼を襲った。ああ、流される、巻き込まれる、そう思うと同時にぱっと視界が開けた。周囲にあった水が消えた。代わりに強烈な風が吹きつけてくる。
「我が名は
水の消えた地表を玉兎は、片手でつむじ風を操り、片手にタマとヨリモの成れの果てである玉を胸高に持ちながらリサの方へと歩み寄っていた。彼としては先ほどまで風を操ることなどしたことがなかったし、他人を攻撃することにも慣れていなかったので、それまで何となく力を制御していた。しかしタマとヨリモの最期を見届けて、そんな自分を嫌悪した。自分に腹が立った。どうにか二人の願いを叶えてやりたいと思った。自分は神より後を託された。しかし二人の心からの願いを無視するようならその資格がない気がする。自分の力のすべてを放出してでも、必ず叶えてやらなければならない、そんな気が無性にしていた。
リサを包んでいる暗色はその
「無名な神の言葉なんて災厄じゃなくても聞く訳ない。もう少し考えてから言う。じゃないと恥ずかしい思いする」マガが自分を背負っている玉兎にだけ聞こえる声で言う。
「うっさいな、何でも試してみないとできるかどうか分からないだろ。それよりお前、いつまで休んでんだ。そろそろ仕事しろ、俺を守れ」
「やれやれマガ使いが荒いなあ。仕方がない、我もまだ力が回復してないけど、守ってやる。感謝しろ」
そう言うとマガは自分たちに向かって伸びてくる黒い槍に向けて無数の針を伸ばした。その針は次々に黒い槍に突き刺さった。太さ強さでは黒い槍の方が優勢だったが、数の上ではマガの針が勝っていた。だからマガの針が刺さった黒い槍はその場に動けなくなり、そこをサホが何度も跳躍して切断した。
その間にナミはタカシのかたわらに降り立った。
タカシは、力を使い果たしうずくまっているマサルの横で力なく横たわっていた。もしかして、もう……ナミの胸の内はざわついた。こんなところであなたは終わってしまうの?もうダメなの?
黒い槍が彼女たちにも伸びてくる。その気配を察知してナミは迎撃する。タカシの状態を確認する間もなく次々に黒槍が伸びてくる。もう本当にうっとうしい。いつになったらこの攻撃やむのかしら。そう思っている間にふらふらと一羽のコウモリが飛んできて、タカシのもとにたどり着いたとたんに人型に
「あいたたた、ちょっとやられちゃったな」と言いつつルイス・バーネットが肩を回し、腰を伸ばしていた。そしてタカシに目をやるとすぐに屈みこんでその状態を診た。
身体にいくつも穴が空いている。血が流れ出ている。もう生気が感じられない。
「どうなの?」ナミが振り返らずに問う。
「……ダメだ。もう助からない」ルイス・バーネットはそう答えるしかなかった。
「玉兎殿、その玉は?」
「これは八幡と稲荷の眷属たちの成れの果てだ。あいつらは消滅する代わりにこの玉になった。俺に、この玉に災厄の霊魂を鎮めるように言い残して」
「玉に霊魂を鎮める?どのように?」
「分からん。災厄に声を掛ければ遷るかと思ったが、俺じゃ
「じゃどうしたら?」
「だから分からないって言ってるだろ」
と言われて二の句を継げずにいた蝸牛は、その視線の先に、自分たちと
「玉兎殿、我にその玉を託してくださらぬか。我に言霊の使い手の心当たりがある。その者なら災厄の霊魂を遷すことができるかもしれん」
玉兎は蝸牛に対し
リサは横たわるタカシの姿を見つめながら必死に手を伸ばした。自分に何ができるのかなんて分からない。でも、私は彼のいる所に行かなければならない。彼のそばにいたい。
頭の中、自分を包む濃密で重苦しい闇を掻き分けながら手を伸ばす。闇が押し寄せてくる。自分を
たくさんの声が聞こえてくる。自分をその場にとどめようと、自分の気持ちを萎えさせようと、否定的な言葉ばかりを繰り返す。やめて、やめて、やめて、そう呟きながら闇とともにその声を掻き分けて手を伸ばす。今、身体は動かない。でも頭の中でこの闇から脱け出ることができれば、きっと私はこの場を脱け出してタカシのところに行ける。そう信じて必死に闇を掻き分けた。闇の抵抗が強くなっていく。もっと押し寄せてくる。苦しい。潰されそう。意識が薄くなっていく。消えてしまいそう。もう動けない。でも、そんなのダメ。こんな所で諦めたくない。だから手を伸ばす。右手をタカシに向けて、必死に伸ばす。
タカシ、目を覚まして、起きて、お願い、あたしの手を、手を取って……
ぼうっと彼女の伸ばした右の手首が光を発した。その光が闇を掻き分けながらすうっと先へ伸びていった。頼りなく、細々とした光。宙を這うように伸びていく。タカシに向かって、ただ一直線に。
自分を呼ぶ声が聞こえる。
その声に途切れていた意識が目を覚ました。
頭がぼんやりする。身体中がだるい。まだ寝足りない気がする。
でも呼ばれている。どんな状況でも、自分を喜ばしてくれる声。何より好きな声。
別段、特徴的な声ではない。でも、いつも暖かく感じるその声に応えたい、いつでも、どこでも。
だから彼は目を開いた。その声の主を見出すために。
自分の右手首が光を発していた。また手首だけではなく自分の身体に空いていた穴からも白い光が漏れている。痛みはない。復元しているような気がする。そしてよく見ると自分の右手首に光の線が巻きついていた。その線をたどるとその先には暗色に包まれたリサの右手首。とっさに彼は覚醒した。そうだリサを助けないと。寝ている場合じゃない。
「驚いた。君には本当に驚いた。アザミ、タカシ君が生き返った」とルイス・バーネットの声が聞こえる。
「ふん、その人のことで驚くのはもう飽きたわ」ナミはチラリと振り返るとそう言い、更に黒い槍を迎撃した。ニヤリと笑いながら。
そんな彼らに後方から蝸牛たちが近づいた。
「聴いてくれ、これからこの玉に災厄の霊魂を遷し鎮める。協力してほしい。そなたの言霊を発する力が必要だ」まっすぐルイス・バーネットに視線を送りながら蝸牛が言う。
「その玉に災厄を?言霊で?」突然のことにルイス・バーネットは少し戸惑いつつ訊き返した。霊魂を遷す?
その声にうずくまっていたマサルが反応した。
「それは心配ないと思います。そなたほどの言霊の使い手なら、ちゃんとした手順で
三輪神社で僧兵たちを操った言霊能力を実際に目にしたマサルは、この男なら間違いなくできるだろうと確信していた。
「分かった」そういうことならとルイス・バーネットは了承した。するとすぐさま蝸牛が、
「みんな、これから降霊の儀を行う。災厄を玉に鎮める。このひとを守れ。大神様のため、この郷のため、各村のため、民のため、すべてを守るためにこのひとを命を懸けて守らねばならぬ。力を合わせよう。一緒にすべてを守ろう。みんな集まってくれ」とぐわんぐわんと空間に響き渡る大音声を発した。
ルイス・バーネットのもとに蝸牛、玉兎、マガ、サホ、カツミが集まる。マサルも薙刀を杖にして立ち上がる。先ほどまで気を失っていたクロウも目を覚まして飛んできた。
「ヒフミ、霊力ももう残り少ないから、さっさと終わらせてきてよ、いいわね」
そのナミの言葉に、ルイス・バーネットは彼女に正対すると、右手のひらを胸に当て、少し頭を下げながらにこやかに答えた。
「仰せのままに」
ナミはふんとそっぽを向いた。彼女はまだ動けないタカシのもとを離れられない。彼としてもさっさと終わらせて彼女のもとに戻ってきたかった。
「さあ、みんな行こうか。早く終わらせて地上に戻ろう」
彼が言いながら歩き出すと、眷属たちも従ってリサを包み込んでいる災厄に向かって進みはじめた。