第十二章八話 焦燥と苦痛の果てに

文字数 5,218文字

 修行峰は大別して三つの巨大な岩石で構成されていた。その一つ一つに名がつけられており、それぞれ下から(かい)の岩、(じょう)の岩、()の岩という。
 凹凸が少なく、身体を任せられるような窪みや突起などもなく、頼りは岩壁ごとに垂れさがる鉄鎖のみ。相変わらず風も吹いている。修行峰では、その時々で左右上下いたる所から強弱こもごも吹いてくる。戒の岩崖(がんがい)を登っている途中でタカシは進めなくなった。わずかな突起に手や足を掛けて、さっさと登ってしまったマサルが崖の上から見下ろしている。
「ただ、力だけで登っても途中で力尽きてしまうぞ。道なき森の中でも地形や植生の具合で通りやすい場所があるだろ?さっきマサル殿はこの崖の通りやすい道を示してやろうと先に登っていったのに、そなた何も考えずに見ていたな」
 声の出せないタカシはただ黙るしかない。それにたとえ話ができたとしても、そんな余裕もない。
「この(ぎょう)にはすべて意味がある。見えるもの、聞こえる音、話す言葉、たとえ他愛もなく意味がなく思えるものにも意味がある。どれだけそれに気づけるかが肝要だぞ」
 クロウは時々風に流され、タカシの右や左に移動しながら空中にとどまっている。下から風が吹けば、羽を広げ、角度を調節しながら浮いている。上から風が吹けば、羽ばたきながら高度を維持している。左右から風が吹く時は、身体を傾けてあまり流されないようにやり過ごしている。特に意識している様子でもなく、自然にそういった動きをしている。
「さあ、我に続いて登ってください」気づくとマサルが左斜め上にいた。片手と片足を突起に掛け顔をタカシに向けている。そしてタカシが頷くと、今度はゆっくりと、垂れた鎖を中心に右に左に道を取りながら登っていく。
 後を追う。手に鎖が喰い込む。腕や足の筋肉が悲鳴を上げる。風に流され思うような位置にたどり着けない。しかし、焦らない。風の向きや量を感じて、それに自分を対応させていく。焦って無理に抵抗しようとしても、余計に時間が掛かるばかりだということに、彼もやっと気づきはじめた。
 その崖を登り切ったとたん、全身に力が入らなくなった。だからその一畳ほどの台地に仰向けになって、しばらく横たわっていた。
「行きましょう。まだ先は長いですよ。まだ三分の一も登っていない」マサルがタカシの顔の真上から言う。
 タカシは、もう動けない。しばらく待ってくれ、という意思を込めて首を振った。
「では、仕方ないですね」と言うとマサルはタカシの浄衣(じょうえ)を掴んですぐさま立たせ、そのまま崖の方へと押していく。慌ててタカシは両足を踏ん張りながら、その腕を両手で掴んだ。
「ほら、まだ動けるじゃないですか。ここで休んでいるようじゃ、満行するのは難しいですよ」
 そしてまた先導して次の崖を登っていく。タカシは返す言葉もなかった。あっても声は出せないので変わりないのだが。仕方なくタカシはまた新しい鎖を掴み登りはじめた。
 次の定の岩は、先ほどより若干長く、更にほぼ垂直な箇所やそそり立っている場所もあり、体力的には更に過酷に感じられた。加えて、鎖を掴む手が、汗なのかマメが潰れたのか、ぬるりと滑って掴みづらくなっていた。
「よいか、苦しいだろう、痛いだろう、がそんな感覚は削ぎ落せ。それは、そなたが自分を守ろうとする感覚だ。しかし、ここでは自分を守ったとしても意味がない。唯一、そなたが自分を守れる道は満行することだ」
 変わらずクロウが付き添ってくれている。それだけが心強い。何とか自分の心中から湧き起る苦痛の訴えを無視しようと努める。とにかくマサルの後についていく。やがて、次第に腕や足の感覚が鈍くなってくる。頭の中に霧が出てくる。次第に濃くなっていく。すると、とんと背中を押された。
「しっかりと意識を保て。落ちればまた一からやり直しだぞ」
 気づけば、かなり後ろに身体が傾いていた。鎖を掴む手が(ゆる)んでいた。
 危ない、しっかりと意識を保っておかなければ、と思いつつまた登る。
 自分の内から湧き起こる苦痛の訴えは聞かず、ただ意識を崖を登ることだけに集中させていく、そう思っていてもこれがなかなか難しい。どうしても自分の痛みや苦しみに意識が集中していく。登ることを忘れかける。
「自分に負けるな。そなたを動かすのは、そなたの意志のみとせよ。満行することだけを考えろ。他の声に惑わされるな」
 そんな声に励まされながら、やっと崖の上に出た。恐らくクロウの掛けてくれる声がなければ途中で力尽きていただろう。何とか力を振り絞って登りきり、痛みに両手のひらを見ると血が滲み出ている。他にも気づけば岩にぶつけたか、擦れたのか浄衣(じょうえ)のいたるところがうっすら赤く染まっている。
 座り込んでいる彼の前に立ち、マサルが見下ろしている。早く立ち上がらなければ、と思いつつ膝に手を着き、言うことを聞かない身体を伸ばしていく。その肩にマサルが手を置き、再び座らせた。そして(ふところ)から白い布を出し、タカシの両手のそれぞれに巻いてやった。
「これで少しは登りやすくなるでしょう。さて、これから最後の慧の岩を登ります。見ての通り傾斜も一定ですし、掴みどころも足場もある程度ありますので、これまでよりは登りやすいと思います。ただ、長いのです。登っても、登っても頂上にたどり着けない。その長さが、焦りを生み、苦痛を生み、絶望を生みます。今までもそうですが、これからは更に自分との闘いとなります。自分に譲歩したり、自らの内から上がる悲鳴にひるめば、間違いなく山頂にたどり着くことはできません。忘れないように、自分の最大の敵は自分です。そなたは自分に勝たなくてはなりません」
 タカシは立ち上がりながら頷いた。そして最後の岩を登りはじめた。
 登りはじめてすぐにタカシはマサルの言った意味が分かった気がした。登っても登っても(いただき)が遠い。近づいている気がしない。次第に、本当に自分が進んでいるのか疑問に思えてきた。
 身体の痛みはとうに限界を超えており、力の加減もあやふやだった。思考もぼやけて想念がうまく結ばない。ただ、マサルの登るルートを確認し、手もと、足もとを見ながら黙々と進む。そしてたまに道の先を見る。
 遥か遠く感じられる。崖下で眺めた時よりも遥かに遠く。何か頂に避けられている気がする。登れば登るほど遠ざかっている気がする。自分は一生、頂にはたどり着けないのではないかという気がする。何かすごく無駄なことをしている気がする。こんなことをして何の意味があるのだろう、そもそも何でこんなことを俺はしているのだろう……
“もう、やめたら?”
 唐突に、自分の内に声が響く。そして全身に、ごく自然に溶け込んでいく……
「おいっ!」
 タカシはいきなりの大音声にはっと我に返る、と同時に足を滑らせた。ほぼ垂直な崖を滑り落ちていく。慌てて鉄鎖を掴もうとするが、両手も滑ってうまく力が入らない。ああ、落ちる、と思った途端、クロウが浄衣を掴んで止めた。
「そんなに驚くなよ。そなたが慧の岩の呪縛に捕らわれそうだったから、目を覚ましてやったのだ。大丈夫、そなたはちゃんと登っておる。その証拠に下を見ろ」
 足下を見る。定の岩や戒の岩の最上部が見下ろせる。なんだちゃんと登っていたんじゃないか。
「行く道に不安を抱くなら、来た道を振り返ってみればいい。進んでいないようでも、ちゃんと先に進んでいる。残りは確実に少なくなっておるのだ。大丈夫だ。そなたはきっと登り切れる」
 タカシは再び鉄鎖をしっかりと握り締め、足場を確かめると、また登りはじめた。
 それからタカシは何度か落ちかけた。その度にクロウが助けてやった。やがて次第に、先ほどはあんなことを言ったものの本当に大丈夫なのだろうか、とクロウは少し不安になった。まだ行ははじまったばかりなのに……
 そんなこんなで長い時間を掛け、やっとタカシは山頂にたどり着いた。
 もう、身体には少しも力が入らない。肺は破れそうで、気力も尽きている。そんなタカシにマサルが無情にも声を掛ける。
「さあ、下りましょう。戻ったらすぐに次の行がはじまります」
 タカシは仕方なく起き上がった。そこには、眼下に広がる雲海、東の空に浮かんだ朝日に金色に輝いている。どこまでも鮮烈で、どこまでも清冽に、恵那郷の最高峰から眺める絶景が広がっていた。

 ―――――――――― 

 ナミたちを尻目に災厄の分御霊(わけみたま)を宿したリサは一人、歩いていた。歩く度に、周囲にできた水溜まりや小さな流れから泥水が集まってくる。次第に彼女を包むように周囲を埋め尽くしていく。
 ああ、まただ。また私は自分の隅に追いやられている。世の中の不快なものをすべて集めて煮込んでできた濃厚なスープに()かっている気がする。このままどこに行くの?私はどうなるの?いつまでこのままなの?もう諦めるしかないの?
 あまりに濃い不快な気に彼女の心は疲れ、折れ、枯れかけていた。そもそもマコを救うために(おちい)った現状だけど、結局マコはこの世にいないのよね?黄泉(よみ)ってきっとあの世。ああ、やっちゃった、騙された。そして、きっと、もう、遅い……
 そんな悔恨に包まれたリサに向けて、急に風が吹いてきた。
 その風はやがて声となった。聞き覚えのある声、神様の声だ。
 ――我はこの恵那郷(えなごう)の地主神、恵那彦命(えなひこのみこと)。災厄に問う。そなたは()(しろ)を得た。これよりどうするのか。この郷をどうするつもりだ。
「恵那彦命様?戻ってきてくれたんですね。助けてください。マコが黄泉の国にいるんです。捜しにいかないと」
 リサの身体は立ち止まることもなく歩き続けている。周囲を囲む水の量は更に増え、ともに移動しながら周囲を警戒しているよう。
 その様子を眺めながら恵那彦命は思う。災厄の分御霊(わけみたま)はもう応えるつもりもないようだ。本体の御霊を遷し終わってこの郷をどうするか、その時の気分次第というところか。あまりにも不確定要素が多すぎる。このまま看過する訳にもいかない。
 恵那彦命はリサの身体の周りをそよぎながら回っていた。どうやら、娘はほぼ感覚を支配されているようだがまだ話はできるようだ。
 ――娘、落ち着け。黄泉に行けば二度と戻ってはこれぬ。妹のことは諦めよ。
 そんな、とリサは絶句した。すべての感覚があやふやで、はっきりとしない。そんな中、自分が何を、どうしたらいいのか、皆目見当がつかない。自分が予想していた結果とも違うし、たぶん自分ではもう、どうしようもない事態に陥っている。ただ(わら)にもすがる思いで声を上げる。
「でも、でも、諦められない。私はここで諦めるために依り代になった訳じゃない。神様なら助けてください。お願い」
 まずいな、あまりの状況に、かなり興奮している。どうにか平静を保ってもらわねば。このまま負の感情に呑み込まれてしまっては災厄の分御霊と同化してしまう。
 ――安心しろ。この郷も、そなたも、我が助ける。そのために我はここに来た。だから少し落ち着くのだ。
 そう言われて落ち着ける状況でもなく思えたが、とりあえずリサは自分を努めて抑制した。自分の感情を解き放つことは苦手だったが、抑え込むことには慣れている。
 少し経つと、リサの情動は少しばかり落ち着いてきた。ひとの言うことをよく理解し、実行できる良い子だ。それなら、と恵那彦命はふっと息を吹いて風を起こした。
 リサの身体の周りを風が巡る。ぐるぐると周り、周囲の泥水を巻き込んで竜巻のように立ち昇りリサの身体を包み込んだ。
 ――災厄よ、答えよ。答えねば、これより先に行かせる訳にはいかない。この郷をどうするつもりだ。
 リサの意識は、体内から周囲に向けて響いていく念を感じた。おんおんと多量の敵意と殺意を含んで遥か遠くまで響き渡っていく。
 その様子に恵那彦命は決心した。やむを得ない。この郷を守るため、災厄のもとへこの娘を行かす訳にはいかない。ここで分御霊だけを遥かかなたに吹き飛ばす。
 恵那彦命が息を吸い、風を集める。それに呼応するように郷中から集まる水の群れが、弾丸のような速さで恵那彦命目掛けて飛んできては、その身体をいくつも貫いた。気体となったその身体は傷つくことはもちろんなかったが、息吹(いぶき)は掻き消され放つことができなかった。 
 また水の流れは、(またた)く間に風の渦を弾き消した。そして風がやんだ後、更にリサの周囲には大量の水が集まってきた。それは次第に巨大な三頭の水龍に姿を変えた。そのうちの一頭が、リサの身体を頭に乗せ、他の二頭はいったん空中に飛び上がったかと思うと一気にリサが見下ろす地面へと回転しながら二頭混然となって突っ込み、そして大地を揺るがしながら、斜めに郷の中心に向かって、穴を穿(うが)ちながら突き進んでいった。瞬く間に、暗く大きな洞窟がぽっかりとリサの身体の下に口を開いた。
 その濃い闇をたたえた坑道は、一直線に伸びていた。災厄の本体が鎮まっている地の底へと。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み